【日米安保50年】

◎沖縄抜きに語れない日米安保

 日米安保条約の署名50周年(19日)で思い出すのは、19964月の日米両政府の「普天間飛行場返還合意」である。橋本龍太郎首相がモンデール駐日米大使(いずれも当時)と一緒に緊急記者会見し、「5−7年以内の全面返還」を発表した。橋本首相の脂ぎった得意気な表情が印象的だった。その数日後、クリントン大統領との日米首脳会談で日米安保条約の再定義でも合意、日米同盟はそれまでの「日本防衛」を飛び越えて「アジア太平洋地域の安定と繁栄」と、条約の改定を伴わないまま同盟の対象が飛躍的に拡大することになった。
 日米合意の前年9月に起きた、3人の米兵によるあの忌まわしい少女暴行事件は普天間返還の合意を引き出した。しかし、代わって日米同盟が強化・拡充され新たな日米関係が始まったという意味で、日米安保と切り離せない普天間問題の位置づけと米国の世界戦略に深く組み込まれた日本を思わずにはいられなかった。
 そしてこの思いをさらに強くしたのは、米国の中枢部を狙った2001年の「9・11同時テロ」以降激化し、収束する気配が全くない世界規模での米英など先進諸国の正規軍とイスラム過激派による「非対称の戦い」である。小泉首相はいち早く米国の報復攻撃を支持、ブッシュ大統領との蜜月を演じて見せた。

その米国が変わった。いや、変わらざるを得なかったというべきだろう。米国のオバマ政権の誕生と日本の鳩山政権の登場は、明らかに世界が変わろうとしていることの表れだった。
 普天間問題で発言が揺れる鳩山首相に米政府の苛立ちは募る一方だが、米国の手のひらで戦後を生きてきた日本が、政権交代を機に普天間問題でこれまでの同盟関係を変えようとする意欲は感じられる。
 好意的に見るならば、首相の「揺れ」も言われるまま米国に付いて歩いてきたこれまでの外交を変えようとする戦略と見ることはできる。ただ、そのためには正面切って米政府に物申すようでなければならない。オバマ大統領に「トラスト・ミー」などと言っておいて、会談後に手のひらを返したような言い方はするようでは、とても「外交戦略」などとは呼べない。
 同じことは内政面でも、普天間の早期決着を言いながら、反発する社民・国民新の連立仲間のご機嫌を取るような言い回しは、逆に信を失うことになることをもっと自覚しなければならない。
 首相は5月までに米政府も納得するような普天間問題の結論を出すと再三明言している。米政府は、06年に日米が合意した辺野古岬をまたぐ「V字型滑走路」の現行案がベストだと譲りそうもない。そして、沖縄県外や非公式に検討されている県内での分離配置に強く反対している。
 首相が言う「米政府も納得する結論」について、首相は具体的な言及をしていない。今通常国会の初の党首対決となった21日の衆院予算委員会で、自民党の谷垣総裁は「何を決めるのか。『決めない』ことを決めるのか」と皮肉たっぷりに首相に質問した。

 24日に投開票の名護市長選で、移設容認の現職が勝つのか。あるいは移設反対の野党統一候補が勝利するのか。選挙結果が首相判断を左右することは論を俟たない。
 1951(昭和26)年9月調印したサンフランシスコ平和条約は翌年4月発効した。条約の発効で日本は独立を手にし、沖縄と奄美諸島の施政権は日本から切り離された。軍政下に置かれた沖縄には、本土復帰から38年も経った今でも在日米軍専用施設(基地)の75%が集中する。県土面積の1割、本島だけで見れば2割が米軍基地が占める。まさしく、基地の島なのである。
 沖縄を脇において日米安保、日米同盟を語ることはできない。普天間問題が振り出しに戻るようだと、懸案の沖縄の過重な基地負担は少しも改善されることはない。
 日米安保が両国を結び付けることは確かだし、日米関係を基軸にした日本外交が今後とも重要であることは間違いない。日米安保は、日本が世界の外交舞台で各国と付き合うための「パスポート」のようなものである。つまり、日米安保をバックに日本外交が通用すると言っても言い過ぎではない。
 だからといって、日米同盟の陰の部分に目を閉じていいわけはない。互いに率直に言い合える関係があっての日米友好であることを忘れてはならない。

10121日)