【政権交代の文化的視点】

大都市がコミュニティに注目し政策エネルギーを注ぎだした。中小自治体と巨大自治体の政策方向が同じ方向に向きだしている
 

 帝塚山大学大学院法政策研究科教授 中川幾郎

 聞き手……尾形宣夫「地域政策」編集長

【略歴】
中川幾郎(なかがわ・いくお)
1946大阪府生まれ。
69年同志社大学経済学部卒業。2000年大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程修了。96豊中市役所市長公室広報課長を最後に退職。97年帝塚山大学法政学部助教授を経て現職。日本文化政策学会会長、自治体学会代表委員、日本NPO学会理事、コミュニティ政策学会理事、大阪府文化振興会委員、奈良県文化懇談会座長、三重県文化審議会委員。著書は「分権時代の自治体文化政策」(勁草書房)「新市民時代の文化行政」(公人の友社)など。


▽政治風土を見誤った

尾形 先の衆院選は自公政権の惨敗でした。

中川 小泉劇場型政治の功と罪が噴き出してきたという感じがします。自民党の凋落の始まりは実は森喜朗内閣から始まった。宮沢(喜一)さんあたりが最後の自民党の正統派の政治家だった。「経綸の才」を非常に意識しておられた方と思う。だから国家像と国民像、それからそれに伴う内政と外交とが常につながって政策を考えていた。
 ところが、森さん以降はどんどん官僚依存になって、官僚の優秀さに乗っかっていてもやっていけるという甘えが出てきたと思う。愛媛県・宇和島水産高校の練習船にアメリカ海軍の原潜が衝突、沈没した「えひめ丸」事件(2001210日)での処理のまずさはその典型。政策の体系が緩んで矛盾する政策、場当たり、思いつきでも何とかなるという認識が続いた。その揺り戻しが小泉内閣だった。だから民主党の圧勝も劇場型政治の反動だった。

尾形 総選挙に対する国民の期待は何だったと思いますか。

中川 「ただ変えたかった」「あまりにも長く続きすぎた」。もう先が見えたという気持ちで見切りを付けた。とにかく一度(政治の流れを)変えないと自民党も変わらないだろうと。自民党も変えたいという意識が働いたと思う。

尾形 日本の政治の土壌は、これまでも変化の兆しが見えながら基本的には変わらなかった。ご自身の専門分野から見て、日本の政治土壌これからどうあるべきと考えますか。

中川 大きく分けると、日本には農山漁村型と都市型の政治風土の二つが明確にある。政令指定都市、中核市の地域政策は都市型住民を対象とした行政を心がけることが近代的な流れだと思い込んでいた。ところが、平成の大合併で露呈したのは、従来型の農山漁村型の、顔と名前が分かり合っていてみんなが助け合って地域を支えてきたコミュニティ型が都市も含めて日本の各地域にあったということだ。
 日本の社会構造の中に地域共同体が実在していた。個人市民結集型の「アソシエーション型」と「コミュニティ型」と僕は言っているが、その二つが同時存在していることを、今度の選挙で示したと思う。
 自民党は、このアソシエーション型に対して今までは冷たくし、コミュニティ型に立脚して配分を多くして勝ち続けてきたが、政策の失敗で地方がどんどん疲弊し始めた時に、打つ手を今度は都市にシフトした。それで一時勝ったが、よけいにコミュニティ型が衰退してしまった。その仕返しが今回来た。

▽観念論に終始する住民自治

尾形 総選挙のマニフェストに「地方分権」がこれまでになく明確に位置づけられました。大阪府宮崎県などの人気知事が積極的に動いた効果はありましたが、国家像を占う上で地方分権、地方の位置付けは大切です。分権改革はこれからどう展開すると思いますか。

中川 民主党のマニフェストは市町村をベースとしての基礎自治体に権限をもっと強め、交付税も使途自由にしていくと言っている。その二つぐらいしか明確でなく、ちょっと不鮮明なところはあるが僕は、これで道州制の議論は遠のいたなと思う。
 ただ、確認を彼ら(民主党)にして欲しいのは、分権というのは地方に権限、責任、財源も併せて委ねることだ。道州制は集権的な道州知事を期待する方向に行っていた気がする。精密な議論をしないと危ないと思っていたが、民主党はその議論をし尽くしていない。

