「再見わが町」…伊勢市河崎

◎歴史と新しさで蘇る商いの町

静まり返った漆黒の闇に、淡い明かりが勢田川沿いの切妻、妻入りの商家を映し出している。水面(みずも)に浮かぶ明かりは引き波に様々な光を放っていた。
 伊勢市河崎のほぼ真ん中、勢田川に架かる中橋から見た夜の河崎まちは影絵のようだった。舟運が盛んだった近世のような物資の往来はなくなり、河川改修で川べりも石積みの護岸できれいに整備された。が、大事に保存された町屋や蔵は、数こそ少なくなったが昔のたたずまいを残している。町屋も蔵も傷みはあるが、往時の風格を感じさせる。
 町並み保存の努力のかいあって歴史は蘇ってきたようだ。昔のまま日用雑貨や乾物、せとものを扱っている店、今日風に町屋や蔵を改装したアンティークの店、居酒屋、古書、食事どころ、和菓子屋などとして観光客を迎えるさまざまな店舗が、直線的でない通りで個性的な雰囲気を漂わせている。

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 このまちの歴史を切り裂くような豪雨が襲った。1974(昭和49)年7月の「七夕豪雨」である。市の中心部を流れる勢田川が氾濫、市街地は水浸しになった。国は蛇行する川の改修に乗り出し、盛り土で高く浸水がなかった河崎地区の住民にも立ち退きが迫られた。
 国の大掛かりな河川改修工事に住民は反発した。「町の歴史を守れ」と。住民の求めで行われたシンクタンクの調査も「総合的に考えよ」と、貴重な河崎の文化を残すよう付言した。この時期、旧国鉄の「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンが展開され、「日本再発見」の声にあわせて昔の町並み保存の運動が全国に広がり始めていた。
 住民による「伊勢市の歴史と文化を育てる会」ができたのも、使われなくなって傷みが進む町屋や蔵を再生しようと「蔵バンク」を結成したのも、住民が「河崎のまちの価値に気づいたからだ」と地元のNPO「伊勢河崎まちづくり衆」の理事長、高橋徹さんが振り返った。
 河崎を代表する老舗の酒問屋「小川酒店」が、営業不振で廃業することを知った「育てる会」が土地と建物の買い取り保存を市に掛け合い、腰の重い行政を動かして修復整備し「伊勢河崎商人館」として再生、まちづくり衆が運営管理を行っている(2001年国の登録有形文化財に登録)。

伊勢河崎のまちづくりの特色は、終始NPOが先頭に立って活動したことである。住民の説得、基本計画・マスタープランの策定、行政との折衝―。まちづくり衆の情熱が運動の中心だった。
 住むことと商いが混在している河崎の弱点は、昔の栄光を知っている商人の鈍い動きだった。それが時代の流れとともに、まちの「過疎化」を招いた。
 「自分の暮らしに近い所での対話が必要」とまちづくり衆は、河崎の生活文化を皆に見てもらおうと、ソフト面だけでなく建物などハード面からの仕掛けにも奔走した。昔、演芸興行を楽しんだ「角吾座」での寄席を、改装した蔵の喫茶店で再現した年2回の興行は住民に大うけだ。毎月第4日曜日の台所市は、交流のある各地の名産品を並べた。伊勢商人の商いと暮らしを楽しむ毎年10月の商人市は、商人のまちらしく「商いの場をつくろう」が趣旨だ。
 高橋さんは、まちづくりの流れの大切さを語る。

「地元の大切な資源を守ろうと活動を続けているが、やっているとある時、突然ジャンプして停滞から抜け出すことがある。成功したからといって何もしないと失敗する。次のステップの時に向けて学んでいくと新たに気づくこともある」

事務局長の西城利夫さんは、まちの貴重な歴史・文化の資料を展示している商人館の学芸員として訪問者への説明に忙しい。

遠い昔、伊勢神宮周辺の経済の中心だった伊勢河崎は、江戸時代には水運を利用した全国でも屈指の問屋街になった。海路からの船参宮客は、勢田川に入ると鐘や太鼓で賑やかに囃し楽しんだという。
 「山田のまち」と呼ばれた現在の伊勢市駅や宇治山田駅、そして外宮界隈の歓楽街。茶屋が軒を連ねた古市も今では色街をうかがわせるものはない。
 江戸幕府が認めた日本最初の紙幣となる「山田羽書(はがき)」の発行責任を担ったのも河崎商人の実力をうかがわせる。その紙幣が、商人舘の一角に展示されている。(尾形宣夫)