核心評論

【師の教え】(97・3・14)

☆橋本首相は米軍用地特措法の改正方針を固め、自民党が社民、さきがけに伝える(12日)。

◎首相、沖縄で不幸な選択
 役割果たした先輩政治家たち


 橋本龍太郎首相は十七日にも開かれる大田昌秀沖縄県知事との会談で、米軍用地特別措置法(特措法)の改正を直接伝え、理解を求める公算が大きくなっている。
 現行法では嘉手納基地など沖縄にある米軍の主要施設の「不法占拠」が避けられなくなったためだが、「自分の都合で法律が変えられる」と多くの県民に印象付けていることは不幸な選択 としか言いようがない。
 沖縄問題は抜き差しならぬ事態を迎えたようだ。
 「日米安保の堅持」という理由はあるが、それが大田知事をはじめ基地公害に悩む県民にどれほどの説得力を持つか、はなはだ疑問である。
 今の事態に至るまでの橋本首相や政府首脳の努力は分かるが、欠けているものがあるような気がする。問題解決に向けたパワーである。そして、日米安保を、より国民に納得させるため米 国政府への積極的な自己主張だろう。

▽首相官邸の硬軟2つの顔
 橋本首相が「政治の師」と仰ぐ佐藤栄作元首相は沖縄返還を実現させた。一九七二年五月の返還を決定付けた顔ぶれは、まず佐藤派の大番頭である保利茂官房長官、そして木村俊夫官房副長官で、この二人が首相官邸を指揮した。
 日米交渉の最終的な詰めを担ったのは愛知揆一外相、沖縄担当相は山中貞則総務長官(いずれも当時)。この四人が難事業の沖縄の本土復帰に見事な役割を果たした。
 保利官房長官は「おれは革新は嫌いだ」と言ってはばからなかった。革新とは、当時の琉球政府主席で、後に初代公選知事になった屋良朝苗氏(今年二月十四日死去)を指す。
 返還の具体的スケジュールが具体化するにおよんで、沖縄では革新陣営の「即時無条件全面返還」を求める大衆行動が熱を帯びていた。革新陣営を支持母体とした屋良主席の言動は首相の熱意に水差すものだ、と官房長官の目に映ったからだ。
 こわもての官房長官は屋良主席との面談を好まず、代わって主席の意向を受け止め相談相手になったのは官房副長官の木村俊夫氏だった。当時の官邸は沖縄問題で「硬軟」二つの顔があった。
 返還交渉の実務面を指揮した愛知外相は、主席に交渉の難しさを説きながらも対米交渉では度々、政治判断を加えた。
 外相は第一次佐藤内閣の文相(六四年七月―六五年六月)当時、視察を名目に東京大学を訪れ総長室で待っていた屋良氏と秘密裏に会った。この時、屋良氏は沖縄教職員会長だった。主席に就任する前のことである。
 屋良氏は文相に、沖縄の劣悪な教育環境の整備、改善を強く訴え、文相も「身じろぎもせず」(大城盛三・元主席秘書)耳を傾けたという。この後にも文相の計らいで、屋良氏は文部省幹部を前に沖縄の実態を説明する機会を持つ。
 文相から外相に転じた愛知氏が沖縄に「深い理解を持っていた」(大城氏)のは、こんな背景がある。

▽援軍乏しかった橋本首相
 戦前、台湾の師範学校で屋良氏の教育を受けた山中総務長官は、掛け値なしの屋良氏の理解者だった。本土復帰に際して、本土との格差を考慮して出来上がった多くの暫定措置に、沖縄の意向が可能な限り取り入れられたのは、屋良氏との師弟の関係を抜きに考えられない。
 こわもての官房長官を除けば、三人の沖縄の理解者は同時に政府部内での説得役もこなした存在だった。
 「人事の佐藤」と言われた元首相の人事の妙がうかがえる。現職国会議員の山中氏以外の三人は他界した。
 返還交渉と今回の沖縄問題を同列で論ずることはできないが、橋本首相の誠意がなかなか沖縄に伝わらないのは、「役者」不在だからとは思いたくない。
 今月五日、衆院予算委員会で沖縄問題の答弁中、首相が「黙って聞け」と声を荒げた裏には、関係閣僚の働きが十分でないことへのいら立ちはなかったか。

 (共同通信編集委員 尾形宣夫)