視点

転機を迎えた普天間問題

「自治」と「地域主権」を問う試金石

             尾形宣夫元共同通信編集委員

☆本稿は鳩山首相が普天間問題で抜き差しならぬ状況に立ち至った頃の執筆だった。その後、首相がさらにブレ続けたのは周知の事実。その流れは、本ホームページで詳細にフォローしている。そして遂に6月、鳩山首相は退陣、菅政権が誕生した。菅首相は「日米合意」に立って普天間問題に向き合うという。本稿は、過去にさかのぼって普天間問題を検証した。普天間問題の現状を理解する上で参考にしていただきたい。(筆者)

「基地は沖縄の人々が求めたものではない。米国の足跡を減らしていく」

「(普天間飛行場は)危険だ。老朽化している」

前言は2000年7月、主要国首脳会議(沖縄サミット)首脳会合に出席するため沖縄入りしたクリントン米大統領(当時)が、沖縄到着のその足で糸満市摩文仁の「平和の礎」に直行、県民に直接語りかけたあいさつの一部である。5年前の米兵による少女暴行事件で爆発した県民の怒りに配慮、沖縄の基地負担を減らそうと誓ったもののだ。大統領はまた「命どぅ宝」(命こそ宝)という琉球王朝・尚泰王の言葉を引用、平和の尊さを訴える心配りも忘れなかった。
 後の言葉はブッシュ政権のラムズフェルド米国防長官が2003年11月に沖縄訪問した折に、普天間飛行場を上空から視察して普天間の危険さを率直に語った言葉だ。長官はこの後、普天間の移設先とされた辺野古沖を見て「美しい海だ」と漏らしたという。

「足跡を減らす」「危険だ。老朽化している」―この大統領と国防長官の言葉は、何も沖縄基地の限界を認めたものでもなければ、米国の世界戦略を緩めることを意味するものでもない。サミットでの大統領の発言、そして国防長官が稲嶺恵一知事(当時)との会談で念押ししたことは、日米安保と沖縄基地の重要性だった。米国の普天間問題に対する並々ならぬ関心を見る思いがする。
 米政府の狙いは、冷戦型の脅威が残る東アジアから国際テロ組織の主要な活動地域となっている中央アジア地域までを「不安定の弧」と定義し、これらを最重要地域とした米軍の世界的規模の再編を組み立てる上で在日米軍の機動力と日米同盟の強化だった。
 稲嶺知事らが期待した、沖縄基地問題を世界に発信するという考えは、壮大な政治ショーの中で日本の内政問題に収束してしまった。
 故に、普天間飛行場の返還合意は、表面上は沖縄の基地負担の軽減という形をとりながら、日本は1996年の「日米安保再定義」で敷かれた路線の上で、冷戦崩壊を機に超大国となった米国と歩調を合わせながらアジアにおける日米同盟の役割を広げていくことになる。
 沖縄基地問題は米軍再編の枠内で、国の経済振興と密接に絡みながら沖縄の経済的な自立と「自治」という新たな問題を提起した。

昨年9月発足した鳩山連立政権は、旧政権時代の「日米合意の矛盾」を引きずりながら、厳しい外交の現実に直面している。もとより、安保・防衛問題は国の専管事項である。同時に、1972年の沖縄の本土復帰後浮き彫りになった基地問題は、鳩山政権が強調する「地域主権」を安保・防衛問題でどう位置づけるか、という国のあり方を問う試金石である。5月末までの決着に残された時間は少ない。