尾形 民主党は、道州制については具体的に踏み込んでいません。

中川 市町村に主体的な権限を渡し、それで広域自治体はその横つなぎをしていくと。例えば一部事務組合を作りやすくするとか、広域連合でもって河川行政をやるとかね。そういうところにもっと大きな力を発揮すべきで、都道府県という位置付けももう少し変えていくべきだろうと思う。

尾形 分権の基本は基礎自治体のあり方です。新政権が基礎自治体中心に分権改革を進めるのは正しいと思いますが、基礎自治体といっても人口何百万人もいる政令市もあれば小規模で自然村的な基礎自治体もある。一律に地方分権としてやっていいのかどうかというのは、これは学者の間でも議論が分かれます。

中川 私は、全国を画一的に、統一的に適用している地方自治法を改正するべきだと思っている。自分たちの町の自治のシステムをもっとフレキシブルに選べるようにして欲しい。人口500人ぐらいしかない自治体には議会を置かないで、住民総会だけでやるとか、ガバナンス・システムを自由に選べるようにして欲しい。どんな小さなところも議会があり、大きなところの議会と同じような法律で適用されてやっているのは非常に不効率だ。
 執行機関も一律に「大統領制」にせずに、例えば議院内閣制にしてもかまわないし、あるいは執行委員会を選出して、その執行委員会がシティマネージャーを呼んで4年間の契約を結ぶとか、もっとフレキシブルにできるように法改正すべきじゃないか。画一的な地方自治法自体に矛盾が表れている。
 それと注目すべきことは、大都市が地域コミュニティに注目し始めて政策エネルギーを注いでいることだ。自分たちの足元が弱かったらコストがかかる。中小自治体と巨大自治体の政策方向が不思議なことに同じ方向を向き出している。注目すべき現象だと思う。

尾形 分権議論が進めば進化しますが、一方で分権論には百家争鳴的なところもあります。多極分散型の分権論だと言う識者もいます。日本の民主主義ともかかわると思いますが、文化論的に分権をどう考えますか。

中川 私は、自治が団体自治と住民自治とに分かれているということを、もう少しきちっと考察し広げていくべきだと思っている。今の自治論はほとんど団体自治としての議会と役所がどうあるべきかということばかりで、住民自治の議論がほとんど観念論で終わってしまっている。
 いわゆる行政法学者や地方自治の法律の専門家は、住民自治は団体に対する住民の統制権、つまりリコール請求権、監査請求権、あるいは条例の改廃制定請求権などと住民の直接統制権を住民自治と言っている。
 広い意味での住民自治というのは、団体を統制する権利もあるが、住民が住民自身を自己統治する部分がどうも議論としては混線している。だから、団体自治と住民自治、二つ合わさって地方自治という基本の原理に戻して、その住民自治に関する仕組みを法制化するべきじゃないか。その方が議論はもっとすっきりする。
 27次地方制度調査会の答申を受けた法改正の時に、西尾勝先生が言い出されたことが契機と思うが、地域自治区というのができた。それと合併特例区の話がオーバーラップして最終的に性格が変わったが、あの話はもともと首長選出による区長、首長の諮問機関としての地域協議会という話じゃなかった。住民で作った団体に自己統治権と、場合によっては予算も渡してよいという制度になるべきだった。

▽地方文化の集大成が国の姿

尾形 団体自治と住民自治が十分整理されていないのはそのとおりです。国民が分権に対して大きい関心を持たないというのは、個々の住民たちが「分権は俺たちにどんなメリットがあるんだ」と考えているからです。

中川 戦後私たちが受けてきた民主教育は、アソシエーション型の教育だ。契約社会型、多数決決定、討議の原理などは学んだが、完全に欠落していたのは、コミュニティ型の教育。だから、じっくり議論を重ねて案を作っていくという粘っこい、辛抱づよい社会の付き合い方や、人のためには自分の身を捧げるとか、自分の余力を奉仕するとか、そういったことがあって世の中が成り立つんだということの原理が軽んじられてきた。これは保守とか革新と割り切れるものではない。

