【守屋防衛次官の告発】C

▽統一性欠く政府の普天間対応

 「秘録」には日本政府の閣僚、元閣僚、与党幹部らの名前が頻繁に出てくる。閣僚の考えも具体的だ。
 2005
10月は、普天間基地の移設先を巡る日米の折衝がヤマ場を迎えていた。
 同月25日、日米間の会議がセットされた。本来、官邸、外務、防衛の3閣僚が出席するはずだったが、細田博之官房長官と町村信孝外相は出席を見送った。その理由を「秘録」は次のように書いている。(第1章、69ページ)

「どうして2人は欠席なのかと私が尋ねると、大野大臣は言った。
 『アメリカが推している名護ライト案でいいじゃないかと、細田も町村も言うんだよ。何しろ、地元がそれでいいと言っているじゃありませんかとね。誰も防衛庁の案なんかに賛成していない。内閣府も外務省も反対しているのに、そんなにがんばるなら大野さん1人で行ってください。ローレス(国防副次官=東アジア、太平洋担当)と直接やってくださいよ。2人にそう言われたよ』
 私は大野大臣と、あくまで陸上案は死守することを確認していた」

大野長官の言葉どおりならば、細田、町村両氏は防衛庁案をほとんど相手にしていない。実は防衛庁案は、2週間前の1010日まとまったばかりだった。キャンプ・シュワブ内の「シュワブ陸上案」は、航空機の進入と旋回に問題があって修正せざるをえなくなり、代わって宿営地内の施設を撤去して辺野古崎と大浦湾の一部を埋め立てる「L字型」の宿営地案がそれだ。
 L字型案」であれば、海上に100ヘクタール余り施設が突き出すから、埋め立て方式にこだわる地元も文句はないはずだ。日本側は、この案を持って米側と協議を始めた。
 防衛庁と米側の協議は激しい応酬が続いた。米側は日本の突然の修正案に猛然と反発した。一方、この協議を冷めた目で見ていた外務省は「防衛庁の負け」を信じて疑わなかったという。
 ところが事態は逆に動き出した。小泉首相が「防衛庁案で決めるべき」とし、流れは一気に変わった。翌26日、普天間移設は辺野古崎案、つまり日本側(防衛庁)の「L字型」の宿営地案で基本合意に達した。
 守屋氏は外務省の反応を、記者情報として「外務省の首脳たちは私に対する『聞くに堪えない罵詈雑言』を怒鳴り散らしていた」と記している。

外交を専管とする外務省ならば、本来は首相の意を体して日本側の主張をすべきなのだが、「米国に良かれ」を優先させてた。実務の現場を十分経験しないで、「外交」を続けてきた外務省には、過去に日米通商摩擦問題でも似たようなことがあった。
 この日米合意は1年後に滑走路を「V字型」に2本造り、離着陸を分離する内容で移設先の名護市長と合意した。現在、滑走路をさらに海側に出す修正を沖縄側が求め交渉が続いている。
(つづく)


(10年8月19日 尾形宣夫)