「沖縄と私」――大雪で蘇った沖縄の本土復帰

尾形宣夫

本稿は、沖縄の普天間問題が鳩山政権の対応のまずさで混迷、全く方向性を失ってしまった今春書いた。郷里の同級生から、町の文化財記念誌に「何でもいいから書いて欲しい」と頼まれて、、「さて、何を書いたらいいか」と考え、「何でもいいなら」私の個人的な思い出でも書こうと原稿用紙に向かった。
 個人的な思い出とは、まだ日本に復帰していなかった沖縄に赴任して以来の動きである。私にそれを思い出させたのは、今春の予想だにしないような大雪だった。この大雪が奇しくも、私が沖縄に赴任する41年前と同じ日だった。
 そんな巡り合わせもあったが、書き出してみるといつの間にか長文となり、同級生の求めに応えることはできなかった。そこで、私のホームページに載せることにした。

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今年(平成22年)4月17日は、季節外れの大雪で首都圏の足が終日乱れた。激しく降る雪に街行く人は身をかがめ、おぼつかない足取りだった。その光景を見ていたら、41年前の同じ日の自分の姿が二重写しになった。

  あの日も東京地方は、前夜から降り続く雪で十数センチもの積雪となり、ビジネス街の大手町から丸の内に向かう街路は、まるで雪国の町を思わせるようだった。わずか数百メートルを歩くのに、雪に足を取られて何度も転びそうになったことか。足元は雪に埋まり、新調の背広は無残にもぐっしょりと濡れる散々な日だった。
 この年の秋、私は沖縄返還の取材要員の一人として復帰前の沖縄に初めて足を踏み入れた。同じ日の春の大雪と沖縄―その沖縄が今度は普天間飛行場の移設問題でもめ、日米関係が怪しくなっている。春の大雪が、奇しくも遠い昔の沖縄赴任の記憶を呼び覚ましたのである。
 当時、私は記者生活3年生。まだまだ「青臭い」若いひとりの記者にすぎなかった。沖縄の祖国復帰が現実味を帯びる中で政治闘争が激化、革新団体・政党、過激派学生らによる沖縄返還闘争が日を追うように激しさを増している時期だった。経験は浅い記者だったが、否応なしに「沖縄問題」の渦中に身を置くことになる。
 以来、長い取材生活の中で、私の頭から「沖縄」の二文字が消えることはなかった。私の赴任から数えると40年を超える歳月が過ぎた。なのに、沖縄問題は今も普天間飛行場の移設をめぐって紛糾、基地問題はあいも変わらず立ち往生したままだ。そんな状況が生々しく私を挑発≠オた。

東北・宮城から見れば、沖縄ははるか遠い南の島である。だが、肉親を沖縄戦で亡くされた方も少なくない(写真・下)。本稿を読まれた方に沖縄問題の知られざる一面でもお伝えできればと思う。



 糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「宮城之塔」。平和の礎に合祀された宮城県の戦死者は、沖縄戦が582柱、南方戦没者は44、918柱で、計45、500人の霊が眠る。

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私が通信社の那覇支局に赴任したのは、1969(昭和44)年9月。沖縄返還の日米交渉が大詰めを迎え、宮城県選出の愛知揆一外相が訪米の途についた時期だった。2カ月後の1121日、佐藤首相とニクソン大統領による日米首脳会談で、沖縄の「1972年返還」が決まった。 敗戦で祖国から切り離された沖縄は、米軍の軍政下に置かれ72515日の本土復帰まで、実に27年間に及ぶ過酷な異民族支配を強いられることになる。日米両軍の苛烈な地上戦で、沖縄県民の3人に1人が犠牲となった。親兄弟と生き別れ、さらには一家全滅の痕跡は今でも本島南部に残る。
 貧しいながらも家族が寄り添う小さな幸せさえも奪われた、耐え難い沖縄の歴史のひとコマを私は目の当たりにすることになった。

▽先鋭化した復帰運動

私の着任を待っていたのは激しい反基地闘争だった。
 沖縄のすべての革新団体をまとめた強力な
沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の「即時無条件全面復帰」を求める連日の激しい抗議デモだった。折しもベトナム戦争が泥沼化し、米軍基地はもとより、沖縄全体が極度の緊張感に包まれていた。