尾形 コミュニティとして地域に共同体社会ができていたら、助け合って問題を乗り越えることができたが、それが崩壊してしまうと互助精神がなくなります。すると、地域の疲弊がかなり進んで文化の宝庫である農山漁村から文化が消える状況が表れてくる。

中川 それこそ、自民党、民主党のマニフェストに欠けているところだ。両党とも文化に関する視点が一つも書いてない。日本文化というのは無数にある地方文化の集大成に過ぎない。だから地方を無視し、弱体化させていくということは、ひいては日本固有のアイデンティティ、固有財としての日本文化を失わせしめる方向に行っている。それでグローバリズムが定着していけば、我々の持っているオリジナリティは枯れてしまう。
 歌舞伎にしたって、上方歌舞伎と江戸歌舞伎があって、それが今の歌舞伎となった。この伝統はまだ残っている。相撲は日本の国技と言うが、大正末期に日本相撲協会ができるまでは江戸相撲と大阪相撲と京都相撲だった。それが三つ合体して日本相撲協会になった。だから、地方があって初めて日本の伝統文化というのが守られていくということだ。
 奈良市に編入された旧月ケ瀬村で、今でも能楽の金春流の家元が月ケ瀬の子どもたちに長い間、能楽を地道に教えておられる。学習する、文化を伝承する、咀嚼する、そしてまた伝えていくという営みはおカネが儲かる話じゃないが、こういうものを軽んじると文化は必ず衰退する。それは全国どこの村にもある。

▽日本人は「質」の意味が分からない

尾形 地域が育んだ伝統文化、地域文化は地域振興にもつながると思います。土地に愛着を持ち、精神的にも豊かな地域が誕生できるような施策がなさすぎるのではないですか。

中川 「質の高い生活」「クォリティ・オブ・ライフ」とよく言われるが、それは流れている時間をゆったり楽しみながら、自分の周りの地域に心を通わせることだ。そういうふうなところに暮らせるというのは、例え平均所得は低くても大切で豊かなことだと思う。

尾形 「スローライフ」ですか。

中川 質の高い生活というのはそういうことだと思う。「質」という意味を日本人がよく分かってないと思うのは、質とはある価値観に基づく価値の密度だ。美しさという質もあれば、善悪の質もあるし、経済の質もある。だから、「質」と言った時に、どの種類の価値を言っているのかと僕は聞きたい。
 例えば同じ料金で買えるテレビが、片一方は機能がたくさんある。そうしたらこれは「質の高いテレビ」と言う。その時の質は機能性という価値密度のこと。「クオリティ・オブ・ライフ」でいう「質」というのは、善悪、美醜、それとか幸福感とか、そういうことを言っているんだと思う。その価値に関する議論をどこの政党もしない。ほとんどが経済価値に基づく政策であり、美しさとか、あるいは正しい、間違っているとかいう倫理観に基づく価値密度になっていない。

尾形 経済的な豊かさが国の方針になってから、文化的な側面に目が向けられなくなった。そしてバブル経済で痛い目に遭い、国と地方の税財政改革の名の下に小泉構造改革で合理化・効率化の嵐がやってきていました。その結果、格差社会の拡大、地方の疲弊が社会問題化し、安倍内閣は慌てて地域振興策のメニューをそろえましたが、いずれも参院選対策のにわかづくりの振興策でした。

中川 日本がこれから世界に売り出していこうという新しい商品は、大きく分けて二つの流れがある。一つは質の商品。日本はもう量では戦えない。質は技術の質だ。常に最先端の技術を開発していかなければならず、技術立国という宿命から逃れられない。その意味から人材開発、教育が大切だと思う。今のような公的な教育投資への低位水準な状態が続いたら、日本の特許開発とかあるいは科学技術の先端開拓とかは、負けていく可能性が高い。もう一つの商品は文化商品。

