◎松阪木綿は女業(おんなわざ) 松阪市

 松阪市の中心部にある松阪城跡の表門を入ると、右側の少し上ったところに市立歴史民俗資料館はある。伝統的な和風建築として国の登録有形文化財になった。この本館2階展示場に松阪木綿の関係資料が並んでいる。

初代館長の田端美穂さんによると、「市の歴史を語るのは松阪木綿しかない。松阪木綿のすべてを展示した」。

5世紀の後半、大陸からの渡来人が伝えた紡織文化は、市の東部を南北に流れる櫛田川沿いの「機殿地区」に広がる。後に、新しい繊維としてもたらされた「綿」が伊勢平野で栽培され、紡織の技術と結び付いて木綿織りが行われるようになった。

機殿地区にある二つの神社が松阪木綿のルーツとされる。神服織機殿(かんはとりはたどの)神社と神麻続機殿(かんおみはたどの)神社である。
 周囲には水田が広がり、うっそうとした森に囲まれた両社は、合わせて「両機殿」と呼ばれる。それぞれ、絹と麻を織り伊勢神宮に奉職する神社だ。地名が示す通り「機織り」の中心地となり、後に綿を使った藍染めの「嶋木綿」の主産地となった。
 京の都、伊勢神宮とのかかわり、そして江戸時代に豪商としてその名を馳せた三井高利、小津清左衛門ら名だたる松阪商人によって江戸に持ち込まれた、藍染め・シンプルなたて縞模様の松阪木綿は江戸っ子の心をつかみ、「嶋木綿」として江戸のファッションとなった。いわゆる、「勢州松阪木綿」である。

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松阪の歴史、伝統文化を担った松阪木綿は戦後、化学繊維の登場に押され、特に高度経済成長期以降、地場産業としての地位が低下した。そんな状況を心配した田端さんは、伝統の再興を目指して独り奔走する。
 「眠っている歴史を活用したい」。郷土の文化的遺産の掘り起こしと活用による地域振興への協力要請が実り、松阪木綿振興会が結成された。

歴史民俗資料館の前に建つ「嶋木綿の碑」に「嶋木綿は松坂の女業なり」とある。

嶋木綿(しまもめん)は、「女技」ではなく「女業(わざ)」としたのは、この地の女性の藍染めの糸に託した情熱と哀歓を表している。女の執念と言い換えることもできる。女業の伝統をよみがえらせる女性グループ「ゆうづる会」は、振興会が結成される2年前にできた。「ゆうづる会」は今年、9年ぶりに会員を募集、20代から50代までの12人が参加した。

会員が集まる松阪もめん手織りセンターの工房は、国の無形民俗文化財に選ばれた伝統を継承・発展させる場である。松阪商人の屋敷が並んだ「本町」の一角にあり、江戸時代の呉服屋「越後屋」を創設、三井家全盛の礎を築いた三井高利の本宅跡に建てられている。センターの格子戸を開けて入ると、右手に木綿問屋の店頭を飾った「松阪木綿」の大看板が置いてある。そして店内には5台の織り機が、「1日織り姫」用に置いてある。近年、口コミで観光客の来店も大幅に増えた。
 田端さんには、「ゆうづる会」や手織りセンターを立ち上げるに際して、一つのこだわりがあった。

「趣味で手織りをやるのではない。売れるものを作る。文化教室程度ならやめなさい」。この意気込みがあったからこそ、眠っていた地元の文化資産が生き返り、伝承文化のよみがえりを確かなものとしたと言える。田端さんの持論は「文化資産は活用して、初めて保存ができる」である。保護、保存の方法はいくらでもできる。「大事なのは活用だ」と言う。

今年87歳の田端さんには歴史・伝統へのムード的な回帰ではない、現実的な計算も働いた。

「商品はメディア」―が田畑さんの口ぐせ。「あらゆる商品にメディアが込められている」。ハンカチ1枚でも松阪の発信がある。旅行客の手織り体験を思いつき実行したのは、旅行会社が「体験旅行」を売り出す10年も前のことだ。

田端さんや「ゆうづる会」の地道な挑戦は、埋もれた地域の歴史・文化を掘り起こした。そして、地域振興の先導を務めている。地域振興のイロハを説く提案は多い。だが、その理論が成功したと聞くことはあまりない。田端さんは40年近い文化遺産との付き合いを振り返りながらこう言った。

「まちづくりや地域おこしは理論ではない。実際にそれを展開するかどうかだ。先のことを、あれこれ計算しているばかりでは何もできない。行政に頼らず、とにかく実行すること」

08年秋季号)