党内事情を浮き彫りの社民党案

国民新案は下地氏の持論

最初にお断りしておくが、本稿は3月中旬時点の政治状況を横にらみしながら書いた。本号が届いた時には、状況は大きく前進しているかもしれない。
 3月8日、政府・与党の沖縄基地問題検討委員会に提示された普天間飛行場の移設案は、社民党が米領グアムなど国外への全面移転を基本に、海兵隊拠点を国外に移すがローテンション部隊を沖縄県外で受け入れ、さらに国外移転実現までの間は沖縄県外の国内移転―の3案。国内候補地の具体的な地名は公表していないが、長崎県の陸上自衛隊駐屯地や海上自衛隊航空基地のほか、佐賀空港や鹿児島県の海上自衛隊航空基地などが候補地とされている。
 一方、国民新党は米軍嘉手納基地への統合とキャンプ・シュワブ陸上部と、沖縄県内を移設先とした2案を提示した。国民新案は15年後の沖縄の海兵隊の撤退、訓練場を静岡県・東富士演習場などへの移転、嘉手納基地のF15青森県・三沢基地に移転するとした。
 注目したいのは、普天間問題で強硬路線を崩さなかった社民党が、県外・国外の基本線を守ったとはいえ、暫定措置として国内移設を提示した事情である。党内調整がつかず、候補地の反発を考慮して候補地を非公表とする阿部知子政審会長の「私案」となったが、これが連立内の火ダネになることは十分予想される。
 同党にとって沖縄基地問題への積極的関与は、党勢挽回に欠かせない。福島党首が昨年の衆院選の第一声を沖縄で行ったのは、社民党の生命線が基地問題にかかっていたということである。その社民が連立政権に加わった。消費者・少子化担当相だが、福島氏の軸足は「本業」よりも普天間問題にあった。鳩山首相の普天間マニフェストの後退発言や揺れは、福島氏の強硬な主張が一因だったが、昨年12月の同党の党首選で、同氏が「重大な判断をする」と連立離脱も辞さない態度を示したのは、党内事情もあった。
 国民新党の移設案は沖縄選出の下地幹男政調会長の持論と言っていい。下地氏が普天間飛行場の嘉手納基地統合を主張したのは2002年からのことで、日米合意の現行案に対しても合意当時から疑問を投げかけていた。シュワブ陸上案はその延長線上にある。
 「統合案」も「陸上案」も、既に日米間で調査・討議され尽くした結果、移設案としてはふさわしくないとしてボツになった。嘉手納統合はヘリ部隊を中心とする海兵隊航空部隊と有翼機中心の空軍部隊の「同居」は不可能、という部隊運用上の問題からである。いずれも基地機能確保を重視する軍当局の主張に沿った選択肢以外は本格的な論議の俎上に載せられなかった。

戦略的重みを増した沖縄基地

 普天間問題を検証する際に欠かせないのは、普天間返還・移設論議の流れと問題の原点をたどることである。特に、日米交渉のテーブルに参加することはなかったが、当事者の沖縄の意向を日本政府がどう取り入れ、日米交渉に反映されたかだ。それを解きほぐさないと、現在の普天間問題解決の糸口は見つからない。

1996年4月、日米両政府は普天間飛行場を「5―7年」以内に全面返還することで合意、橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使(いずれも当時)が緊急記者会見し公表した。続いて同年12月、日米特別行動委員会(SACO)最終報告で、普天間返還と沖縄本島東海岸での海上ヘリポート基地建設が決まった。
 その後、政治状況の変化で移設地域、移設の形態は変わったが、米海兵隊基地キャンプ・シュワブがある本島北部の名護市辺野古沿岸域が候補地として変ることはなかった。そして2006年、日米両国は辺野古岬をまたぐ形の「V字型滑走路」を建設、普天間飛行場の代替施設とすることで最終合意したのである。
 最初の日米合意からこの4月で丸14年がたつ。さかのぼれば、96年4月の日米首脳会談で日米安保条約を再定義、日米同盟関係は一段と強化された。81年5月、当時の鈴木善幸首相とレーガン大統領による日米首脳会談の共同宣言に明記された「日米同盟」、その2年後に訪米した中曽根康弘首相(当時)の「日米運命共同体」、さらには日本列島を対ソ連戦略上の「不沈空母」とした発言は米紙の「意訳」があったとはいえ、日米同盟の先行きを決めた転換点と位置づけることができる。
 この流れが、日米安保の再定義で国内の有事法制整備につながって日米同盟が具体的に進み、併せて沖縄の基地をめぐる状況も様変わりした。
 2001年9月の米国の心臓部を狙った「9・11同時テロ」があり、これに続くアフガニスタンに対する米軍の「不朽の自由作戦」、そして2003年のイラク開戦で沖縄米軍基地の存在と新しい役割が明確となった。誰の目にも沖縄米軍基地が果たした役割は明らかだった。1972年の本土復帰後、沖縄の米軍基地は前線基地として一段と機能強化が進んだのである。