 沖縄の復帰運動は当初、夢にまで現れる平和憲法に守られた祖国日本への復帰だった。軍政下での人権抑圧。銃剣とブルドーザーによる有無も言わせぬ土地の強制収用、占領軍は住民の日常生活をも脅かしていた。
 まぶしく見えた「日の丸」への願望が象徴的に表れたことがあった。米軍の統治下だったが、1958(昭和33)年の全国高等学校野球選手権大会(甲子園)第40回の記念大会に沖縄代表として特別出場した首里高校の選手たちが、試合終了後沖縄に持ち帰った甲子園の土が、当時の琉球政府の規則で処分された事件≠セった。沖縄復帰前の悲しい事実として、今なお語り継がれている。
 純粋な母国への憧れが政治闘争の色彩を濃くしたのは、大衆運動が組織化され復帰協が結成されてからだ。復帰協は、沖縄が祖国から分断された1952(昭和27)428日を「屈辱の日」とし、毎年この日を祖国復帰の原点と位置づけた。
 「安保条約破棄」「核基地撤去」「米軍基地反対」―こんな方針を明確にし、復帰運動をリードした屋良朝苗氏が、軍政下で行われた初の行政主席選挙で当選する。屋良氏は復帰後の初代公選知事に就いた。

復帰闘争の中核となったのは、全沖縄軍労働組合(全軍労)だった。基地従業員の相次ぐ大量解雇は、ベトナム戦争の戦費膨張によるドル防衛策のためだったが、全軍労をはじめ復帰協傘下の各組合はこれに猛反発、主要基地のゲートを封鎖する大規模な闘争で対抗した。
 「基地撤去」を求めながら「基地従業員の解雇」に反対する全軍労の闘争矛盾に満ちた戦いと言われた。だが、その矛盾こそが沖縄闘争の、理屈では割り切れない現実だった。
 人権抑圧、凶悪犯罪、一方的な大量解雇―こうした問題で鬱積した沖縄の不満が爆発した。日米共同声明から1年後のクリスマスのイルミネーションがまばやく輝く深夜の基地の街コザ市(現在の沖縄市)で起きた「コザ暴動」が、それだった。
 事件は米兵の交通事故とその処理に当たったMPの発砲が引き金だったが、コザの幹線道路は、激高した数千人の地元民に焼き討ちされた「黄色ナンバー」車両(米兵軍関係者の乗用車)約80台が焼け爛れた無残な姿をさらした。
 「暴動」とはいえ、焼き討ちされた車には地元住民の車は1台もない、奇妙な「秩序」があった。米兵に比較的好意的と思われたバーやクラブなど米兵相手の飲食店の従業員も暴動に多数加わっていた。根深い反基地感情の表れだった。日米両国政府は深刻な事態を直視せざるをえなかった。



全県から集まったチームが腕を競い合う全島エイサー大会は、技と迫力で観衆を魅了する。沖縄市の繁華街で勇壮に演舞する若者たち。1970年暮れ、ここで「コザ暴動」が起きた(2009年9月の「全島エイサー大会」)=沖縄市のホームページ


▽沖縄は最悪の米軍基地

 1969(昭和44)7月、コザ市に近い美里村(現沖縄市)の米軍知花弾薬庫施設内で毒ガス事故が発生し、毒ガス兵器の存在が初めて明らかになった。屋良主席が「沖縄は世界最悪の基地」と怒りを表した。711月と7月の2回にわたり、毒ガス兵器は西太平洋のジョンストン島に撤去されたが、県民の驚きと怒りは、さらに激しい基地撤去運動につながった。
 毒ガス兵器の貯蔵が明るみになる前年の6811月、ベトナム戦争に向かう爆弾を満載したB52戦略爆撃機が嘉手納基地で離陸に失敗、爆発・炎上する大事故が起きている。住民は「戦争が起きた」と恐怖につつまれたという。
 普天間飛行場の移設問題で、最有力移設候補地となっている北部のキャンプ・シュワブにある辺野古弾薬庫は、二重の金網のフェンスで囲まれ、核兵器の貯蔵が公然とささやかれる海兵隊基地だ。今では基地の周囲を回る道路はきれいに整備されているが、復帰前は細い迷路のような道路が入り組み、昼なお不気味な一帯だった。悪路から見渡す大浦湾の美しさが、不似合いなくらい印象的だった。
 ベトナム戦争中、キャンプ・シュワブの海兵隊兵士の憩いの場は、辺野古の歓楽街だった。バーやクラブは連日賑わい、カウンターの下に置かれたバケツがドル紙幣でいっぱいになることも珍しくなかった。この飲食店街はベトナム戦争の終結とともに客足が激減、今では店を開けているところは数軒にすぎない。この町も普天間問題で揺れに揺れている。
 かつて基地の町はどこも、惜しげもなくドルを使う若い兵士で潤った。だが、復帰前後から米兵の遊びは、潮が引くように遠のいた。ペイデー(給料日)に手にする給与は、ドル防衛策として半分が強制的に本国送金となったからだ。
 全軍労ストは歓楽街をも直撃したが、これが全軍労ストをめぐる商店街の反発となって表面化、基地問題は県民同士の衝突という事態にまで発展した。全軍労が予定した大量解雇反対の長期ストが、業者らの猛反発で途中で中止に追い込まれた70年1月の事例は、その典型といえるだろう。

