⑩【さとうきび畑】

◎「風の音」が教えてくれる


 ベトナム戦争が激しさを増していた一九六〇年代後半、ジョーン・バエズが歌う「勝利を我らに」は、ベトナム反戦を叫ぶ若者たちの心をつかんで離さなかった。
 バエズは復帰前の沖縄も訪れ、普天間基地に程近い空き地で開かれた、基地反対の抗議集会で透き通るような声で歌ったのを覚えている。
 六〇年代から七〇年代にかけて歌われた反戦フォークソングとは趣が違うが、寺島尚彦さんが作詞作曲した「さとうきび畑」は、五十年前の沖縄戦のうめきをよみがえらせ、平和の尊さを奏でる。
 その寺島尚彦さんが逝った。洗礼名ヨゼフ。

 東京・麹町の聖イグナチオ教会での葬儀ミサ・告別式は、教会前の土手の桜の花がようやく咲き始めた三月二十六日、抜けるような青空の下で執り行われた。
 突然の発症、ペンを取れなくなってからの口述筆記、病床でメロディーを口ずさむ夫の姿―妻葉子さんのあいさつに故人への思いが込められていた。広い主聖堂に「さとうきび畑」が静かに 流れ、献花が続いた。
 寺島さんは一九六四年六月、シャンソン歌手、石井好子さんの伴奏者として初めて沖縄に足を踏み入れた。
 ほぼ一年後、故佐藤栄作首相が沖縄を初訪問、「沖縄が復帰しなければ日本の戦後は終わらない」と語った。沖縄の祖国復帰運動が抑えきれないまでに高まっていた時期だが、逆に米軍の基地機能は最高度に強化され、基地被害も続発していた。

 寺島さんが県南部の戦跡を回ったときのことだ。
 「あなたの足元に今も遺骨が埋もれています」
 案内してくれた人の言葉が忘れられず、そのときの気持ちをエッセーに書き残している。
 「風の中に戦没者の怒号と嗚咽を私は、はっきり聞いた」と。
 身の丈を超える一面のサトウキビが風にそよぐ音に、沖縄戦の過酷な姿を思い浮かべたという。寺島さんが、その思いを託した「さとうきび畑」ができたのが六七年。風の音「ざわわ」に散 華した人々の声をだぶらせた。曲は、歌手の森山良子さんが二〇〇一年暮れCDを再録音。美しく、物悲しい旋律が人々の心をつかんだ。

 折しも同年九月の「9・11同時テロ」に対する米国の報復攻撃が始まり、世界の緊張が一段と高まっていたころである。
 復帰前、沖縄に赴任した私も南部戦跡を巡り歩いた。うっそうとしたサトウキビ畑の中を走る土ぼこりが舞うでこぼこ道路、追い詰められた住民が身を潜めながら逃げまどったであろう道を たどりながら、草むす崩れた石垣に囲まれた、主のいない土地は一家全滅したと聞いたことを思い出している。寺島さんが心を痛めた場所は、「平和の礎」辺りだという。
 本土復帰から三十年を超える時空は戦跡の様相を変えた。昔を伺い知ることもできない。
 歴史のひとこまとして、単に観光資源として戦跡が存在するのか。風化する沖縄の辛苦、原体験を生の姿で後世に伝える語り部らも老いている。
 教育の柱だった子供たちへの平和教育も影を 薄めた。
 追憶と現実だが、「さとうきび畑」は、さまざまな思いを今によみがえらせてくれる。
(沖縄タイムス 2004年4月11日付)