在日米軍専用施設の4分の3が沖縄に展開する。本島中部の沖縄市嘉手納町は、米軍基地が7―8割を占める。フェンスを挟んで基地と向かい合った住民生活は当たり前の光景だった。そうした現実が様々な基地公害となって住民生活を圧迫している実態は、沖縄の本土復帰後の巨額の財政投入で社会資本が格段に整備された現在でも少しも変わっていない。

節目の年に起きた少女暴行事件

日米の普天間返還合意を引き出したのは、1995年秋の米兵による少女暴行事件だった。この忌まわしい事件は、県民が平和を希求する節目の年とも言える戦後50年に、皮肉にも符節を合わせたように起きた。この悲劇の巡り合わせが県民の基地に抱く怨念を爆発させたのである。(改行やめ続ける)島ぐるみの怒りが、国に対する沖縄県の不信感を増幅させたのは同年2月、米国防総省が発表した「東アジア戦略報告」(いわゆるナイ報告)が伏線だった。
 ナイ報告は米国防次官のジョセフ・ナイ氏(元ハーバード大学教授)が中心となってまとめたもので、東アジアに約10万人の米軍を維持するなど冷戦後の米国の極東安保構想だ。このナイ報告が日米防衛協力のための新ガイドラインにおける日米同盟再定義につながる。
 沖縄県の大田昌秀知事は同年11月、米軍基地強制使用の代理署名を正式に拒否、国と沖縄県が米軍への基地提供をめぐって全面対決する、いわゆる「代理署名訴訟」が起きた。つまり、ナイ報告が描く在日米軍基地、とりわけ沖縄基地の固定化に対する大田知事の危機感が少女暴行事件で頂点に達し、代理署名拒否という判断に結びついたのである。
 知事の代理署名拒否で国は県を提訴、代理署名を巡る国と沖縄県の対立は最高裁まで持ち込まれた。96年夏、最高裁判決が下り最終的に国の勝訴となったが、問題が日米安保体制を揺るがす極めて刺激的な外交問題に拡大したことは、「基地と住民」の関係が沖縄の本土復帰から4半世紀過ぎた時点でも何ら変っていない現実を浮き彫りにした。
 最高裁の判断を機に国と県の対話は復活した。村山富市首相の後を継いだ橋本首相は腫れ物に触るような態度で大田知事との会談を重ね、どうにか県側の譲歩を取り付けた。しかし、大田知事は98年2月に海上基地案に反対を表明、国と県の関係は断絶した。
 両者の関係が正常化したのは、9811月の知事選で経済界出身の保守系の稲嶺恵一氏(前知事)が当選してからだ。名護市長選も同年2月、経済振興を前面に出した基地容認派が推す岸本建男氏が基地移設反対候補を下し当選した。
 稲嶺知事と岸本市長の登場で普天間問題は急転解決に向かうが、それを決定づけたのは小渕内閣が政治決断した2000年の沖縄サミット開催決定だった。

