【事業仕分け】

◎意識変革のチャンスを生かせ

 行政刷新会議の「事業仕分け」作業が後半戦に入った。国の予算案づくりにこれほど国民の目が集まったことは、かつてなかった。自民党の長期政権の下では、永田町と霞が関でまとめられた翌年度の予算案に対する一般国民の関心は、マスメディアが取り上げる財源問題や各省庁の目玉政策(事業)や話題性のある政策を見聞きすることで、多くは何となく予算というものが分かったような気分になったにすぎない。
 「なぜ、この施策に予算がついたのか。その先はどうなる」といった個別、具体的な関心は、学者や識者などごく一部の人たちを除けば知りたくてもどうにもならない、はるか彼方の問題でしかなかった。
 それが、事業仕分けが始まると状況が一変した。
 仕分けが公開の場で行われていることもあるが、国民は税金の使途に大きな不信感を持ち続けてきた。だからこそ、知りえなかった具体的な問題が分かりやすい言葉で論議されれば、目的や狙いが不明確な予算案には誰だって「それはおかしい」と身を乗り出すのは当然だ。
 事業仕分けの前半戦で「廃止」や「来年度予算への計上見送り」となったのは46事業1500億円で、いわゆる埋蔵金の国庫への返納や予算縮減を含めると総額で1兆円規模になるという。

 各省庁が予算案に盛り込んだ事業の内容を厳しく問うのは与党の国会議員や民間のアナリストら識者たちだ。中央官庁の官僚や各省庁の外郭団体の幹部らは予算案の正当性を説明するが、元々外部に説明することもなかったし、その訓練もできていないから仕分け人の質問に納得がいく説明はできない。霞が関という官僚社会で通用する言葉は、しょせん外部の人間には分かりようがない。
 短時間で進む事業仕分けに対し、野党の自民・公明両党などから激しい批判が浴びせられている。前首相などは「公開処刑」とまて言って切り捨てている。だが、予算編成が国民の手の届かないところで行われ、財政危機と言われながら巨額の税金の無駄遣いが続いてきた。言うならば、今日の財政危機は昨年秋のリーマン・ショックに始まる世界的な経済危機が大きな要因であることは間違いないが、自民党政権下の野放図な政策が根底にあることを忘れてはならない。
 政権交代がなって、はじめて予算編成にメスが入れられたわけだから、事業仕分けを「乱暴」「無責任」「公開処刑」などと他人事のような言い方をすべきではない。不明朗な税金の浪費を黙認してきた責任は、誰あろう彼らたちにあるのだから、自らの不作為を恥じるべきだろう。

 小説風に言うなら、仕分け人たちはさしずめ“必殺仕分け人”だ。事業予算の裏に隠れる永田町や霞が関の思惑や計算が、仕分け人たちの質問で白日の下にさらされ善し悪しの判断が言い渡されるわけだから、見ている者にとってはこれほど痛快なことはない。
 国交省の「まちづくり交付金」一つとっても、国が地方のまちづくりに関与することの是非が問われ、市街地再開発や商店街活性化の名を借りたハコもの行政への批判が相次いだ。国は都市政策の方向性や構想を進めるための関与と反論したが、結論は「地方自治体の判断に任せるべきだ」と突き放された。
 地域活性化やまちづくりについては、国交省だけでなく総務省や経済産業省、農水省、内閣府などがそれぞれの立場から施策を用意している。各府省なりの独自性はあるが、同じ土俵をどこから見るかの違いでしかない。国道や県道と併走する、幹線道路と見紛うような<農道>が農村改善事業の名目で続けられたことを知る人は意外に少ない。
 仕分け人が切り込む項目の中には、教育や福祉、科学技術など費用対効果だけでは判断できないものがあるのは確かだ。スーパーコンピューター開発予算のように、国の科学技術の将来性を左右する裾野の広い施策は重要だ。
 だが一見乱暴に見える仕分けも、それくらいの大ナタを振るわないとこれまでの自民党の長期政権の下で当たり前に通ってきた<しがらみ>は断ち切れないということである。
 二股をかけたり実体を隠した予算を切るのは財政の現状を考えれば当然だし、切り込み過ぎると懸念される予算であっても、その中に潜むムダに注意を喚起する効果は大きい。重要な施策だから霞が関が提示したとおり認めるようだと悪しき旧習は改善されない。

事業仕分けで俎上に上がった項目が最終的にどうなるかは政治判断を待つしかないが、政府が面倒を見なければならない事業はそう多くはないはずだ。自治体や民間に任せていいものをふるいわけることも、もっと進めるべきだ。
 全面公開の事業仕分けは、官僚が初めて国民に予算の中身を説明する機会となった。説明の仕方がいかにも霞が関流で国民には分かりにくいが、霞が関の官僚にとってはまたとない意識改革の機会を得たと受け止めるべきだ。同時に、納税者としての国民の意識の変革に火がつけば申し分ない。政権交代が世の中を具体的に変える場面が到来したのだ。
 今や政治家や官僚に任せっきりで済む時代ではない。国民がより積極的に政治や行政にかかわりを持たなければならない時期がきたということである。

(09年11月25日)