▽復帰前後の生活の混乱

72515日午前零時、沖縄の本土復帰を知らせるサイレンが県内各地で一斉に鳴り響いた。「祝 本土復帰」。復帰を祝う幟が、雨に濡れながら那覇市の街に並んでいた。
 この数時間前、「沖縄の帝王」と言われ、絶対的権力を持った在琉球米軍司令官のランパート高等弁務官(陸軍中将)夫妻主催の最後のお別れパーティが、屋良主席や本土政府関係者らが出席して開かれた。夫妻は午前零時を待って嘉手納基地を飛び立った。
 琉球政府主席から沖縄県知事となった屋良氏は、高等弁務官夫妻が乗った機体が離陸するのを、感慨深く見送った。遠くに基地の町、コザ市の灯りが闇の中に浮かぶように見えたという。
 歴史の新たな1ページを開く本土復帰だった。だがこの歴史的な事業は、同時に沖縄のあらゆる常識を覆した。
 復帰で県民が慣れたドル経済は円経済に切り替わった。海上自衛隊の揚陸艦(LST)が厳戒態勢の下、沖縄に持ち込んだ通貨交換に当てられる円は540億円。通貨交換は、本土復帰の515日から20日までの6日間行われた。

 通貨切り替えに伴う店頭の商品価格は、経済不安を象徴するように高騰、復帰不安が現実となった。混乱を心配した政府は、県民の資産が目減りしないよう公定レートを上回る「360円」を保証する政治決断をしたのだが、物価は生活物資を中心に軒並み大幅値上げとなって住民生活を直撃した。
 施政権が壁になって様子見だった本土資本は、堰を切ったように沖縄になだれ込んだ。
 景勝地の土地買占め、リゾート開発は
沖縄県の新体制の弱さをあざ笑うように広がった。基地経済につかってきた、いわゆる沖縄の「根なし経済」は、資本の論理が暴走する未知の世界に飛び込んだように翻弄された。
 公務員の身分変更も不安を助長した。琉球政府の公務員は国の機関、県、市町村、特殊法人に引き継がれたが、身分保証を左右する事務手続きが公務員の抵抗で大幅に遅れ、行政の空白状態が続いた。
 米軍に基地用地を提供している地主が受け取る軍用地料の扱いも混乱を極めた。最終的には、米軍基地機能の維持を図るため軍用地料の大幅引き上げという形で決着したが、国が地主に支払う地料は基地の継続使用のため年々引き上げられていく。
 経済にとどまらない。政治も復帰に先立って実現した沖縄の国政参加選挙で、本土政党との系列化が進み、県民の政治意識の変化をもたらした。保守も革新も沖縄独自の政党は名称を変えるか、あるいはこれまでの組織を残しても組織力の弱体化は避けられなかった。

庶民生活と切り離せない歓楽街も基地依存から地元を対象にした姿に衣替え、これまで当たり前だったスコッチウィスキーが高額となって敬遠され、国産ウィスキーに取って代わった。「スコッチよさようなら」である。
 復帰の2年前、沖縄でも売春防止法が施行されたが、実際に法の取り締まりが適用になったのは復帰からだ。だが、売春対策といっても実質的な手を打てるような仕組みはなく、野放し状態だった。復帰時点で把握された売春婦は約7400人。那覇市栄町、十貫瀬(じゅっかんじ)やコザ市に隣接する美里村(現沖縄市)の吉原のほか、基地の町や隣り合った地域には、すぐにそれと分かる特殊飲食店が軒を連ねていた。売防法はあったが、赤線≠ヘ青線と姿を変えただけだった。



1959年、初の民間空港ターミナルビルとして、当時の米軍那覇基地北端に完成した。「NAHA INTERNATIONAL AIRPORT」の文字が並んだターミナルビルは、1999年の新ターミナル完成で使用が終了、2002年取り壊された。私の赴任、離任は、いずれもこの素朴な空港ターミナルを使った。現在とは比べものにならない小さな建物だった。=那覇空港ターミナルビル株式会社