つぶれた自治の萌芽

最高裁が代理署名訴訟で示した司法判断で、大田知事は基地強制使用の公告縦覧代行に応じ、基地問題は大きなヤマを越した。最高裁判決直後、橋本首相は大田知事と会談、国と県は和解のテーブルに着いた。首相は米軍基地の縮小への取り組み、基地問題解決の最大のネックとなっている日米地位協定の改善、沖縄の経済振興への全面支援を確約した。
 基地縮小や地位協定の改善への努力は、いわば国の抽象的な約束に過ぎない。しかし、経済振興支援は具体的だった。沖縄県96年秋に正式決定した、沖縄をアジア交流の拠点に据えた「国際都市形成構想」を国が全面的にバックアップする約束は、沖縄の悲願だった経済自立を大きく前進させる画期的な構想だった。その実現のロードマップ(行程表)となる「基地返還アクションプログラム」は2015年までを3期に分けて段階的に基地返還を実現する具体的内容を盛っていた。
 経済自立とそれを裏打ちする基地返還を最大限政府に認めさせ、併せて広範な規制緩和を手にすることは、沖縄の自立を実現するまたとない機会だ。まさに、国際都市形成構想は沖縄が自らつくった自治のロードマップだったと、今でも学識経験者の評価は高い。しかし、大田知事が海上基地計画に反対したことで構想は立ち消え、ごく当たり前の沖縄振興開発計画に取って代わった。
 最高裁判決を受けて、さらに沖縄県の立場を追い込んだのは当時の地方分権推進委員会(諸井虔委員長=故人)の第三次勧告だ。勧告は、米軍基地用地の強制使用手続きに関する首長の代理署名や申請書の公告・縦覧、知事による土地明け渡しの代執行を、いずれも国の直接執行事務とした。大田知事は分権委の意見聴取に最後まで県や市町村が関与できる仕組みを要請したが、分権委の認識は違っていた。
 勧告は国の直接事務とした理由を、@国の安全保障上の義務の履行にかかわる事務を地方自治体が担うのは、国と地方の役割を明確にする上からも好ましくないA引き続き自治体の事務とすることは、首長の立場を困難なものとする恐れが大きい―とした。
 分かりやすく言うなら「国は(基地使用について)これまで沖縄県に悪役を押し付けてきた。だから、知事は苦渋の選択を迫られた」と当時の関係者は語った。
 だが、「悪役を押し付けた。…だから苦渋の選択…」と見るのは一面的過ぎないか。戦後27年に及んだ米軍統治、そして本土復帰後も変わらない基地問題は、元はといえば日本の独立に際して沖縄などの施政権切り離しに始まる。国に対米交渉に当たって沖縄の現実を懸念し問題解決の意欲があるならば、国の直接事務でも問題はない。だが、基地問題が前進しないのは、国の努力に欠けたものが大きかったからである。

沖縄が基地問題の深刻さを国に訴え改善を求めることが出来たのは、機関委任事務とはいえ、代理署名や公告・縦覧代行の手続きがあったからだ。代理署名問題は、基地用地使用の期限というタイミングをとらえてしか、国が真剣に基地問題のテーブルに乗ってこなかった事実を忘れてはならない。
 確かに、大田知事に限らず沖縄県知事は基地用地の契約更新に際して苦渋の選択を繰り返した。歴代知事は、基地縮小や日米地位協定の見直しを求めながら、代理署名に応じた。
 その典型的な事例は1991年5月、就任間もない大田知事が前任の保守系知事の代理署名を受けた後の公告・縦覧代行だった。「反基地」を掲げ、代行拒否を約束した大田知事が代行に応じたのは、基地縮小に全力で当たることを約束した政府高官の「念書」と、沖縄経済振興策の策定時期が目前に迫っていたことがあった。新たな振興策を盾に代行を迫る政府・自民党の攻勢は、新人知事をねじ伏せるに十分な迫力があった。大田知事は結局代行に応じたが、基地問題は何一つ前進しなかった。
 前述の国際都市形成構想と基地返還アクションプログラムの頓挫も、国の方針に沖縄県が従順さを見せなかったことへの意趣返しである。

高度な政治判断「沖縄サミット」

2000年7月の沖縄サミット開催決定は、まさに絵に描いたような「政治判断」だった。最有力候補地の「福岡」「宮崎」を押しのけて、首脳会合が沖縄本島北部の名護市に決まった。名称も「九州・沖縄サミット」である。
 首脳会議の開催地が沖縄に決まった理由を、野中広務官房長官(当時)は「小渕首相の沖縄へ熱い思い」と語った。誰の目にも劣勢だった沖縄が勝利のゴールを切るとは思いもしなかったが、この逆転劇の裏で極めて政治的な配慮が働いたのは明らかだった。
 亜熱帯圏に属する地理的特性、21世紀に担うであろう沖縄の潜在的な可能性を考えれば、アジアを注視する欧米先進国首脳が一堂に会するサミットを沖縄で開催することの意味は大きい。沖縄から世界に強力な情報発信も出来る。
 だが、沖縄の逆転をもたらした「政治判断」とは何かを考えると、一つには沖縄の悲劇的な歴史であり、二つには基地問題解決の処方せんがあった。
 野中氏の認識は、これまで「ラストランナー」だった沖縄を、まもなく復帰27年を迎える沖縄を21世紀を前に「トップランナー」に据えることだった。その沖縄は、普天間飛行場返還を中心とした基地問題で揺れていた。
 
