F【分権時代の地方政治】

■野呂昭彦・三重県知事(全国知事会監事)

「第二期分権改革は、これまでの議論の延長であってはならない。知事会もこれまでを検証して基本になることを含めて国と議論すべきだ。小泉改革で心配なのは、国の形の議論が欠けていることだ」

                              聞き手 尾形宣夫「地域政策」編集長

【略歴】

のろ・あきひこ

1946年三重県飯高町(現在の松阪市)生まれ。慶応義塾大学工学部卒業、同大学院修士課程修了。厚生大臣(現厚生労働大臣)秘書を経て83年、衆院議員当選(96年9月まで連続4期)、90年厚生政務次官。2000年松阪市長、03年三重県知事就任。全国知事会監事。代議士時代は旧三木、河本派に所属。故三木武夫元首相、故河本敏夫元通産相を政治の師と仰ぐ。趣味は油絵、読書など。


▽国政での位置付け弱かった三位一体改革

尾形 新年おめでとうございます。
今年は第一次分権改革の最後の年になります。昨年11月末の政府・与党合意で、2006年度までの補助金4兆円削減、3兆円の税源移譲の具体策が決まり、三位一体改革は一応決着しました。どう評価しますか。

野呂 生活保護費といった最大の課題も政府が譲った形で決着したが、中身を見ると児童扶養手当や児童手当などの補助金は減額に見合う税額が地方に移されるが、国が関与する仕組みは変わらず、地方の裁量権、自主性を高めるものではない。
いままでの経緯を見ても、1年前に決着済みの国民健康保険の負担や義務教育費国庫負担金も今回の総枠に入ってくるわけで、結局、3兆円という数字が独り歩きしている。地域の実質的な自主性、裁量権が増すのは、せいぜい3千数百億円ぐらいだ。国は生活保護費の削減で一旦引き下がったが、全体としてはむなしさを覚える。

尾形 小泉首相は昨年9月の総選挙で圧勝した余勢を駆って、改革を競わせるような形で三位一体改革に臨みました。

野呂 郵政改革で小泉さんは、中身にわたって鋭く議論をし、国政全体の中での位置付けもはっきりと言っていた。しかし、地方分権や三位一体改革については首相のきちっとした考えが伝わってこないままだった。だから、政府の方も具体的に個別の論議をできなかったんじゃないかと思う。掛け声だけでやれといったって、それぞれ各省庁にはこれまでの経緯があるし、譲れないものがある。郵政問題で見せた抵抗勢力≠ヨの強い態度が、三位一体では全く感じられなかった。

▽国のあり方忘れ、「3兆円」論議に終始

尾形 知事は三位一体改革の究極の目標は国のあり方を示すものだと言っていました。2年半前から始まった今の三位一体改革は、財政改革、財政再建という次元で進んできた感じがします。

野呂 梶原(拓)さん(前岐阜県知事)は、全国知事会会長の時に「闘う知事会」として国との三位一体改革の交渉に臨んだが、国の全体の形をどうしていくのか、という一番の基になる考え方の整理がなく、中央省庁も存在価値を守る形で地方と向き合った。
一番肝心な基本の議論を整理しながら、着実な成果を上げるべきだった。それで、「3兆円の税源移譲」というボールを国から投げられてそれを受け止めてしまった。いつの間にかもとの議論がないのに、出てくるものについては3兆円満たさなきゃいけないという妙な形になって議論が進んできたように思えてならない。

尾形 首相から投げられたボールをどうするかで、一昨年8月の新潟での全国知事会は大激論になりました。特に義務教育費国庫負担金の扱いがもめ、方向性が出ましたが、相当、不満も残りました。

野呂 あの時の議論はその後、中央教育審議会の議論に受け継がれた。中教審は教育論から入るから知事会とは全く違うことを言う。義務教育費の問題も教育論から、日本の将来を担う子どもたちのために教育はどうあるべきなのかという観点から、国家百年の体系に立ってどうするかを決めておくべきだ。教育論がないまま、中学校教職員給与の8500億円削減が既成事実として組み込まれた。

尾形 だから、税源移譲3億円を実現するための数字合わせと言われた。

野呂 前回(2004年11月)は、義務教育費だけでない。厚生労働省は国民健康保険(の削減、7000億円)を出さなかったら出すものがない。今回は生活保護費を出さなきゃ出すものがない。それができないから児童扶養手当や児童手当の国の負担率を下げた。税源移譲の(実質的な効果につながる)真水部分≠ヘ若干あるかもしれないが、それはごくわずかだ。

