評論企画「沖縄復帰25年」3回続きの(下)「自立を求めて」

◎「構想」実現目指す県
 今なお残る自立への不安


 夏を思わせる日差しが目を射る沖縄県宜野湾市のコンベンションセンターに、読谷高校生が歌う「県民の歌」が流れた。自然の美しさを誇り、新生沖縄の「永遠(とわ)の繁栄(さ かえ)」「未来(あす)の文化」を誓う涼やかなメロディーに聞き入る橋本竜太郎首相の姿があった。

▽遺影に誓う首相

 今年四月二日行われた屋良朝苗元知事の県民葬に、首相をはじめ与野党党首がそろって参列した。
 懸案の米軍用地特別措置法(特措法)改正の閣議決定を翌日に控えた首相はあいさつで、沖縄問題への努力が足らなかったことをわび、「先生の目指された沖縄の実現に政府も全力を尽くすことを誓う」と締めくくった。
 訪米を控えた首相は大田昌秀知事らが強く求めた米海兵隊の縮小要請を明確に拒否した。代わりに昨年九月の緊急記者会見で発表した、強力な経済振興支援を約束した「首相談話 」の趣旨の実行を重ねて約束している。
 首相は、県首脳らとの会話もほとんどなく帰京した。多忙な身だったが、葬儀への参列だけでも精いっぱいの誠意を示したかったのだろう。
 沖縄県が二〇一五年を目標にまとめた「国際都市形成構想」は現在、基本計画の作成を急いでいる。構想の裏打ちとなる基地返還行動計画は、米軍基地の全面返還を打ち出しているため、構想に対する県内の反発や疑念は根強い。政府も表立っては否定しないが、現段階では部分的な項目について可能性を認めている段階にすぎない。

▽歳月要す再開発

 構想の決め手は、返還された基地の跡地利用がスムーズに運ぶか、にかかる。復帰から昨年末までに約四千三百五十fが返還されたが、整然と再開発、生まれ変わったのは那覇市小禄地区や北谷町の飛行場跡地などわずかだ。
 巨大な那覇新都心計画は、当初の計画では完成が最初の返還から二十二年後の九八年。しかし、細切れ返還だったため、完成は大幅に遅れる。返還から利用開始までは、これまで平均で十数年の歳月を要した。土地利用計画に対する地主の協力取り付けが難しいらしい。
 復帰後早々と返還が決まった那覇軍港は、移転先の自治体の反対でいまだに返還が実現されない。昨年、普天間飛行場の返還が決まったが、移転候補地の名護市は事前調査を認めたものの、受け入れを決めていない。那覇軍港の二の舞、とささやかれる。
 「普天間」返還が合意したとき軍用地主会は反発した。県の跡地利用計画に具体性がないことが理由だった。日米共同声明が出た前後にも地主会は喜ばなかった。収入源の地代を失う不安からだ。

▽開発で傷む自然

 昔も今も残る自立への不安に対する答えを、国際都市形成構想はまだ示せない。肝心の地元でも県議会与党は、大田知事の方針に賛成するが、積極的な行動には出ていない。沖縄問題の解決に高度な政治力が不可欠だったため、地元での根回しが不足したことは否めない。
 この二十五年、沖縄はほぼ十年ごとに特徴的な状況が表れた。最初は革新県政下での復帰に伴う混乱期、次が保守県政での経済優先期、そして九二年からの大田県政は沖縄の歴史的、文化的資産に目を向けた「アイデンティー」を求める時期、と言える。
 経済優先期の前半は、バブル全盛とその崩壊期に当たる。バブル期、本土資本は各地の景勝地を根こそぎ手中に収めた。見た目にはきれいな沖縄も、各種開発で「自然」が失われつつある。
 これまで投入された財政資金は総額五兆円。必ずしも効果的な国費の使われかたがされたとは言えない。

 (共同通信編集委員 尾形宣夫)