【社説・「沖縄復帰25年」第U論説資料】

◎何も変わらない沖縄


 一九七二年五月、沖縄は二十七年にわたる米軍の占領から解かれ日本に返還された。
 それから二十五年が過ぎ、沖縄はこの間必死に「本土並み」の県をを目指して歩んできた。悲惨な占領体験を持つ県民が、心から望んだ平和な島はできたのか。
 今、多くの県民は新たに突き付けられた「基地の役割」を前に戸惑い、やるせない気持ちになっているようだ。「押しつぶされた感じがして仕方がない」と思っている人は少なくないはずだ。

 復帰前後の激動期に比べれば、沖縄の現在の姿は表面的には目を見張るような発展を遂げているように感じられる。
 だが、一皮むくと、きれいな街並みとは裏腹な基地の島の実態が浮かび上がる。
 政府の無条件に近い国費投入で、県民総生産は二十五年間で約七倍に、一人当たり県民所得は約四倍になった。幹線道路の国道58号沿いの那覇市は、本土企業の高層ビルが立ち並び、見事なビジネス街として生まれ変わった。
 だが、実態を見ると本土との格差は依然大きい。失業率は全国平均の約二倍で、特に若年労働者の失業率が高いのは深刻だ。地元経済界の首脳らは、産業基盤の弱さを訴え、サービス産業中心に発展してきた経済体質の弱さに懸念を隠さない。
 復帰時からの振興開発計画は三次にわたる。公共事業中心の開発計画で投入された財政資金は総額五兆円に上った。

 振り返ると、私たちの沖縄への関心がどれほどあったか疑わしい。
 現在の基地問題は、一昨年秋に起きた少女暴行事件を発端にして大田昌秀知事の「代理署名拒否」につながり、日米安保条約の根幹を揺るがすまでになったことは記憶に新しい。政治的にも、外交的にもかつてない試練だった。
 暴行事件は、基地被害がいかに住民を不安に置き続けてきたかを、国民の前に突き付けた。その結果、私たちは基地問題の重大さに、改めて気付いたのではないか。
 復帰後、特別国体や国際海洋博覧会の開催などの行事や観光目的で多くの人たちが沖縄を訪れているが、「基地問題」への関心は極めて低かった。本土復帰で「基地問題」は私たちの頭の中から消えてしまった印象さえ否定できない。

 日米安保条約上、日本は米国への基地用地の提供義務がある。そこに立ちはだかった知事の「代理署名拒否」は、首相自ら沖縄問題の解決に努力することを条件に決着、政府と県の信頼関係がかろうじて保たれた。
 ところが、米軍用地特別措置法(特措法)改正は、問題を振り出しに戻してしまった。
 事実上、沖縄だけを対象にした改正特措法の成立で、基地用地の契約に必要な地主の意向や収用委員会の役割がどうであろうと、国は心配する必要がなくなった。地元は手も足も出せなくなったわけである。
どうしても理解できないのは、特措法改正が国会で圧倒的多数で可決されたことだ。
 外交的に見ても、仮りに、賛否が伯仲する形での可決であれば、米国にもっと基地問題の重大さが伝わったはずだ。圧倒的多数の可決は、米国に「基地問題はない」と教えるのに等しい。
 採決に加わった与野党議員は沖縄への「配慮」を口にするが、最も心配だったのは、流動化する政局をいかに有利に乗り越えるかだけだったのではないだろうか。
 こんな国会に、大田知事らは新生沖縄の夢を託すことができないと思ったとしても無理はない。
最近になって沖縄に「独立論」が多く聞かれるようになった。
 復帰以前にもあったが、現在のそれは質的に前とは異なる。不幸な事と言わざるをえない。経済的支援だけで沖縄問題が解決できないことを国民皆が知らなければならない。

(97年5月16日付)