▽改革で起きる格差是正のシステム必要

尾形 この結果を受けて2007年度以降の第二期分権改革はどうなりますか。

野呂 地方が言うだけでなく、政府も総論として第二期の必要性を言うと思う。しかし、改革の延長がこれまでのような議論でいかないよう、知事会としても一期目をよく検証して、政府と基本になることも含めて議論すべきだと思う。憲法議論の中でも地方自治についての位置づけをどうしようかという議論がある。地方制度審議会の議論とも絡み合わせながら、成果の得られるものにつなげていかないといけない。

尾形 第一期改革を発射台にすると第二期改革は、地方が納得しないゲタをはいたスタート台になりかねません。その辺がどの程度整理されて国と地方の協議の場で改革が進むのかが見えてきません。

野呂 国の形をどうすべきか整理しておくべきだと思うのは、例えば道州制の議論はかなりばらつきがある。今の府県のままとか、府県の合併ぐらいでいいとか、道州制をやらなきゃこの国の将来はないんだという意見まである。現状ないし府県合併を将来の国の形にするんだという考えでいくと、国から権限を移譲する範囲、その質も違ってくる。その議論がないのはおかしい。道州制をとるといったときでも国の権限のあり方、税体制の議論が必要だ。
小泉改革で心配なのは、官から民へと言うが、何でもかんでもという感じでやっていいのかというと、私は違うと思う。社会問題になっているマンション設計の耐震設計偽装問題は行政でも見抜けなかったし、民間に任せていいのかよく検証すべきだ。コスト面からだけではなく、国民のため、住民のために官が責任を持つべきなのか、あるいは民の活力を活用すべきなのか。ただ単に「官から民へ」で済む話ではない。

尾形 改革に絡めて、「競争原理」が常用言葉になっています。

野呂 私は教育問題でよく言うのだが、国から地方へという言葉も、今の改革はすべて競争原理、市場原理で競い合いながら活力を作っていこうということなのだが、それだと必ず勝ち組と負け組ができる。負け組の地方に生まれ育った子どもには教育の機会が十分に与えられない。あるいは水準に差が出てくる。
こういった問題を考えるときに私は、改革は元気を生み出す源にもなるけれども、一方で格差を生み、弱者がより厳しい状態に置かれる危険性があるから、ナショナル・ミニマムをその場合にしっかり持つ、あるいは条件不利の地域と条件有利の大都市との格差をどのように埋めていくのか。こういうシステムが一方で働くようにしておかないといけないと言っている。やみくもに官から民へ、国から地方へというものではないと思う。

▽幸せはゲーム理論ではない

尾形 分権改革もさらに各論で進んでいくと、地域間の格差、勝ち負けが顕在化し、自治体経営も難しくなります。首長の責任も問われます。

野呂 これから地域間競争は非常に激しくなるだろうと、私も思う。私自身は与えられた条件の中で三重県は絶対負けないための努力をするし、また県民もそういう意味ではしっかり立ち向かっていけると思っている。
だけど、三重県だけが良ければいいのかということではない。地域間競争にさらしてはいけないものをしっかり守りながら行政を進める必要がある。一方で、地域間競争は我が国の活力を増していくために必要な部分があるが、地域間競争をコスト主義、あるいは市場経済主義と経済の面からばかりみている風潮がある。

尾形 グローバルスタンダードですか。

野呂 我々からいくとそうじゃないだろうと。一体、何のため(の行政)かというと、住民の、そして国民の幸せのためだ。その幸せはお金だけじゃ得られないものだということは国民や県民が十分知っている。そこをどう大事にしていくかだ。

尾形 竹中(平蔵)さん=総務相=は米国流の合理主義者・分権論者。ある有力な識者は「彼は米国流の改革を日本に持ち込んだ」と言っています。

野呂 経済の世界はゲームと同じように見ていいと思うが、人の幸せの世界はゲーム理論ではない。米国は先般のサイクロンで被害が大きかったが、そのときの国の対応はどうだったか。米国社会のちぐはぐさが見える。ゲーム理論的な見方で突き進んでいるからだ。
地域全体の物差しは「幸せ」だ。それをコスト主義、市場経済で見ていくのは非常に危険。あの人は経済学者だから、興味があるのはそういう観点からだけだろうが、生きた人間を相手にするのは違う。