尾形 文化商品とは具体的にどんな。

中川 アニメはすごく外貨を獲得している。この日本アニメに席巻されていっている中国は、対抗する国策としてアニメ大学を作り、アニメーターとかアニメの企画とかができる人材をどんどん育成している。しかも、この日本のアニメとか漫画文化は、フランスは言うに及ばず、ドイツやイギリスまで受け入れられている。ということは、表向きの外交とは別に、まさにソフトの「文化外交」だ。それが価値の高い商品として売れている。
 「漫画」と言うとすぐ皆は馬鹿にするが、決して馬鹿にしたものではない。まさに文化商品だ。他にも商品として受け入れられる村上春樹の文学だってそうだ。

尾形 ただ、漫画好きの麻生さん(前首相)が言っていたのは「アニメの殿堂」を造る、要するに建物の話でした。日本アニメのすばらしさは分かりますが、アニメ文化を底辺で支えている人たちに目を向けたアイデアではありません。作家や作家を目指す人たちの生活を底上げする発想が、麻生さんにはなかったようです。

中川 いわゆる裾野を広げる施策が必要ということ。アーティストになるということは、我々研究者になるのよりももっとハイリスクだ。下手をすると生活もできなくなるから、それを食べていけるようにしないと志す人は減っていく。裾野が広ければ山も高くなる。

▽祭りは地域社会の再生装置

尾形 今、地方で「活性化」という名の下で昔の行事などを復活させたりするなどして、それなりに効果は表れています。ただ、イベントとして復活させている部分もあって、もう一つ何か足りないような気がします。

中川 一過性のイベントとしてとらえるか、祭りの復活としてとらえるかで僕は見分けようとしている。形は新しいイベントであっても、昔の祭りの仕組みがそこで復活していけるとなれば、これは可能性が高いし、いいことだと思う。
 祭りは宗教行事と捉えられがちだが、実際は地域社会の再生装置だ。年配者が引退して若者が代わって中心となる、子どもも大きくなって祭りに参加するという風に若い者が前に出てきて中堅になり、高齢者になったら相談役になって引っ込んでいく。毎年、毎年組織は変わる。そうして地域社会の仕組み、助け合うとか、あるいは組織伝達の仕組みとかが毎年リニューアルされる。その知恵を祭りはちゃんと装置として持っている。
 それから、祭りは災害対策の予行演習になる。いざという時に組織づくりがサッとできる。それから食料調達の機能もある。祭りって仕出しをするし、男と女がともに手を取り合って役割を分担、一緒に何かをやるという協働性の回復といった効果がある。だから僕は、祭りはすごい知恵だと思っている。ある民俗学者が、「あれは災害訓練の一つも兼ねている」と言った意味も、さもありなんと思った。
 それを現代風に回復しようとするなら地域イベントだと思うが、外部の資本をあんまりたくさん導入して、外部の知恵ばかりでやると地域資産にならない。だからイベントも基本は「地産地消」だと思う。
 それともう一つは、月ケ瀬における能楽ケースもそうだが、その土地にまつわる、自分の強烈な記憶、仲間・友だちの記憶、土の記憶、風の記憶があると、人間は必ず帰ってくる。

尾形 記憶ですか。

中川 強烈な思い出があると故郷を捨てない。必ず帰って来る。そういう心豊かな場所に帰りたい、自分を受け入れてくれるところを見つけたいと皆思っている。そのような条件をきちっとつくれば、例え所得は低くても、踏みとどまる若者は結構出てきている。そうすると、彼らはそこで食べていかなきゃいかんから、新しく知恵を出して産業を興していくというケースもいっぱい出てくる。

尾形 ある程度そこで生活していないと、強烈な記憶はできない。どうすればいいですか。

中川 その一番の集大成が祭りだ。普段は顔見知りじゃないけど、祭りの時に来たら、誰でも受け入れるよと。祭りはそういう人集め装置にもなるし、コミュニケーションの回転装置でもある。

尾形 昔は田舎に行くと、よく鎮守の森でお祭りがあって、そこでいつも神楽とか出店での買い物を楽しんだ記憶があります。あれが絆やコミュニティをつくっていた。

中川 だから、現代の社会にそういうものを復活させようとした時、私も衰退している都心部の町づくりでいつも言っているのは、大人も子どもも集まれる「町の溜まり場づくりをしよう」と。誰がいても構わないし、誰が来ても、そこに行ったら必ず何か休めるし、水かお茶が飲めるとか。そういう場所さえ確保できれば、あとはそれが町の縁側みたいになってくる。

