【フランク永井逝く】
◎甘い歌声はもう聴けない
フランク永井が逝った。
10月27日、東京の自宅で76歳の生涯を閉じたという。宮城県の旧松山町(現在の大崎市)に生まれ、米軍キャンプのクラブ歌手を経て歌謡界に入った。昭和30年代に次々とヒット曲を出し、トップスターの座を獲得した一時代を画す歌手だった。
私には忘れがたい思い出がある。
1957(昭和32)年に出た「有楽町で逢いましょう」が爆発的なヒットとなったころの私は、まだ中学生。思春期の青臭い子ども心にも、フランク永井の低音で聞く者を包み込むようなムード溢れる歌声がしみわたった。
翌年出た「羽田発7時50分」や「西銀座駅前」、「夜霧に消えたチャコ」。そして松尾和子とのデュエット曲「東京ナイトクラブ」、1961(昭和36)年に日本レコード大賞を受賞した「君恋し」など、数え切れないヒット曲の都会的でモダンな雰囲気は、中高生には分かりもしなかったが、大人の恋の切なさを教えてくれるような気がした。
当時、親父が買ったソニーのテープレコーダーは幅40センチ、奥行き30センチ、高さ12センチほどの、今では考えられないような大型で重い機器だった。そのテープレコーダーに、テレビやラジオから流れるフランク永井の歌を片っ端から録音しては、再生して流れ来る歌に酔いしれた。
「有楽町で逢いましょう」が出る前年の56年、政府の経済白書は「戦後の復興は終わった」として、副題は「もはや『戦後』ではない」とした。
この頃から、世の中はようやく戦後の混乱も終わり、国民も生活に少しばかり余裕が表れ始めた時代だ。東京・銀座の街も華やかさを取り戻し、行き交う人々も新しいファッションに身を包んだのである。
歌詞にある一番目の
♪「ああビルのホテルのティールーム」
二番の
♪「ああ小窓にけむるデパートよ」
♪「今日の映画(シネマ)はロードショー かわすささやき」
そして三番の
♪「燃えるやさしい 街灯り ああ命をかけた 恋の花」
といった言葉は、アメリカの文化を色濃くした銀座の街の恋を優しく伝えている。
銀座の街もすっかり変わった。学生時代いきがって歩いた通りには世界の有名ブランドの豪華店舗が並び、昭和40年代の雑然とはしていたが、生活バランスが取れていた街並みはなくなった。
丸の内と銀座が街としてつながり、その銀座の片隅に「有楽町」がある。「有楽町で逢いましょう」の発祥の地は、思い出でしかなくなった。
思いついて、57年はこのほかどんな出来事があったかを調べてみた。
日本の南極越冬隊が南極大陸に初上陸(1月)、日米安保体制と憲法の矛盾を問うた米軍の砂川基地拡張に反対する「砂川事件」(7月)、聖徳太子の肖像が入った5千円札の発行(10月)、長島茂雄選手(立教大)の巨人軍入り決定(12月)―などがあった。
昭和の大スターとしては、美空ひばり、石原裕次郎の逝去はマスコミでも大きく報じられた。2人とも、芸能界にとどまらず国民的人気を集めたスーパースターだった。
墓碑銘に載ったフランク永井の思い出は尽きない。
願わくば、フランク永井の歌は正装の歌手に唄ってほしい。帽子を横ちょに被って唄うようなことだけはやめてもらいたい。
(08年11月3日)