【立松和平さんを悼む】

◎耳に残るあの柔らかい語り口

 立松和平さんが8日、多臓器不全で亡くなった。朴訥とした栃木なまりの特徴ある、あの語り口はもう聞けない。62歳。あまりにも若すぎるこの世との別れとしか言いようがない。
 2004年6月、平成の大合併に揺れる地方の動きをまとめ出版した「自治体 明日への胎動」(ぎょうせい)で著名な政治・行政学者や識者、首長らとのインタビューの中に、立松さんにも登場願った。
 東京・恵比寿ガーデンプレイス。あの華やかなビル街を通り抜けて、庶民的な住宅街の中に立松さんの自宅兼事務所はあった。取材の約束をとって事務所を訪ねたのは、確か前年の秋も深まったころだった。
 建物もごく普通のこじんまりした家で、狭い階段を上って通された2階の和室も、流行作家の部屋とは思えないような飾りのない質素な調度品が置いてあるだけで、部屋を取り囲むように立つ書棚には自著だけでなく、宗教もの、地方の姿を紹介するような書物が並んでいたことを思い出す。
 部屋に上がって数分もしないうちに立松さんが、待たせて申し訳なさそうに入ってきた。取材の趣旨は事前に話してあったので、初対面だったが話はよどみなく広がった。朴訥とした話しっぷりだったが、国内はもとより世界を歩いてきたせいなのだろう。本人は「放浪の旅でした」と言うが、訪ねた町の特徴や表情を、感心するくらい覚えている。
 放浪は早稲田大学在学中から始まったという。大学を出て就職する当たり前の生活を歩むわけでなく、土木作業員や運転手、魚市場で働くなど様々な職業を経験して、故郷の宇都宮の市役所に勤めながら作品を発表した。身に着けるものは普段着だし、飾らない語り口も、若いころからの生活がそうさせるのかもしれない。
 立松さんとの話は1時間半ぐらいだった。その中で印象的だったのは、立松さんの地方を見る目が厳しいことだった。
 こんなことも言った。
 「鈍行列車を降りて田舎町の駅に立つと、町の特徴が分かるのですが、そんな町は本当になくなった。どこに行って似たような顔をした町ばかりでがっかりします」
 町には歴史がある。そこに住む人たちの生活の匂いのようなものがあるのが普通なのだが、それが感じられない個性のない田舎だらけだと言うのだ。
 市町村合併に話題を転ずると、「合併って、それぞれ一軒家で生活を営んできた人をまとめて、アパートかマンション住まいにしようというものですよ。アパートやマンションだったら水道も下水も一つで済み合理的かもしれないが、個々の生活の特徴がなくなる」と言った。
 立松さんは市町村合併を審議するある官庁の委員会のメンバーとして、首長や学者らと度々、合併のあり方を論じ合った。
 「おかしいなと思ったのは、市長や町長が合併の効用を盛んに言うことですよ。私が違うことを言っても相手にされませんでした」
 地方を歩き続け、その良さと大切さを独自の視点で著した立松さんにすれば、我慢できない委員会論議だったのだろう。

 平成の大合併の問題点が浮き彫りになっている。合併するとしないとではこんなに違いがある、などと「アメ」と「ムチ」を使い分けた国の施策も先が見えた。首相の諮問機関である地方制度調査会が昨年、平成の大合併を終えるよう答申した。平成の大合併も近く幕を閉じる。
 地方を十分知らない霞が関の官僚、そして目先の利益に踊った首長。立松さんは、地方分権、行政の効率化を錦の御旗にした市町村合併に異を唱えながら短い作家人生を終えた。

 立松さんとのお別れが残念で仕方がない理由がもう一つある。
 立松さんに参加してもらって、「ふるさと」を話し合うシンポジウムを5月末に三重県で計画していた。格差社会の広がり、地方の疲弊が問題になっている現状を見つめながら、「ふるさと」の大切さをあらためて論じ合ってみようという趣旨だ。
 立松さんに基調講演をしてもらい、この後のパネルディスカッションには女優の竹下景子さんにでてもらい、ふるさと論を盛り上げようと考えていた。
 昨年暮れ、立松さんに企画の趣旨を伝え、参加の快諾をいただいた。その後、体調を崩して入院したとの知らせは届いていた。だが、入院があれほどの重病だったとは知る由もなかった。私の至らなさを恥じている。
 今では、聞き慣れたあの独特の語り口を思い出すしかない。
 シンポジウムで立松さんに代わる人を探すのは容易ではない。しかし、企画に賛同してくれた立松さんの期待に応えるためにも、シンポは成功させねばならないと思っている。

10214日)= 尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」