尾形 年寄りは、そういう場所があればいくらでも行って茶飲み話ができる。情報交換の場にもなる。

中川 それをお互い交換して、自分の位置も見える。「俺にもまだ結構役に立つところがある」とか、社会と自分との位置が見える場所、つながっていける場所になる。

尾形 全く同じような話を私は熊本の知人から聞きました。シャッター通り商店の一つを借りて若者感覚で設えたら人がどんどん集まりだした。阿蘇神社近くの寂れた商店が元気を取り戻したのも、町の有志や若者が「とにかく立ち止まれるような場所をつくろう」と頑張った。そうしたら今ではツアー客が来るようになったと。しがらみにとらわれないで新しい発想で挑戦すれば新しい展望が開けるということだと思います。

▽教育・文化投資は波及効果が大きい

尾形 地域文化で思い出すのは、新潟県十日町市津南町の広大な地域で開催される「越後妻有アートトリエンナーレ」です。妻有地域の里山を舞台に開催されますが、地域が持つ様々な価値をアートを通じて掘り起こして魅力を高め地域再生の道筋を築いていこうというものです。なぜ、芸術が地域と結びついたのか考えさせられます。

中川 文化というと、すぐに高級なクラシック音楽だとかハイカルチャーをイメージするが、もうひとつの極として生活文化がある。どっちが先ではなく、どちらもなくてはならない。生活があるから芸術文化が生まれ、芸術や学術文化があるから生活文化が革新されていく。カネがなくなったらもう文化なんかはいいと言ったら、明治時代の精神に負ける。
 明治の親たちは「カネがないから学校へは行かされへん」とは言わなかったと思う。同じように、カネがあろうとなかろうと、文化への投資を怠らない。過疎政策としても頑張るんだと言っているところは、逆にアーティストがつくり出した先端文化が世界的な商品を生み出す基盤づくりにもなってくる。

尾形 地域活性化になると最初に出てくるのは雇用です。企業誘致や公共事業をテコにして雇用機会をつくることを考える。ところが、今は国も地方もカネがない。だから、発想を変えて「文化の視点」となると思うのですが、地元がその気にならないと動かない。

中川 工業化の理論で言ったら、例えば工業投資1で大体、波及効果が2とか3とかになり雇用も増える。ところが、それは1年かそこらしか続かないということに気が付いていない。それに対して農業投資や文化投資は、係数で言うと1・5ぐらいしか出ないが、2年、3年、4年とジワーッと続く。そうすると最終的には、公共土木投資よりも文化への投資、教育投資が経済波及効果はロングランで、しかも大きくなることが最近の傾向として分かってきている。
 日本は、もうこれ以上ハードに血道を上げないで、もっと技術開発、ソフト、それと人材開発、教育にカネをかけた方が、国全体としての経済波及効果は大きくなる。教育や文化は、農村であろうと都市であろうと同じように必要だから、そういう意味では公平だ。

尾形 以前、著名な学者と話をしていたら、「地域活性化は、人材投資、人材活性化だ」と言っていました。地域活性化を叫ぶ声は多いが、教育だとか人材発掘といった面からの発想がまるでないと。

中川 「まちづくり」という言葉がよく使われるが、今は物づくりの時代ではない。必要なのは物づくりの前の「仕組みづくり」だ。仕組みの中には技術もあるし、マナー、ルール、あるいは町の運営のスキルなどもある。そういう創出性のソフトを次の町づくりに生かすこと。
 だが、もっと大事なのは人づくりだ。団塊の世代が今続々と地域に帰ってきているが、彼らが地域に活力を還元してくれるような仕組みをつくるのも人づくりと言える。今のまま放っておいたら、皆がハレーションを起こして地域から弾き出される。なぜなら、ウルトラ級の企業人間が地域コミュニティに帰って、会社と同じような物の言い方をしていたら、それは地域社会の文化やマナー、ルールに合わなくなるからだ。コミュニティにはコミュニティのルールがある。

