5) ◎思い起こせ自治の原点

 さんご礁に囲まれた沖縄の島々は観光客を引き付けてやまない。観光客数は年間500万人を超え、県の期待値はさらに膨らみ、650万人目標とするほどに鼻息が荒い。リーディング産業の観光に弾みがつくのは喜ばしいが、一方で、県民所得は全国平均を大きく下回り、華やかな観光産業の裏で地場産業が思うように伸びない。失業率も7%と全国平均の約2倍。この明と暗を併せ持つのが沖縄経済の現実の姿である。
 1972年の日本復帰後、沖縄に投じられた財政資金は7兆円を超える。加えてとられた数多い特別措置は、復帰に伴う社会の仕組み、制度変更から県民生活を守る激変緩和の措置だった。こんな手厚い政策が実を結ばない理由は多々ある。広大な米軍基地が経済の活力をそいでいるのは間違いないが、同時に自立経済に必要な戦略を国も沖縄県も立てられなかったからだ。
 10年ほど前、沖縄の自立を描いた「国際都市形成構想」と、その実現に不可欠な米軍基地返還の「アクションプログラム」があった。が、この構想は普天間飛行場返還の移設先を巡って当時の革新知事と国が険悪な関係となって消滅した。一国二制度を目指した構想に代わって登場したのが、「内国的」な現在の振興策である。アジア外交の必要性が高まる中で一国二制度を目指した構想が潰えた意味は大きい。
 現実離れという批判はあったが、アクションプログラムは基地変革の一つの行程を示したものである。その後の日米合意による米軍基地整理・縮小計画の実現にも役立っただろうと思えるし、現に進んでいる米軍変革での在日米軍再編への活用が可能だったことも想像に難くない。結局は、日米同盟を重視する外交、片や国頼みで主体性を欠いた振興計画が今なお続いているのである。
 沖縄の自治は支配者と被支配者の葛藤の歴史と言っていい。古くは廃藩置県による「琉球」の消滅、敗戦後は講和条約発効による本土からの分断・米軍支配など、特異な歴史が沖縄の自治運動の背景にある。特に、軍政下の沖縄の自治の戦いは文字通り、命と生活を守る人権の戦いであり、これが1972(昭和47)年の沖縄の本土復帰につながった。
 復帰後の沖縄の歩みは一に基地問題であり、その裏返しとしての経済振興だったが、国主導、国頼みの振興策は自治の動きを弱める力となって働いた。
 こんな中で最近、中央集権体制が通用しなくなった現実に呼応するように、かつての労組主導の自治運動から新しい形の自治運動に発展、広がっている。学者を中心に県職員、会社員、マスコミ、政党人など職域の壁を越えた集まりである。
 経済振興の限界が分かり、国が進める市町村合併も地域意識の強い風土の中で順調に進んでいるとは言いがたい。そして、その先に待ち構える道州制問題が相まって沖縄の自治意識を強く刺激したのだろう。
 だが、県の動きは鈍く、腰も据わっていない。「積極的な発言や行動は控える」が県幹部らの認識だという。中央直結崇拝と国依存の意識が腰を引かせている。自治の潮流を眺めているようでは自立の道は遠い。

(05年秋季号、10月1日)