尾形 国と地方では行政の視点が違う、と。

野呂 人の幸せと直接向かい合っている行政は地方だ。国はマクロで国民全体が幸せだというが、その幸せ感は、いままでだと世界一の所得になったとか、経済力がついたよとか、そういう話でものをいう。しかし、一番幸せのあり方が細かく分かるのは地方自治だ。県より市町村がもっと直接向かい合っている。
例えば国が経済政策を失敗すると、その現実は地域にすぐ表れる。しかし、マクロでとらえると、悪いのは一部の地域で、全体はいいんだとかということになる。国ではなかなか、幸せという物差しの当てはめ方が分かりにくい。

▽国のあり方問い掛けた国際フォーラム

尾形 分権、行政改革を進めようとすると、効率性と人の幸せを同時に求めにくい。どうしても効率性の方にいってしまいます。幸せをどう確保しますか。

野呂 昨年暮れ、三重県伊勢市で「グローバリゼーション・フォーラム2005in三重」が開かれ、世界的な視点での議論・提言があった。特に米国の覇権主義的な形で世界平和ができるのか、グローバリゼーションの世界では、多様性を認めながら、それぞれが主体性を持ちながら、国際的なガバナンスの確立が必要なんだ、と。そういう理屈は地方でもぴったりくる。フォーラムは、国のあり方を問い掛ける意味のある議論だった。
グローバルスタンダードは例えば金融の世界で、金利の基準だとか、金融のひとつのルール、基準。これが世界標準という形で使われているんで、それは政治のなかでの言葉ではない。それを日本人は、今でも、世界に通じない形で使っている。
ただし、グローバリゼーションはやっぱり大事だし、避けられない。ところが、そのグローバリゼーションの中で、どう考え行動していくのか、その方向があやふやになっている。

尾形 三位一体改革でがんがんやっている財政再建問題も、ある意味では、グローバリゼーションがもたらしたものではないかという気もします。ところで、行政効率化の先頭を走る竹中さんを「米国の手先」と断じる声もあります。

野呂 小泉さんや竹中さんも、ある面で擁護しなくてはならんと思うのは、いままでは既得権の利権構造があまりにも網の目のごとく張り巡らされていた。それを打ち破るには、そういった方向でいこうということは、力としては大事なんだということは分かる。ただ、私の感性からいくと、大事なものを忘れずにやっているかというと、それが感じられない。

▽文化の視点は市長時代の体験

尾形 現在の社会状況は、非常にせわしないというか、がさつな世の中になっています。野呂知事は、文化的な視点を県の政策の基本として据えています。その発想は、どこからくるのですか。

野呂 いろんな文化学者の話を聞いても、人間が文化を忘れると優しさもないし、ただ勝ち組だ負け組だ、みたいになって殺伐とした社会になってしまう。どういうふうな形で文化を表現できるか皆と検討中だ。私が文化に興味を持つようになった一番のきっかけは、市長(松阪市、平成12年―同15年)をやったということだと思う。
私も国政に長いこといたら、小泉さんとまったく同じ考え、あるいはもっとそれ以上に、グローバルスタンダードを追求していたかもしれない。市民と向き合う行政を経験したことで、そこにいる市民の幸せとは何かを考えさせられた。住民はいろんな生き方をしているが、その住んでいる人たちが、その地域の文化そのものだ、我が国の文化は、まさにそういう人たちの生き方の総体だと考えるようになった。

▽歪み是正は東洋医学%I処方で

尾形 改革の掛け声の裏で、社会の歪みも現れています。

野呂 今の世の中は改革、改革の連呼だ。私もいつもむなしい思いをしながら経済的な効率性、合理性、市場経済、スピードを言ってきた。そのときに、社会の病んでいるところ、心が荒み、地域での絆の崩壊など社会のひずみが、あまりにも目についた。
それに対して国はいろんな施策やろうとするが、社会全体の歪みが、生み出しているものだから、局所にいくら対応をしようとしても良くなる雰囲気がない。取り組み方が違うんじゃないか。例えて言えば西洋医学と東洋医学の違いだ。いろんな症状に処方箋を次々と出す西洋医学は、国や地方の政策と似ている。東洋医学は生活習慣から処方を考え、個々の症状ではなく全体を包む漢方薬を出す。
行政の世界からいくと、個々の政策の処方箋でなくて、全体を包み込む漢方薬のようなものがなければ私たちの社会のひずみ全体が直らない。
どんな政策でも私たちの生き方に対してどうなんだ、という側面を見ているはずだが、漢方薬にはなりえなかった。

尾形 今どこの自治体も「協働」だとか、自治体の新しい仕組みを模索しています。しかし、自治体がそういう意識を持ったとしても、行政に地域文化とか伝統をにじませた施策がないと、協働や「新しい公」という言葉も説得力に欠けます。

