【自縄自縛の鳩山首相】

◎この人物に任せた過ちを悔いる

 自分自身の言動が、抜き差しならぬ事態を招いていることを鳩山首相はどう感じているのか。普天間移設問題で徳之島の3人の町長に、にべもなく断られた。沖縄・普天間飛行場のヘリ部隊の一部移駐が駄目なら、せめて「海兵隊の訓練を受け入れていただけるならありがたい」と頼んだが、町長らに即刻拒否されてしまった。
 一縷の望みをつなぎたい首相は、自ら徳之島を訪れる気持ちを伝え「これからも引き続き協議をしてほしい」と言ったが、「もう首相とは会いません」と突き放された。

 首相就任してから初の沖縄訪問は、首相の場当たり的でコロコロ変わる発言がやり玉に挙がった。「最低でも県外」と再三言ったことが、手のひらを返したように、海兵隊の抑止力を学んだ。だから「沖縄でも負担をして欲しい」「(県外移設発言は)民主党の公約ではない」などと言われて、県民の誰一人納得するだろうか。
 なぜ、問題紛糾の「謝罪」と負担をお願いする「懇請」の沖縄訪問となってしまったのか。それを一番知っているのは首相自身のはずだ。そして、7日の徳之島の3町長らとの会談だ。
 5日の本稿で首相の沖縄訪問を「アリバイづくり」と書いた。それは、今回の官邸での3町長についても同じだ。首相は沖縄で「具体的な地名は挙げなかった」と釈明したが、海兵隊の一部を「県外」の鹿児島県徳之島に移駐させたい考えをにじませた。徳之島の気持ちを直接確かめないままである。
 
首相は「政府案は決まっていない」「具体的な候補地名はマスコミが勝手に書いている」と、あくまでも移設候補地でシラを切った。
 今さらとは思うが、首相が描く政府案は、沖縄県民が理解し、米国の了解も得て、連立3党が了承する―のが内容だ。そんな条件を満たす政府案ができると、首相は本心から思ったのだろうか。いずれも沖縄向け、米国向け、さらには連立政権に向けた「個々の考え」であって、3者に共通するものではない。どだい、無理な話を言葉で飾ったにすぎないことは最初から明らかだった。

首相は、不調に終わった徳之島側との会談の後、記者団に「場当たり発言」を問われて、これを強く否定した。しかし、こと普天間問題に限っても、首相の発言に一本の芯が通っていない。だから発言内容に揺れが表れるのだ。本人は「揺れていない」と反論するが、揺れが当たり前になった発言は、それ自体が常態なのだから、揺れの認識はあるはずもない。最も困った状況としか言いようがない。

普天間問題は、首相が断言した「5月末までの決着」はもとより、普天間飛行場の県外移設は絶望的になった。15日に予定した首相の沖縄再訪問は延期になった。7日の徳之島側との会談に見るべき成果がなかったためだが、延期になったとは言え、15日の沖縄再訪問の日程づくりに鳩山政権の、どうしようもない状況認識の甘さがはっきりしている。
 1972(昭和47)年5月15日は、沖縄が戦後27年の厳しい米軍統治終えて本土に復帰した日である。平和憲法への回帰、軍政からの解放を意味するのが本土復帰である。その本土復帰からことしは38年目となる日に普天間基地の辺野古移設を要請する日程を組んだ。
 基地被害は相変わらず続発して住民を不安がらせている現状に変わりはないが、基地の島からの脱却の出発点ともなる本土復帰の日に、普天間飛行場の県内移設を要請しようとする感覚がどうしても理解できない。5月末までの決着を急ぐ官邸の日程づくりからなのだろうが、ここにも鳩山政権の民意を汲めないお粗末さが表れている。

東京・永田町、霞が関の「鳩山離れ」は、もはや隠しようもない。「稚拙」「不勉強」「決断できない」など野党が首相に浴びせる言葉は、旧政権当時でもなかった。米国からは「LOOPY  HATOYAMA(フラフラ ハトヤマ)の酷評が聞こえる。政権の準備もなく、その後も自身の言葉に酔いしれて現実が見えない政治家が、悲しいかな日本の国政のトップにいる。
 普天間問題の現実を米国に直言することもなく、問題を混乱させたのは残念なことにわが首相である。ギリシャの財政危機が世界経済に衝撃を与えている。東アジアや中央アジア情勢の緊張は続いている。そして日米関係が揺れる。有事にこそリーダーの存在感、器量が試されるのだが、鳩山首相にそれを期待することはできない。この人物に国を任せた過ちを思わざるをえない。

1058日)