【梅雨入り雑感】

◎新聞の切抜きを整理しながら…

梅雨入りでうっとうしい日が続いている。こんな時は外出もままならない。家で積み残した仕事を片付けるのがいい。ようやく政策情報誌「地域政策」(季刊)夏季号の編集作業も終わった。印刷に回す前の最終的な校閲は残っているが、気分転換も兼ねて溜まった新聞の切抜きの整理をした。
 現役時代から、新聞記事のスクラップは仕事の潤滑油みたいなものである。溜まり過ぎて四苦八苦することもあるが、今回は2カ月弱だから、そう苦労もしないで終わった。
 スクラップ整理の中心は「普天間問題」だった。鳩山政権誕生以後の動きは数多く本ホームページで紹介しているが、4月以降の流れを記したスクラップ記事を並べてみると、鳩山前首相の問題処理の迷走が手に取るように分かる。それをここで記そうと思えば、字数にして1万字程の分量になってしまう。鳩山政権の検証・分析は別の機会に置いておこうと思う。
 とはいえ、少しばかり触れておきたいと思うインタビュー記事があったので、その内容に沿いながら手短に「鳩山政権」を振り返ってみたい。菅内閣がスタートし、各政党とも7月の参院選に向けて熱い戦いを既に始めている。時間が経つごとに、前首相の存在は薄くなる。参院選公示前の今が、そのタイミングだろう。

記事は6月18日付の朝日新聞朝刊の「オピニオンインタビュー」である。
 「あれっ」と思ったのは、唐突な辞任決断の理由だ。
 鳩山氏は「辞任のタイミングが普天間問題の決着と重なったが、それが主な理由ではない。政治とカネの問題で身の振り方を決めた」と語っている。
 だが、そうではないだろう。
 2日の両院議員総会で辞任の理由は「普天間」と「政治とカネ」の二つの問題だったと明言している。
 もう一つは、「国民は聞く耳を持たなくなった」という、あのセリフである。鳩山氏は質問に対して、1993年の自民党離党から「政治とカネ」の問題を振り返り、さらに退陣のとどめの一つとなった母親からの巨額子ども手当*竭閧ノ触れながらこう言っている。
 「自分たちとは全く違う次元の生活をしている人間に国政を任せられるか、と思ったのだろう。政策でいくら正しいと思ったことを打ち出しても、国民は聞く耳を持たなくなった」と。
 後段の「政策でいくら正しいと思ったこと……」は、本人の気持ちとしてはその通りかもしれないが、問題はその「政策でいくら正しいと思ったこと」が、どれほど国民に理解されたかだ。本人が努力したことは分かるにしても、その気持ちが国民に力強いメッセージとして伝わらなければ、何の意味もない。
 
 普天間飛行場の移設先についても、同じことが言える。
 「最低でも県外移設」が周知のように、2006年の日米合意とほぼ同じ辺野古沿岸域に戻った。双六の「振り出しに戻る」である。その理由について鳩山氏は、自身の主張が米軍の反論の前に「海兵隊の運用の仕方などは反論しようがない」、その結果「辺野古を中心に考えるしかなくなった」と語っている。つまり、基地の運用を最優先する米軍の姿勢を跳ね除けることが不可能だったというわけだ。自身の非力を正直に認めたのだ。だからと言って、振り回された沖縄や徳之島住民の気持ちが癒されるわけではない。
 鹿児島県徳之島への移設にしても、側近の情報に頼っただけで、より広い情報を持つ専門家や官僚から話を聞こうともしなかったことを認めた。「確かに稚拙なやり方だったかもしれない。もっと正面から情報を集めて、なぜ徳之島なのか冷静な議論をしていたら、とも思う」と言う。今さら、という感じしかしない。
 沖縄・米国・連立内閣の三つの合意を前提にしながら、首相は水面下で米側との折衝を重視した。「米側の了承を取り付けて」その上で沖縄を説得する手はずが、肝心の自己主張の根拠の弱さもあって米側に振り回された。
 挙句の果ては脇に追いやられた沖縄と徳之島の反発が沸騰、内閣が予算成立で動き出そうとした頃には、沖縄も徳之島も反対一色に染まっていた。もはや、鳩山政権は動きようがなくなっていたのである。それでも、沖縄を2度にわたって訪問、徳之島の首長らとも会った。土壇場での「アリバイづくり」と不評たらたらだった。

インタビューで明らかになったのは、支持率低下に脅える首相の姿だ。支持率低下でメディアの批判も強まる。それが、さらに支持率低下を呼ぶ。まさに、「負のスパイラル」だった。脱官僚依存も色あせ、政治主導が内閣の「不統一」ぶりを浮き彫りにした。
 歴史的な政権交代で華々しく登場した鳩山政権だったが、末路は哀れだった。政治家の普段の研鑽がいかに重要かを、いやというほど見せ付けた儚い8カ月政権だった。

10620日)