【懐かしい顔】

 クラス会や同窓会は気が置けない集まりである。
 昔の楽しかった思い出、苦しかった経験を肴に何でも笑いながらの場となる。職場や家庭での込み入った話はまずない。湿っぽい話を挙げるなら病気ぐらいだろうか。
 頻度には差はあるが、学生時代の集まりが最も賑やかかもしれない。だが、俗世間を離れた屈託のない集まりは小学校時代のものだと思う。
 2004年正月、考えもしなかった年賀状が届いた。小さな田舎町だから、住所を調べようと思えば直ぐにでもできる。別に同窓会名簿をひっくっり返さなくとも苦もなく分かったはずだ。
 その年賀状に「今年のクラス会には必ず出席してください」と添え書きがあった。 小学校を卒業してから53年がたっている。半世紀前の同窓だけに、物故者が何人かいたという。敗戦から復興に向けて動き出した日本がサンフランシスコ平和条約に調印、晴れて独立したのが1952(昭和27)年だ。私たちが小学校を卒業したのはその2年後である。
 古ぼけた当時の粗末なアルバムを開くと、学校の正門を前に校長と担任の先生を中心に50人ほどのクラスメートが並んでいる。
 継ぎ接ぎの上着やズボン、セーターは寄せ集めの毛糸を繋いで編んだのだものだ。男子児童は坊主頭、女子児童はオカッパで紐で髪を結わえた、当時としては精いっぱいの装いだったのかもしれない。食べ物も、身に着ける物も不足し、貧しい生活を送っていたことが、写真でも分かる。
 そんな時代を送った子どもたちも還暦を過ぎ、我が子より孫を「無責任」に可愛がる「困ったおじいちゃん、おばあちゃん」になってしまった。どんなに粋がってもお年寄りの仲間入りをしたことに違いはない。
 クラス会といったって、「じじい、ばばあの集まり」にすぎないのだが、この「じじい、ばばあの集まり」が何とも言いがたい郷愁を誘うから不思議だ。「参加します」とすぐさま返事をした。
 学生時代と比べて小学校時代のクラス会に引かれるのは、我々の当時の生活が今では考えられないほど貧しく、子どもながらに一生懸命生きていた仲間だったからである。
 食べ物も着るものも、ありあわせ、お下がりがごく当たり前だったし、教科書の一部も兄姉が使ったものを譲り受けた。何でも譲り合い、助け合う時代の子どもだった。そのせいか、貧しかったが不思議と「豊か」な日々だったような気がしている。だから、余計に昔を懐かしむのかもしれない。
 そんな昔の子どもたちが集まったクラス会が3年前の秋、宮城県・青根温泉、昨年は少し遠出をして沖縄に遊んだ。いずれも、6、7割は女性だった。スケジュールが合わないなど理由はまちまちだが、女性の方が自由度で勝っていたことは間違いない。

          ☆              ☆

 こんな古い話を紹介するのは、つい最近、突然鳴った携帯電話に始まる。
 受話器から特徴のある声が聞こえ、「今、白組のおばさんが集まって車で遠刈田温泉に食事に行くところ。どうしていますか」。白組とは小学校時代のクラス名。遠刈田温泉は蔵王連峰の宮城県側の中腹にある古い温泉郷だ。
 季節ごとに旅に出掛け、美味い食事を腹いっぱい食べて満足する。留守にした家のことなどあまり心配しないようだ。ちゃんと留守をしてくれる人がいるから、心配などすることは余計なお世話なのだ。
 携帯の受話器から飛び出してくる元気な声は続いた。
 「皆が集まるとクラス会で楽しかった思い出が次々と出てくるの。また、どこかに行く時は必ず参加してね」
 実は昨年(2006年)は6月の沖縄旅行から帰って、10月に2度目のクラス会を仙台市近郊の秋保温泉で催した。広島から遠来の先生を迎えての集まりで、運悪く雨に降られたがのんびり湯に浸かり、宴会もかなり盛り上がった。
 ここまで来ると、長い無沙汰を埋めるクラス会というよりは、「クラス会」を口実にした遊興を求める「遊びの会」と言った方が正しい。
 沖縄旅行は、1972(昭和47)年の沖縄返還を現地で取材、返還の前後3年間駐在した私の提案を皆が受け入れて実現した。
 読谷村のホテルを足場に中北部の観光スポットを回り、翌日は那覇市内の高台にあるホテルに泊まり、夜は夕食を兼ねて国際通りの始まりにある民謡ライブの店に繰り出した。
 軽快な三線が奏でる沖縄民謡は、どこか異国情緒を感じさせて心地よい。いつの間にか体が三線の音色合わせて動き出した。ほろ酔いの旅行客と思えるグループが、誘い合って立ち上がり踊りだしたのがカチャーシー。沖縄では老いも若きも歌に合わせてカチャーシーを踊るのが常だ。
 わが一団も我慢しきれなくなったようで、次々と踊りに加わった。ついには仲間13人がステージ前を独占、周囲の客の手拍子も手伝って調子は上がりっぱなしだった。
 旅行先に沖縄を選んだのは、単なる観光だけでなく、沖縄の現実を見てはどうかと思ったからである。那覇市の中心部には高層ビルが建ち並び、リゾートホテルが東シナ海に面する西海岸に切れ間なく並ぶ。そこに年間500万人を超える観光客がやってくる。那覇空港から北部の中心都市の名護市まではく高速道路が走る。
 こんな「表」の顔とは別に沖縄には広大な米軍基地が居座っている。沖縄本島だけを見れば、総面積の2割を米軍基地が占める。それも一等地ばかりで、住民はその周りに密集する。青いさんご礁で囲まれた。沖縄は、こんな現実とも向き合っている。
 クラス会とはいえ少々堅苦しい旅になったが、沖縄の魅力を十分堪能できたと思う。

         ☆              ☆

 04年以来、3度のクラス会をやったが、気がついたことを最後に付け加えておく。
 皆が集まってわいわい話す中で、不思議と「ぼやき」や家庭内の込み入った話がなかった。親バカぶりも聞かなかったし、孫を自慢する者もいなかった。
 歳のいった者が集まると、必ずのように話題となるのは「家族」「親子」「嫁姑」だという。話している本人は気付かないようだが、聞かされる側はたまったものではない。よくよく、頭に入れておいた方がいい。(2007年10月19日記)