核心評論

11)[公告・縦覧代行応諾](96年9月14日付)

◎沖縄の世論分裂回避 
 市町村との交渉なお難問山積



 大田昌秀沖縄県知事が基地強制使用の公告・縦覧代行を決断した。十日の橋本龍太郎首相との会談からわずか三日後。即決に近い。米軍基地縮小の具体的な見通しがないままの決断である

 首相との会談で示された以上のものは現段階では望めない、政局の動向を勘案した上でのことだが、同時に県民世論の動きを綿密に分析した上での結論だろう。

▽揺れ続けた世論
 沖縄の世論は揺れ続けてきた。
 「平和憲法」に守られる本土復帰を目指したかつての革新陣営は強硬に米軍基地の撤去を要求、一方、保守陣営は経済振興を前面に掲げ鋭く対立を続けた。
 保守陣営の一部には復帰直前、「琉球独立論」が持ち上がり、実際に声明も発表した。独立論は広いがることはなく自然消滅したが、保革を問わず根っこにあったのは、本土政府への不信 感だった。
 この間、当時の琉球政府主席、一九七二年の復帰後の沖縄県知事はいずれも双方の調整に腐心した。県民世論の分裂は本土政府、米国政府との交渉力を弱めるからだ。

▽急転の裏に何が?
 今回の沖縄問題の流れを見ていると、一九六八年十一月に嘉手納基地で起きた米戦略爆撃機B52の墜落・爆発事故後の事態収拾をした、当時の琉球政府の屋良朝苗主席が果たした役割を思い出す。
 B52の撤去を要求する抗議行動は、翌年二月の「ゼネスト」決行に向けて怒とうの様相を呈した。
 「B52撤去の感触を得た」とはやる労働団体を説得、ゼネストを直前で防いだ屋良主席(後に初代公選知事)が、後に「政治的誤解」をしたと言われた「感触発言」は、ベトナム戦争が激化している当時の状況を踏まえた政治的なものである。
 実は、撤去についてほぼ確証に近い言質を政府首脳から取っていた。ゼネストは挫折、大衆運動に深い傷跡を残したが、すんでのところで県民生活の大混乱は避けられた。
 昨年九月の米兵による女子小学生暴行事件から一年間で特徴的だったのは、労働界のみならずイデオロギーを超えた「沖縄の心」が結集したことである。これが基地の整理・縮小などを問うた県民投票に表れた。
 大田知事の決断が基地の整理・縮小でまとまった世論にどんな影響を及ぼすか速断すべきでない。昨年秋以降続いた、沖縄の政府への訴えは「体を張った戦い」(県幹部)だけに、沖縄問題の急転の裏に何があったのか、と疑念を持たれても仕方がない。
 問題は決断のタイミングだった。

▽タイミング
 県内政党や支持団体、関係自治体の了承を取り付けるには、相当な時間と今後の日米折衝を見極めることが求められる。実際、多くはそれを期待していた。
 首相の約束を引き出した以上、具体性に欠ける基地問題で論議を続けることは、逆に県民世論を分裂させる懸念があった。
 早期決着は県内の対立を最小限にとどめ、将来を見据えたグランドデザインの具体化に県民が一体となって取り組む道筋をつくるため、との見方ができる。その意味では、二十七年前の屋良主席の決断と共通するものがうかがえる。

▽首相談話が意味するもの
 首相談話にある「米軍兵力構成を含む軍事態勢の継続協議」は、近い将来の沖縄米軍基地の態様を予測させる。社民党沖縄県連首脳は「ずばり海兵隊の撤去と読む」と言う。
 だが、宜野湾市や嘉手納町など重要基地がある市町村と県の話し合いは生やさしくない。場合によっては、「反大田」感情の噴出すら考えられる。同首脳は「世論の分裂は一時期あるかもしれない」と見る。
 沖縄問題は、大きな仕組みが示されたことで一つのヤマを越えたが、具体論での難問は数えきれない。
 既に基地で実質的な「一国二制度」を強いられている沖縄に、本土と違う制度や法律を適用することは、地方分権の推進からも意義がある。分権を言うなら、沖縄こそモデル地区になり得ることを真剣に考えるべきだ。

 (共同通信編集委員 尾形宣夫)