【ふるさとシンポ】A完

◎なぜ今、「ふるさと」なのか

「江戸に学べ」とは、識者の間ではかなり前から言われてきた。だが、私たち日本人が歩んだ戦後は復旧・復興から経済の高度成長、そしてオイル・ショックの経験で痛い目に遭いながら、反省心もなく今度はつかの間のバブル経済を謳歌したと思ったらバブルが崩壊して再度自分たちの至らなさを思い知ることとなったのである。
 ひと頃ほど、大量生産・大量消費はなくなったとはいえ、成長神話はまだ根強い。財政を動員した景気対策はできなくなったが、公共事業をテコとした地域振興を求める声は大きい。ところが、国の借金は来年3月末には973兆円と、1000兆円に手が届きそうな極めて深刻な事態に追い込まれている。先進国中、最悪の財政赤字を抱えているのだ。もはや、カネなどないのである。

世の中は、明らかに変わった。カネがないなら、知恵を絞るしか道はない。他府県の成功事例を真似ても、地域の事情が違うのだからうまくいく道理はない。一世を風靡した大分県の地域おこし「一村一品運動」が各地に導入されながら定着しなかったのは、地域の特性を考えなかったからだ。「一村一品運動」がモノづくりであると同時に、「人づくり」だったことに気づかなかった。
 地方は元気がない。地域振興・活性化の手立てを探るが、その分野の専門家に聞いてアイデアをもらっても、それが自分たちの町で通用するか自信がない。国も地方自治体も魅力的なネーミングの政策を掲げるが、具体策はないし肝心のカネもない。雇用を確保しようと思って企業誘致に走り回っても、工場立地はままならない。ないないづくしなのだ。
 「では、どうすればいいんだ」と住民は頭を抱えるだけだ。そんなご時世だから、これまでの常識を破って新しい発想で現実に向き合うしか道はない。そこに表れたのが、「文化の力」である。全国に先駆けてスタートを切ったのが三重県だ。県政の根幹に据え、あらゆる政策を文化の視点で見直した。いわゆる「文化力路線」である。
 文化力といっても、華やかな文化芸術を差すものではない。その土地、その土地に長く息づき、日常生活に深く染み込んだ歴史や伝統、先祖代々の知恵、生活文化を現代風に蘇らせようというものだ。「人間力」をまとめて「地域力」とし、その上で「想像力」を生み出し地域の質的な豊かさを追求しようというもの。
 鳩山政権も文化施政と新しい公共を掲げたことは、今年1月の施政方針演説で力点が置かれてたことでも分かる。国レベルでも、「文化路線」に舵が切られたわけだ。

近年、各地で「祭り」が復活しているのは、祭りが紡ぐ地域の連帯が大きく花を咲かせたからである。祭りは準備に始まって終わるまでに事細かな作業が欠かせない。準備を始める前にも、額を寄せ合って「あーでもない、こうでもない」とやり合わなければならない。すぐに、「エイヤー」とできるものではない。「埋もれた資源」を掘り起こして連帯すれば、知らず知らずのうちに薄れていた地域の絆が蘇り、世代を超えた紋様が表れる。
 唱歌や童謡が今、世代を超えて私たちの心に染み入るのはなぜだろうか。お年よりはそれを聞いて昔を懐かしむが、単なる懐古趣味ではない。今の世の中では手にできない「何か」があるからだ。そして、若い世代は歌が醸しだす見知らぬ世界の美しさに惹かれるからかもしれない。
 今、ふるさとを見つめ直そうという声が各地から聞こえてくる。便利さや効率を求めるだけでなく、生活の質的な豊かさ、心の豊かさをふるさとに見いだそうという動きは、お堅い政府の統計にも表れている。経済優先と効率化をなりふり構わず求めた結果が、今日の地方の疲弊と格差社会の広がりである。これまでの常識では考えられないような凶悪な犯罪の多発は、私たちに「この国のあり方」を問うている。

「ふるさと」は人それぞれの心に宿る。生まれ故郷、青春時代を過ごした町、定年で忙しかった職場を後に第二の人生を始めた新天地……人それぞれのふるさとの形があり、込められた思いもさまざまである。第二、第三のふるさとがある人だっている。ふるさとは、季節ごとに、そして時間ごとにその姿を変える。多様な姿を見せる景色に似ている。心の「キャンバス」に描く絵も様々だ。「ふるさとは宝」は、その第一歩と言えるのではないだろうか。(おわり)

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