▽普天間問題の原点

 信じ難いことだが、私が沖縄に赴任した頃は米兵の婦女子に対する暴行事件は日常的でさえあった。事件として立件されても被疑者の米兵は姿を消すか、軍事法廷が開かれてもうやむやに葬られた。それが、「コザ暴動」の背景にあったことは前述したとおりである。
 沖縄の本土復帰から23年後の19959月、本島北部の基地の町で起きた3人の米海兵隊員による少女暴行事件は、戦後50年という節目の年の忌まわしい事件だった。暴行事件に抗議、基地の撤去を求める県民大会は、主催者発表で85000人。県民の怒りが噴き上げた、かつてない最大規模の大会だった。
 保守も革新もない。子連れの母親、体の不自由な高齢者も駆けつけた。当時の大田知事は「子どもの安全も守れなかった」と怒りに震えるあいさつ、そして日米両政府の基地問題に対する不作為をなじった。
 事件は日米安保を根底から揺るがした。日米両政府が翌年4月合意した「普天間飛行場の返還」は、この危機的状況を乗り越える高度な政治判断だった。
 この日米合意がスタートとなって普天間問題が動き出した。移設先はその後の交渉で名護市辺野古沖合に「杭打ち桟橋」方式の海上ヘリポート基地を建設する、だった。しかし計画はその後二転三転する。
 海上ヘリ基地計画は大田知事の反対で頓挫。その後、大田知事に代わった経済界出身の稲嶺恵一氏が打ち出した、同海域での埋め立て方式の大規模な代替施設計画に変更になった。米軍の専用基地とせず、民間機も利用できる「軍民共用空港」とし、沖縄振興に役立てようという経済人らしい発想だった。

ところがこの構想も環境問題と基地建設に反対する運動の広がりで行き詰まり、最終的には2006年の日米合意、すなわちキャンプ・シュワブの先端部である辺野古岬をまたぐ「V字型滑走路」計画に落ち着いた。
 そして、この06年の日米合意も鳩山政権の誕生で宙に浮き、さらに追い討ちをかけるように基地移設反対の名護市長が誕生して「ノー」を突き付けられた。普天間問題は幾通りもの解答が用意されながら、政治状況の変化で漂流を続けている。

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話を戻す。
 沖縄赴任後、返還にからむ沖縄の「世変わり」の取材は多忙を極めた。仕事の合間をぬって沖縄戦最後の激戦地となった南部を何度も巡った。幹線道路がきれいに整備された今となっては、想像もつかないでこぼこ道を車で走った。道の両側のサトウキビ畑が風にそよいでいた。寺島尚彦の「さとうきび畑」で歌われているとおり、緑の波がうねっていた。

 道路わきに礎石だけが残された民家の跡地は、戦争で一家全員が亡くなった跡だと聞いた。そんな跡地が糸満の中心部から摩文仁に向かう所々にあった。雨に濡れながら、米軍の砲弾が飛び交う中を逃げ惑う住民が歩いたであろう道を教えてもらって辿ったことがある。平和祈念公園にある県立の資料館に展示された住民の記録に書かれた様子が蘇ってくるようだった。

現在の華やかな沖縄を見渡しても、戦争の痕跡をとどめるのは戦跡観光ルートにある整備された記念碑や祈念塔ぐらいしかない。しかし、幹線道路からはずれ、奥まったところにあって観光客が訪ねることがない糸満市の米須や三和、真壁などの集落に戦争の痕跡が残っている。
 本土復帰後、沖縄に投じられた国の予算は9兆円に及ぶ。道路や港湾、公共施設など社会資本は驚くほど整備され、私が初めて足を踏み入れた頃の貧しく雑然として汚れた町の姿はない。
 だが、当時を思い出すと随所に「沖縄らしさ」がいっぱいあった。貧しかったが、手が加えられていない沖縄の文化が目の前にあった。それが今はあまり見られなくなった。
 沖縄は3度の世変わりを経験した。明治政府の廃藩置県による琉球王国の併合、2度目が敗戦による施政権分断・米軍統治、3度目が本土復帰である。近世の沖縄の歴史は「抑圧」と「差別」の繰り返しだったと、沖縄の近現代史にある。
 「癒しの島」と観光パンフレットは宣伝する。青い空と海、亜熱帯の島沖縄の魅力って一体なんだろう。観光客が押し寄せる沖縄には、訪問者には見えない基地問題がうずいている。いつになったら、晴れて沖縄が平和で豊かな島になるのか予測ができない。

(おわり)=2010年4月