▽社会教育の環境整備が必要

尾形 そういう教育は、文部科学省の学習指導要領にはないですね。「ゆとり教育」を入れたと思ったら外してみたり、指導要領自体がくるくる変わる。

中川 教育の目標が、いわゆる自己中心的な能力開発になってしまっている。その能力も、正しい答えを選択できる能力ばかりで、数学が解けるとか、国語の文字が読めるとか。それも必要だが、抜けているのが「選ばれる能力」「選択される能力」だ。集団に選ばれる、あるいは仲間に選ばれる、人に選ばれる、そういう能力も開発しなければいけない。
 社会教育はそういう力をいっぱい持っている。小学校の花壇の世話をしたり登下校時に交通安全をしたりしてくれる地元のおっちゃん、おばちゃんたちの姿を見て子どもたちは学ぶようになる。
 中高一貫教育が魅力的なのは、兄が弟や妹のことを守るとか可愛がるといった交流ができるからだ。小学校の高学年の子どもたちが低学年の児童の面倒をみる、下級生は上級生の言うことをよく聞く。それが、中高一貫で再現し、世代教育ができるようになる。それは、以前は地域で当たり前にできていた教育だ。

尾形 都会の人の中山間地を見る目は、一面的過ぎるようにも思います。経済指標を根拠に「疲弊」とか「過疎」と決め付けている面がある。ところが訪ねて見ると、「孤独な」はずの高齢者が意外に元気に暮らしている所も少なくありません。年寄りの知恵と、生活技術には伝承の力を感じます。

中川 都心部においてもそれが最近見直されてきている。都心内部におけるコミュニティの再生ということを言い出すようになった。

尾形 政治や行政が文化を見る目に何が欠けていませんか。

中川 巨視的に言うと、自民党も民主党も国家像がない。大切なのは、日本の文化って何か、守るべき文化は何なのかということが根底になければならない。経済力も軍事力も何もかも含めてパワーと言うが、今は文化がソフトパワーと言われる時代だ。文化力が経済力をつくり、文化力が軍事力を支えている。だからそれの根底をよく見ないで上っ面の経済のパワーと軍事的バランスを言っていても本質を見誤ることになる。
 皮肉な話だが、日本のアニメは日本の外務省よりも力を持っている。政府開発援助(ODA)よりもはるかに好感を持って迎えられている。文化に投資した方が国の安全係数はあがる。理解者も増え、反感を持つ人も減る。国策としても文化政策に投資しないのは愚策だと思う。その辺が見えている政治家がいない。

▽地域の固有財を磨け

尾形 今はいませんが、大平正芳首相(1978年12月―80年6月)が施政方針や所信表明演説で語った田園都市構想などは、経済優先から文化路線への転換を打ち出した画期的な考えでした。大平首相はいち早く地域文化の重要性に気付きましたが、当時の政治的・社会的状況はそれに関心を示さなかった。大平さんに先見の明はあったのですが、出番が早すぎて日の目を見なかったんですね。

中川 確かに日本の地方公共団体、文化行政の糸口、弾みをつけてくれたのは大平さんだ。地方の時代、文化の時代にいち早く気が付いていた。

尾形 近年、経済産業省は日本の伝統的技術の振興に力点を置くようになりました。いわゆる「匠」の保護・育成です。

中川 固有財の開発ということだと思う。地方の勝負は。地域の固有材をどう生かすかにかかっている。日本にはすばらしい地域、地域の固有材がある。それを磨き抜いてどんどん開発してもっと元気を出さないと。北海道から沖縄までどこにも、ここにしかないという素晴らしいものがある。それなのに、どこに行ってでもあるようなコテージをつくったり、バンガロー作ったりホテルを造ったりして、せっかくの地域の固有財を潰している。

尾形 肝心なのは人づくりですね。

中川 日本のような貧しい国がここまでのし上がったのは教育の力があったからだが、それが(今は)何もない。地域活性化の根元は人づくりだ。人だけではなくて、人と人の集まり、組織、集団、コミュニティであり、アソシエーションだ。それが地域の中に重層的に存在するような関わりをつくることだ。