評論企画「沖縄復帰25年」3回続きの(中)「立ちはだかる現実」

◎不安渦巻いた復帰前後
 基地の態様は今も不変


 「私は、これまでの苦難に満ちた沖縄の戦後史の一こま一こまを思い浮かべながら、万感胸に迫る思いでこれを確認しました」
 「しかし、県民の立場に立って考えるとき、共同声明の内容には満足しているものではありません」

 今年二月、九十四歳で死去した屋良朝苗琉球政府主席(当時、元沖縄県知事)は、沖縄返還を決めた一九六九年十一月の日米共同声明を受けて発表した談話で、複雑な心境をこう吐露した。

 ▽世変わりの混乱

 共同声明から七二年五月十五日の本土復帰までの約二年半、沖縄は混乱のうちに終始した。
 「やっと厚い鉄の壁が動いた」(屋良主席)が、この間、米軍基地は住民に重くのしかかった。復帰という「世変わり」を前に、社会の仕組みが変わることへの不安は覆うべくもなかった 。基地に依存しきった沖縄は、文字どおり「浮き草経済」であり、「根なし経済」だった。
 当時の様子を記した赤茶けたメモ帳が手元にある。米国のドル防衛策を背景とする基地労働者の相次ぐ大量解雇と、その撤回を叫ぶ「全軍労」の度重なる長期ストの様子。基地撤去を求め ながら、解雇に反対する闘争は沖縄が抱える矛盾を象徴して余りある。
 ぜいじゃくながら独自の経済活動をしてきた企業経営者の本土資本に対する懸念は、「恐怖感」とさえ映る。米兵相手の飲食街は、ドル防衛策のあおりで以前の賑わいをなくしていた。嘉手納など主要基地周辺の歓楽街はベトナム帰還兵が引き起こす事件・事故が多発、住民生活を恐怖に陥れた。
 基地公害におびえる住民の感情が爆発したのは、共同声明発表から一年後にコザ市(現在の沖縄市)で起きた「コザ暴動」だった。

 ▽「最悪の基地」

 共同声明の四カ月前になるが、本島中部の知花弾薬庫でガス漏れ事故が発生、県民を震え上がらせた化学兵器一万三千二百dは、二年後までに全量撤去された。屋良主席が「沖縄は世界最悪の基地だ」と怒ったのはこのときである。
 沖縄の撤去要請に本土政府が「他国の軍事問題に介入できない」と消極的な姿勢を示したが、これは外務省が今年二月判明した沖縄・鳥島射爆場での劣化ウラン弾誤射事件で見せた認識と同じだ。
 本土復帰が目前に迫り、寸時を惜しむ多忙な主席に執務室で面会した。みけんにしわを寄せながら難問をあれこれ話す主席が、最後に「自主的に自らを解決、生きていくことは人間の本質です」と語ったことが私のメモに残る。
 廃虚のなかから立ち上がって大衆運動の先頭に立ち、念願の復帰実現にこぎつけた主席に本土政府の理解者は多かった。
 今日に至る手厚い特別措置は、当時の主要閣僚の支援があってのことだ。

 ▽不可欠の足場

 だが、基地問題は違った。復帰時点と現在の在日米軍基地を比較すると、面積で本土が約六〇%返還されたが、沖縄は約一六%にすぎない。
 米政府に基地提供義務を負う政府は、復帰時に五年間の暫定使用を認める沖縄公用地暫定使用を施行。その後、同法は再三延長されたが、期限切れの八二年に米軍用地特別措置法(特措法)を適用、軍用地の契約拒否を押しのけた。
 特措法は今年四月、圧倒的多数で改正され、政府の基地提供面での不安は消えた。
 復帰を前に、県民の不安の的だった戦略爆撃機B52は撤去されたが、九〇年の湾岸戦争では沖縄基地からも出撃、最近の台湾海峡緊張時でも警戒態勢を取った。フィリピン基地を失った米軍は、沖縄を不可欠の足場としている。

 (共同通信編集委員 尾形宣夫)