☆沖縄復帰の記念式典は政治状況を判断した政府の考えで、例年の復帰の日での開催を見送り、沖縄返還を決めた日米共同声明発表の11月に行われた。基地問題の先行きを暗示するような式典設定だった。


核心評論「復帰25周年記念式典の意味」

◎基地返還の行方占う催し
  祝賀よりも政治色濃く



 政府主催の沖縄復帰二十五周年記念式典が二十一日、沖縄県中部の宜野湾市で開かれる。
 基地の島、沖縄県民が過去二十五年間背負ってきた苦難を振り返り、二十一世紀の発展を目指して新たな出発点となる区切りの式典と位置付けられる。一九六九年のこの日、日米両国首脳が返還協定に調印、沖縄の本土復帰が正式に決まった日である。
 本来なら、県民挙げての式典となるはずだが、県民の関心は薄く盛り上がりがない。県議会与党の社民党が参加を拒否するなど、逆に反発さえ呼んでいる。
 抜本的な解決策が見えない普天間飛行場の移転問題で、十二月二十一日には移転先に予定される名護市で移転の可否を問う住民投票が行われる。最終段階に入った地元では賛成、反対両派が激しく運動を展開しており、投票結果は予断を許さない。
 加えて、県民の間には国や県が検討中の経済振興策に対する不安がまん延している。記念式典どころではない、というのが本音ではないか。

 記念式典は返還が実現した五月に開くのが筋だ。しかし、年初以来、米軍基地用地の継続使用問題が熱を帯び、米軍用地特別措置法(特措法)改正がクローズアップされるなど、政府と沖縄県の緊張関係が続いていた。
 また主要国首脳会議(サミット)出席をはじめ首相の政治日程も立て込み、現に元首相の一人も当時、式典見送りを口にするほど現実味はなかった。事務レベルではともかく、仮に開催するにしても、政治的タイミングと内容が重要だった。
 首相や政府首脳にとって誤算だったのは、普天間飛行場の移転で大田昌秀知事の態度が予想外に硬かったことだろう。
 一方で、沖縄県の国際都市形成構想や全県自由貿易地域構想をめぐって県内では賛否両論が渦巻き、具体的な振興策でも県の独走に反発する声が高まっていた。普天間飛行場の移転問題でも県と地元名護市の感情的対立が深かった。
 政府がこの複雑な方程式にどんな答を出すかが焦点だったと言っていい。
 こうした沖縄の状況に首相は、普天間返還の遅れに伴う「事故」発生の懸念を知事に伝えると同時に、経済振興面での支援に再三言及している。特に名護市を中心とした北部地域の振興策は具体的だった。
 首相は今月初めの知事との会談で普天間飛行場移転の難航にこれまで以上に強い危機感を表明する一方、知事が説明した産業振興策には前向きに対応するよう事務当局に指示。自民党税制調査会も具体的な優遇措置を検討している。

 首相は二十一日の式典で経済振興面で一段と踏み込んだ具体策を明らかにするだろう。
 首相の念頭に一カ月後の住民投票があることは当然だ。最大の眼目は移転問題にあると言っていい。
 記念式典というよりも、政府の基地返還計画の助走が出来るか否かの政治的色彩が濃い。
 式典は、春以降の内外の政治的懸案処理に見通しがついたことで、沖縄に対する政府の誠意を表す意味を込めて設定された。
 しかし、返還協定に核問題や事前協議制度の運用で日米間の「密約」があったことを沖縄県民は忘れていない。式典開催に向けた県民の腰が重いのは、二十八年前の事実が今なお風化していないことを表している。

 (07年11月20日付)