大田前知事の反乱で凍結した沖縄振興策は、稲嶺知事の誕生で動き始めた。「沖縄政策協議会」も復活し、沖縄支援の基地の整理・統合・縮小にも前向きに取り組む姿勢を打ち出した。だが、「基地と経済」のしがらみを知る沖縄の疑問に応える術は、これまでの手法では通じない。その点、サミット開催は政府の誠意が理解されやすく、基地問題解決の地ならしにも極めて効果的だった。経済振興策をはるかに超える成果が期待できるということである。

 サミット開催決定は、小渕首相と野中官房長官の狙いどおり沖縄の世論を沸き立たせ、普天間移設は大きく前進した。同年暮れ、地元名護市沖縄県の両者は、代替施設の使用期限を15年とすることや軍民共用の代替施設とすることなどを条件に、国の移設方針を了承、具体的な移設場所として名護市辺野古沖合を挙げた。
 軍民共用施設の建設は、米軍専用の基地としてだけでなく、沖縄経済の振興に役立てようという、いかにも経済界出身の稲嶺氏らしい提案で、岸本市長もこれに同調した。
 ところが、稲嶺知事が最も頼りにした小渕首相がサミット開催を目前にした4月初め体調を崩して緊急入院(小渕氏は沖縄復帰28年を翌日に控えた5月14日夕、死去)、急きょ、自民党幹事長の森喜朗氏が後継の首相に就いた。森首相は沖縄問題にさほど関心を持ったことはない。サミット開催という沖縄説得の高度な政治判断が、首相交代で先行き不透明になってしまった。
 サミット主催議長国として各国を歴訪した森首相は、クリントン米大統領との会談で普天間問題に言及はしたが、移設条件の「15年の基地使用期限」は、「沖縄の要望だ」としか伝えていない。稲嶺知事が「日本側がきちっとしないと交渉にはならない。腹をくくるべきだ」と強い不満を口にしたのは当然だった。サミットが閉幕すると「15年問題」はさらにあいまいとなり、同年9月の臨時国会での森首相の所信表明演説では、日米同盟の重要性は強調されたが、「15年問題」への言及はなかった。
 こうした中で、普天間飛行場の代替施設建設を具体的に話し合う国と沖縄県などによる代替施設協議会が始まったが、政治的思惑とはまったく無縁の工事受注をめぐる造船・重機・商社・建設業界を巻き込んだ激しい商戦が繰り広げられることになる。野中氏が沖縄の経済人が一堂に会した場で、過度な受注競争に警告をしたのも、普天間問題がカネにまみれた不浄な政治案件となることを恐れたためである。

二つの恐怖

普天間飛行場移設をめぐる鳩山政権の混迷は、連立与党の社民、国民新両党の移設案を正式に提示したことで一つの節目を迎えた。だが、基地問題検討委員会の論議が本格化し、対米交渉と平行して進められる移設案の取りまとめが難航することは避けられない。最終的には鳩山首相の政治判断を待つことになるだろう。
 普天間問題の漂流は、元はといえば鳩山首相の発言が定まらなかったからだ。民主党の普天間マニフェストは事実上白紙状態になった。「最低でも県外移設」から始まる鳩山氏の公約は、政権を横にらみしながら日米同盟の重要性を説き、さらに沖縄県民の声も尊重するという、極めて難解な方程式を解こうとするに等しい。
 当初考えていた昨年末までの候補地絞込みは、オバマ大統領との日米首脳会談の雰囲気を映したものだ。それが党内および連立内の調整がなされないまま、閣僚の不統一発言が続いた。

