ユズリハ
木下美佐子
植物の譲葉(ユズリハ)のことである。
この植物の名前の由来は新葉が成長して古い葉が落ち、新旧交代がはっきりしていることから「譲る葉っぱ」、それが「譲葉」になったという。譲り時を知って新旧の世代が交代して絶えることなく続いていく。
私は、この頃の人心を想うと不安ばかりが先に立つようになった。
少し前までは「超高齢社会」がやってくればハード面もソフト面も優しい世の中になっていかざるを得ないと楽天的に捉えていた。しかし今は、どの面を切り刻んでも口から出る言葉は「嘆き」や「ぼやき」。
結局、自分ではどうにもならないことを言ってみても前進的なエネルギーが湧いてくるはずもなく、足下の自分が出来ることに目をやり、感謝と喜びを見つけるのが賢い生き方かもしれないと言う思いに至る。
しかし…ぼやきが消えることもない。
今の私の心の中のくすぶっている一番のぼやきのガス抜きをして「さあ、さっぱりした、またがんばろ〜」となる方法はないか…
私の抱えているぼやきとは、ボランティア団体の代表を仰せつかり6年やってきたが、そろそろ交代の時期だと自覚しているのに、一向に次につながる者が見つからないということだ。
そこで、何か参考になるものはないかと私の頭に浮かんだのが、先に述べた「ユズリハ」と、併せて「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはなとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と始まる吉田兼好の徒然草である。
昨今はインターネット上で人様の解釈を読ませていただける時代でもあるから余り知らない私でも知ったような気になる。
その「第155段」の後半に次のように書いてある。
「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序甚だ速し。生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」
なんと人に譲りたがらない輩が多いことかと常々思っているのに、かく言う自分が交代の時期だと思いながら、後継者が見つからないと思い込んでいるもう一人の自分がいる。
この文章を書きながら、すでに次の芽が準備しているのに見つからないと思って、私は代表の座についているのかもしれない。
死ぬことを知った生きざまと、死を忘れた生きざまでは自ずと現れる行為は違ってくる。交代の時期は急に来るのではなくすでに準備していることを自分が知っているか否かである。
自然は理屈抜きで色々な事を教えてくれる。自然に対する謙虚な心で自然から学ぶことだと改めて思わされた。
(「UDまちづくりの会」代表)