特別企画「安保と沖縄」第一部

4)「国家と住民」6回続きの
(3)「不信感」(96年3月26日付)

◎「沖縄は日本でないのか」
  政府対応に膨らむ疑念


 完成から九カ月目にして、やっと「平和の礎(いしじ)」の前にひざまずいた沖縄県具志川市の老夫婦は、戦争で亡くなった肉親との平和な生活を思い出していた。
 「名前を見て胸がつまりました。不幸や病気が重なって来れなかったが、やっと思いがかないました」
 三月八日、沖縄県糸満市摩文仁に造られた平和祈念公園内の平和の礎に、この日も戦争被害者の家族が訪れていた。礎に刻まれた肉親の名前をなぞり、身じろぎもせず手を合わせる姿は絶えることがない。遺骨は今でも掘り起こされ、礎に新しい名前が並ぶ。

▽許せない閣僚発言
 戦後五十年を迎えた沖縄では昨年、平和を追求するさまざまな行事が開かれた。混迷の中で迎えた一九七二年の本土復帰記念行事が、鳴り物入りで豪華さを誇ったのに比べると、「県民全体が心から平和を祈った」と言われるくらい、質素で静かなものだった。

 そんな雰囲気の中で、米兵による女子小学生暴行事件が起きた。
 県経営者協会の稲嶺恵一会長は言う。
 「あまりにも強烈だった。私は(暴行事件という言葉を)口にするのも嫌だ」「県民の胸にたまっているマグマに穴をあけてしまった」
 事件に抗議して中部の宜野湾市で開かれた県民総決起大会には、いつもは集会に無縁と思われた一般の主婦、経済団体や軍用地の契約地主が参加。八万五千人(主催者発表)を集める空前の規模となった。
 「平和を考え込んでいる時期の事件。その前や今年だったら、あんなに大きくならなかった」(沖縄人権協会・福地曠昭理事長)

 事件はその後、米軍用地の強制使用に関する大田知事の代理署名拒否、国(首相)の知事に対する執行命令訴訟に発展、政府と
沖縄県は全面対決の様相を濃くした。
 背景には、犯罪捜査権に絡む日米地位協定の改定などを求めた、沖縄県の陳情に対する関係閣僚の対応や政府高官の相次ぐ刺激的な発言があった。
 いずれも日米安保を優先、沖縄県に「自制」を求めるものに映った。
 「日米友好を言うなら、何故問題解決に真剣に取り組まないのか。沖縄は日本ではないのか」
 こんな声が急速に広がった。「一番許せないのは河野洋平前外相」と言ってはばからない経済人もいる。

▽一本化された世論
 沖縄の世論は様変わりした。二十数年前、祖国復帰運動が大きな渦になっていた時期は、世論は保守と革新に二分され、過激な行動も頻発した。
 だが、今は「双方が歩み寄った。一本化された形で極端な人が少なくなった」(稲嶺会長)「一緒に行動することがなかった本土の県人会も割れない」(福地理事長)という。
 組合や団体主導の大衆行動に代わって、草の根運動的な行動が前面に現れた。連合沖縄の渡久地政弘会長は「今は個人も地域も主体的に着実に動き出した」。県民大会がそのいい例だと話している。
 その世論に表れた政府への不信感を解消するのは、沖縄が求めている「目に見える形での基地縮小」にほかならない。
 残念ながら、現状では沖縄県民を納得させるような回答は期待しにくい。今月末に使用期限が切れる米軍施設は、継続使用の措置が取られるだろう。
 そんな状況を見て、県民の不信感がどんな形で噴き出すのかを懸念する話を各界リーダーから多く聞いた。「反動」を心配する声もあった。

 福岡高裁那覇支部で行われた尋問で、知事は戦後五十年にわたる基地の重圧をいかに住民がしのいできたかを淡々と説明。方言を例に、沖縄の心情も話した。
 だが知事は、沖縄の戦略的な地理的条件に話が及んだ際、「中国や北朝鮮の脅威があるというなら、九州辺りのほうがよほど近い」と具体名を挙げた。安保の「公平な負担」を言ったことはあるが、地名を口にしたのは異例なことだ。
 知事は、何か心に期すものがあったのだろうか。

(共同通信編集委員 尾形宣夫)