旧政権時代のいびつな日米関係を根底から変革しようとした首相の考えは間違いではない。それは世界情勢が流動化し、これまでの常識的な外交感覚では対応できなくなった現実を見据えたと思えるからだ。
 かつて、普天間問題解決を目指した沖縄サミットのような究極の政治判断はあったが、その後の対米姿勢は、嫌になるほど腰が引けていた。米兵犯罪、戦闘機の騒音被害を取り上げても、米軍側の「軍事的必要性」の前に、国は問題解決の道を自ら放棄しなかったと言えるだろうか。そのことは、日米地位協定の見直し要求に、「運用改善」という小手先の対応しかとらなかったことでも明らかだ。
 日米関係で言えば、国民がそうした状況打開を民主党に託した結果が先の衆院選の圧勝につながったと言える。日米同盟で顕著なのは、日本側が持つ「二つの恐怖」である。「見捨てられ論」と「巻き込まれ論」である。前者は、日米安保を守っていかないと米国に見捨てられるという見方で、後者は、安保を結んでいると紛争に巻き込まれるという恐れである。この二つの恐怖感が、日本の同盟感の底に潜んでいるということだ。
 沖縄の基地問題に当てはめれば、沖縄の訴えは米側に伝えるが、同時に日米同盟の重要性を強調する日本側閣僚の言動に「見捨てられ論」を見ることができる。今回の鳩山政権の2006年の「日米合意」見直しを、訪米した自民党幹部が口を極めて批判したのも、その延長線にあると言えるだろう。

地域主権の本質を問う

政府の普天間移設案が候補地をどう絞り込むのか予断を許さない。1月の名護市長選で移設反対の稲嶺進氏が当選。沖縄県議会は、普天間飛行場の県外・国外移設を全会一致で決議した。仲井真弘多知事も県議会の決議に沿った考えを政府に伝えている。少なくとも、沖縄県内での移設は袋小路に入ったと見ざるを得ない。
 前原誠司国交相は先に、普天間飛行場移設に関連して「沖縄に限らず、(基地を)受け入れてもらうことになれば感謝の意味を込めて何らかの経済振興策を考えることはあり得る」と移設先には振興策を実施する方針を示した。鳩山首相は普天間移設と経済を関連付けることはないと明言しているが、国交相の発言は、移設と振興策が無関係ではないことを示している。
 沖縄の経済振興に絡んで気になるのは、2011年度末に期限を迎える沖縄振興計画の取り扱いだ。国交相は計画の延長に前向きだが、同計画が打ち切られると、沖縄県だけに認められている公共工事の高率の補助や優遇税制による振興策の根拠が失われる。それだけに、前述したように大田県政時代に基地問題で苦渋の選択を迫られた過去が思い起こされる。

 橋本政権時代の海上ヘリ基地計画の折も、首相は基地と経済の関連付けを否定したが、県内地方選では利益誘導型の財政支援の約束が堂々とまかり通った。残された時間がさほどもない今回も、経済振興に名を借りた移設候補地の絞り込み・決定の過程で同じような動きが予想されるが、移設先の工事受注に向けた関係業界の動きが既に始まったと見るのが順当だろう。

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国と地方の役割を明確にするのが鳩山政権が目指す地域主権改革の基本だ。だが、地域主権の実体はまだ見えてこない。政治的キャッチフレーズとしての「言葉の域」にとまったままだ。普天間問題は、地域主権の具体的な応えを求めて鳩山政権に迫っていると言うことができるかもしれない。
 普天間問題は姿・形を変えながら揺れ動くだろう。地元の思惑にも揺れがないとは言い切れない。そして、問題は狭い沖縄から国全体覆うまでに広がった。移設・訓練分散候補地とされた自治体はいずれも「反対」の声を上げている。「普天間」は、時代の大転換を掲げた政権に大波となって襲いかかるかもしれない。「地域主権」が示す回答次第で、日米安保の足元が再び揺らぎ出さないとは言い切れない。

(「地域政策」2010年春季号「視点」)