【地域主権改革】

◎「地域主権」は大丈夫か

      分権型政策制度研究センター(RDC)ニュース・レター(2010年5月29日)

                            尾形宣夫     ジャーナリスト

 本人は否定するが、鳩山首相のブレは相当重症だ。個々の発言を取り出したらきりがないので、今年1月の施政方針演説と就任直後の所信表明演説を読み比べたら、「地域主権」に触れた文言は当然施政方針演説が具体的だった。「義務付けや枠付けの廃止」「ひも付き補助金の一括交付金化」「出先機関の抜本的改革」―などを含めた地域主権戦略大綱を策定し、「本年を地域主権革命元年とすべく総力を挙げて改革を断行」といった具合である。
 だが、この意気込みがそれ以降あまり伝わってこない。「政治とカネ」「普天間問題」に加えて今度は宮崎県の「口蹄疫問題」が飛び込み、政権の「一丁目一番地」とされる地域主権改革が脇に追いやられている。少なくとも、首相の頭の中はかなり希薄になっている のかもしれない。不運といえば不運だが、せっかくの「政治主導」が機能せず、事務方(官僚)を上手に使いきれないのだから仕方がない。

 目下の急務は、6月中にまとめる地域主権戦略大綱である。首相を議長とする「地域主権戦略会議」と関係閣僚、地方6団体代表による「国と地方の協議の場」の論議をどう調整・整理するかに、大綱の中身がかかっている。
 大綱の柱は、ひも付き補助金の一括交付金化、それに国の出先機関の抜本的改革である。ひも付き補助金が、いかに地方を蹂躙してきたか言うまでもないが、その補助金の範囲、対象、制度設計は簡単ではない。内容によっては、悪夢の三位一体改革が蘇らないとは言い切れない。地方交付税削減の根拠にされかねない危険性も伴う。国の関与をどう食い止めるかも智恵が要る。
 出先機関改革は、例によって「全国的な統一性」「都道府県をまたぐ調整」などを理由に霞が関の抵抗が続いている。残された時間は少ないが、名うての出先機関が内閣の言うことをすんなり聞くとは思えない。
 首相は4月下旬、官邸で行われた地方6団体との意見交換で、「(省庁の抵抗に)負けたら改革は頓挫しかねない」と危機感をにじませた。というのも、先の「丹羽委員会」が勧告した都道府県から市町村への権限移譲(384条項)について、中央官庁から届いた回答は96条項に過ぎなかったからだ。首相は関係閣僚に「考えを改めるよう」指示したが、反論する閣僚もいたというから、霞が関の権限移譲に対する腰の重さは相変わらずだ。それだけではない。事業仕分けに見られた政務三役が省益擁護に回ることも目立ち、せっかくの政治主導が空回りしている感も否めない。
 その苛立ちが表れたのが3月末の第3回戦略会議だった。国家戦略担当相の仙谷氏が各府省の言い分を聞くだけでなく、もっとミッションを持った会議とするよう問い掛けたが、政務官の官庁寄りの姿勢を「元から正す」のが先決との指摘があった。
 それと政権に求められるのは、地方の「自治事務」とされながら相変わらず国の関与が続く「義務付け」の取り扱いだ。今さらながら、第一次分権改革が定着していないことを浮き彫りにしている。その義務付けを個別法ごとに見直すといっても所管官庁に関わるだけに一筋縄ではいかないことは明白だ。
 となると、地方にとっては「国と地方の協議の場」をどう戦略的に位置付けるかが重要となる。その協議の場で国と渡り合うのが地方6団体の代表なのだが、地方は自治体規模によって様々な特殊事情がある。6団体代表が責任を持って「地方の意見」を主張することができるのか。さらには、法案にいう「地方自治に影響を及ぼす国の政策の企画及び立案並びに実施について」の複雑多岐な問題を「協議の場」で処理できるとは到底考えられない。つまり、技術的・事務的な作業を詰める下部組織が当然必要となる。「法律に基づいた協議の場」と権威付けられても、それだけで何ができるものでもない。
 地域主権戦略会議も協議の場も、差し当たって積み残された「義務付け枠付け」と面と向かわなければならない。率直に言って、地域主権のきれいごとに酔いしれている場合ではない。

ところが、あろうことか、地域主権担当の原口総務相が退任直前の日本経団連の御手洗会長と会談した席上、道州制推進基本法案を来年の国会提出を目指して議論を加速させると表明した。総務相の頭に、内閣の成長戦略への財界の協力が必要との思いがあったとはいえ、明らかに踏み込みすぎだし、自ら財界との約束を買って出たようなものだ。もともと民主党は旧政権の道州制の早期導入に批判的で、基礎自治体を基盤とする地域主権の確立を前面に出していたのではなかったのか。
 道州制論議の前に、平成の大合併がどのような結果をもたらしたか民主党は先刻、承知のはずだ。それを脇に置いての道州論は、正直いただけない。「地域のことは地域の住民が責任を持って決める」地域主権改革を飛び越えた発言としか言いようがない。
 3月で幕を閉じた平成の大合併について、総務省は「合併の評価は分かれる」と総括した。全国町村会などいくつかの団体が行った検証でも、平成の大合併を積極的に評価するものはない。逆に小規模自治体を中心に、文化、絆など「地域の崩壊」につながる現象が表れているという厳しい調査結果があることを忘れてはならない。
 宮崎県の「口諦疫問題」で、国と県は責任のなすり合いを繰り返した。広範囲にまん延する可能性が高い疫病は1自治体で対応できるものではない。被害が拡大すれば経済的損失への対応も含めて国レベルの予算措置が欠かせない。だが、口諦疫問題は、国と地方の責任が明確にされないまま被害が拡大した。権限の所在を巡って議論はあるが、同じ疫病の拡散は「鳥インフルエンザ」でも国民生活を直撃した。国の事務か、地方の事務か判断は分かれるが、国と地方の責任の境界をあいまいにしてきた行政の瑕疵を見過ごすわけにはいかない。

 地域主権改革は、抽象的で情緒的な改革ではない。傷みも伴うし、地域間格差が現れることも避けられないかもしれない。それだけに、その任にある責任者は、着実に、愚直に改革を進めなければならない。間違っても、飛び跳ねた論議などはすべきではない。

(2010年5月31日)