野呂 だから三重県は、新しい時代の公にニュー・パブリック・ガバナンスを展開しようとしている。それはまさに、一方で文化という言葉を使うならば、決して経済合理主義だけではない、やっぱり文化的な視点を重視して、一体私たちは何の為に生きているんだ、あるいは行政から見れば、一体このことは誰の為に、何の為にするんだということだ。
幸せであるためには経済の側面は大事だが、同じようにバランスよく文化という視点をしっかり立てていかないとニュー・パブリック・ガナバンスは成り立たない。

▽「美しい景観・美しい街」より「いい景観・いい街」

尾形 三重県は藩政時代、幾つもの藩が入り組んでいて、生活だけではなくて、文化面でも合衆国≠ナした。いろんな複雑な構成要因を持って、ひとつの大きい文化を創り上げる、三重県ならではの文化合衆国≠ェ、文化創造の起点になるような気もします。

野呂 例えば、本居宣長(医学・国学者、伊勢松阪生まれ)の「もののあはれ」も、結局は、人の一番弱い部分を素直にしっかり見よう、人間の強い面あるいは理屈で知性の勝ったものだけではない、本当の元の姿を素直に捉えていこうという、いろんな側面から見たもの、あるいは実際にいろいろな違いが出てきているもの、こういったものを全て包み込みながら受け入れている。そういうものが三重のこれまでの文化にある気がする。

尾形 過疎地域の活性化も全国の自治体が頭を悩ましています。ハコ物に頼らず、あるがままの姿で「偉大な田舎」を売り出し、活性化に成功した例もあります。これまでとは違った逆転の発想が求められています。偉大な田舎を志向するのも一つの文化だと思います。

野呂 私たちは文化論からいって、公共事業のあり方だとか、景観づくりだとか、いろいろ検討している。
例えば街の景観を考えたときに、「誰がみても美しい街、綺麗な街にしていこう」という。美しい景観は今、標語みたいになっている。ところが、「美しい景観、美しい街」でなくて、「いい景観、いい街」はどうか。都会から来てただ単に「ああ、景色がきれいでいいところ」という上っ面じゃなくて、本当にそこに自分も住みたいと思う、その気持ちまで起こさせる良さというものが必要だ。それが「偉大な田舎」だと思う。
外から見えない部分、住んでみて初めて良さが分かるいい街、いい三重をつくりたい。

▽中部・関西一体化で世界への発信機能を

尾形 三重県知事の関西・近畿地区に対する「融合路線」が経済界で話題になっています。何をイメージしているのですか。

野呂 東京一極集中の流れは人口減少時代になっても止まらない。今は東京覇権主義≠ノなっている。私たちが大事だと思うのは、地域が本当に主権者として「地域主権」の社会を作っていこうと地方分権が必要だと言っている。一方で、一つひとつの県域がグローバル化した中で、競争力を持ちながら世界と向き合っていかなければならない。
東京一極集中を解消する究極の姿として首都機能移転もあるが、現実は期待できない。しかしそれぞれの県域からすれば、そういう状況でも勝ち抜く力を発揮していかねばならない。東海地区での対世界、対アジア、対中国に向けた力は東京とは差がありすぎる。

尾形 東京を目の敵にしたものではなく、もっと海外へ視点を当てた戦略ですか。

野呂 今度、「愛・地球博」でどれだけ「愛知」という名前が世界に売り出せたか。むしろトヨタという名前ばっかり知られた。地球博でいろんな変化が期待されるが、現実問題として東京圏と対比をして考えると力が足りない。どうしても東京を通した目で我々の中部を見られる。
しかし、少なくとも東海3県、中京圏と関西圏を合わせた人口は東京圏にほぼ匹敵する。面積は広いから未来型として結構なこと。経済力は、総生産で東京圏の方が若干高い程度だ。製造業の出荷額等は中部がダントツに高い。
積み上げてきた文化では京都、奈良、そして私たち三重は、これはもう日本の昔からの文化が積み重ねられた一番集積しているところだ。関西圏と中部圏が一緒になって世界に直接発信する機能を発揮すれば、首都機能移転を待たずに地域からの展開が可能になる。

尾形 「自治体外交」は、国益の制約がある外交と違って、すばやく対応できます。都市計画、公害など自治体のあらゆる行政能力が役に立っています。そこには、国境の壁はありません。

野呂 私たちは四日市公害というかっての経験を生かして中国や東南アジアで現に公害が起こったり、心配されているところに協力できるし、実際にやっている。国と国との関係では問題解決できないことがあまりにもたくさんある。そのときには国境を越えて地域と地域とのやりとりがこれからは非常に大事になってくる。

2006年 新年号)