【社説 沖縄復帰25年】

◎沖縄の何が変わったのか



 沖縄は明日、本土復帰二十五周年を迎える。
 一九七二年のこの日、少し大げさな言い方だが、日本国中「沖縄返還」一色に塗りつぶされた。しかし、この四半世紀の流れはその思いを風化させてきたのではなかったか。
 一昨年秋から「沖縄問題」が噴出し、政治的にも深刻な事態となったが、もしあの忌まわしい「暴行事件」がうやむやになっていたら、沖縄県民がいまだに背負う基地の重圧にどれほど国民が目を向けたであろうか。それほど私たちの沖縄への関心は薄らいでいたと言わざるを得ない。

 戦後五十年という節目に、沖縄は自らの歴史や伝統を改めて見つめていた。そこに沖縄の本土とは違う「アイデンティティー」があった。暴行事件はこれに火を放った。
 沖縄は昔に比べると、目を見張るような発展を遂げているように見える。この二十五年で投じられた財政資金は総額五兆円に上る。三次にわたる振興開発計画と特別措置で県民総生産は約七倍に、一人当たり県民所得は約四倍になったが、本土との格差は依然大きい。失業率は平均の二倍で、特に若年労働者の失業率が高いのは深刻だ。
 復帰後の特別国体や国際海洋博覧会といったイベントはあったが、私たちの関心は田中内閣の時期の列島改造や中曽根内閣の時のバブル経済に向けられ、ほんろうされ続けた。沖縄がそのころどんな状況だったか、さほどの関心を示さないできたことへの反省はないか。
 私たちだけではない。政府も事務的に振興計画を進めるだけだった。だれの頭からも「基地」の二文字は欠落していたように思える。
 そんな中で、沖縄の現実を思い起こさせたのが少女暴行事件であり、それに続く大田昌秀知事の「代理署名拒否」だった。日米安保条約上の義務である基地用地提供に欠かせない知事の代理署名拒否は、村山内閣とそれに続く橋本内閣を揺るがした。
 この問題は最高裁で県が敗訴。橋本首相が自ら責任を負う姿勢を示し、最終的には収束した。経済振興策との「取引」的な側面はあったが、大田知事の役割は評価されていい。そして、全国に知れ渡った「沖縄の叫び」は、国民の目を覚まさせる効果があった。
 もちろん、これまでも沖縄の声がなかったわけではない。ただバブルに浮かれ、飽食に明け暮れた私たちの耳に届かなかっただけなのだ。

 沖縄ではこの四半世紀の間、基地にまつわる事件や事故が続発した。こうした状況をよく認識しないままに、政府は問題が噴出して初めて動き出す。政治家は流動化する政局の中でわが身の処遇に目を奪われ、肝心な行動を取らなかったことは否定できない。
 そのツケが一挙に回ってきたのが、この一年半だったと言える。
二十五年が過ぎて、沖縄の米軍基地はわずかに一六%が返還されただけである。この間、本土は六〇%縮小した。沖縄の基地機能は軍事技術の進歩を考えれば、何ら変わらない。むしろ、昨年四月の日米安保共同宣言で役割は強まった。
 基地は国民、とりわけ地元住民の支持があって機能する。国の思惑だけで安泰なわけはない。六九年の日米共同声明から一年後、復帰を目前に控えて起きた「コザ暴動」や今回の暴行事件はそれをはっきりと証明している。

 沖縄の基地負担を軽減するためには、現在の安保体制下では本土が、その一部を肩代わりすることも必要になるだろうが、極めて難しい問題だ。
 例えば実弾射撃演習場の移転先の問題一つを取っても、強力な実働部隊を受け入れる所を見つけるのは、不可能に近いと言わざるを得ない。
 沖縄は今、平和で豊かな島を夢見ている。県は二〇一五年を目標に段階的な基地返還プログラムを進めている。「国際都市形成構想」はまだ、具体性に乏しいが、大胆な制度導入を含めて作成作業が本格化する。
 政府も私たちも率直に過去を反省し、沖縄に温かい手を差し伸べるべきだ。復帰二十五周年は、新生沖縄の将来を決する節目でもある。

(97年5月14日付)