小田原 連歌橋
I think; therefore I am!
酒匂川
富士山麓などを源流とし、足柄平野を下って小田原で相模湾に流れ込む酒匂(さかわ)川は、東海道も交差しており、交通の重要拠点であった。東海道五十三次に次の浮世絵が残されている。

歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido, パブリック・ドメイン, リンクによる
大河とまでは言えないまでも、かつては暴れ川として知られ、洪水による被害も少なからず発生した。二宮金次郎(尊徳)が子供のころに苦学せざるを得なかったのも、酒匂川の氾濫で農地や家産が被害を受けたからであった。
鎌倉からだとちょうど一日の距離にあり、鎌倉後期には鎌倉幕府将軍のための宿泊施設「濱邊御所(はまべのごしょ)」が作られ、伊豆山・箱根両権現参詣時などに宿泊したことが吾妻鑑に見える。現在の小田原市保健センター付近であったといわれる。江戸時代にはすでに酒匂川と呼ばれていたようだが、鎌倉時代には丸子(まりこ)川と呼ばれていた。
梶原景時
梶原景時は、鎌倉党と言われる鎌倉景正を一族の神として祀った鎌倉景正の子孫・縁者からなる武士団の一員である。
平家全盛の時代、鎌倉党の大庭景親が相模における平家の代理人と言える状態であり、当初大庭景親に従って頼朝と戦ったものの、
その後、頼朝に降伏して、侍所所司として頼朝の最側近として活躍した。
本来は関東騎馬武者であるが、源平合戦においては、瀬戸内海で頼朝の代官として直轄水軍を一から建設し、壇ノ浦の戦いにおいては140艘規模の水軍を率いて参戦していた。
既存水軍を指揮した義経と対立していたことでも知られ、頼朝は自分の地位を脅かしかねない義経よりも最側近の景時を重視し、義経が朝廷と結んで独立の動きを見せたことをで頼朝は義経を処分することにしたのである。
頼朝が義経をかくまったことを口実に奥州藤原氏を攻め滅ぼした際、
侍所所司として「文治五年景時軍兵注文」という頼朝に馳せ参じた武士のリストを作成する、軍官僚・参謀的な役割を果たしていた。
景時は、荒々しいものの多い関東騎馬武者の中で、参謀事務・軍政能力がずば抜けており、それこそが頼朝に重用された理由であっただろう。
頼朝の死後、梶原景時は引き続き侍所別当(長官)として幕政に参画したものの、景時と後継者の頼家は御家人の支持を失い、
最大の有力者であった景時は最初のターゲットとなり、幕府から追放され京都に逃れる途上に討たれた。
連歌橋
頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼした後に初めて上洛し、東大寺の再建時にも娘の入内工作を兼ねて上洛している。
どちらの機会かは不明であるが、源平盛衰記によると、酒匂川を渡るとき、梶原景時の馬が頼朝に水をかけてしまい、頼朝はむっとしたが、景時は「丸子川(まりこがわ 酒匂川の旧称)ければぞ(蹴鞠とかけた)波はあがりける」と詠み、頼朝は「かかり(蹴鞠をプレイする場所をかかりというのにかけている)あしくも人や見るらん」とつなげたという。
国道一号線(東海道)の酒匂川の東岸にある連歌橋という名前の橋と連歌橋交差点は、この故事に基づくものであろう。吾妻鑑には浜名湖(橋本駅)でも二人が連歌をしたことが記されている。
梶原景時はこのように和歌の教養があり、それも頼朝の側近として重用された一つの理由に違いない。
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