織田戦記7
秀吉の西方進出と毛利氏・本願寺との戦い
I think; therefore I am!
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秀吉の播磨進出
松永久秀討伐後、信長は秀吉を播磨、光秀を再び丹波に送り、西方への進出を本格化させた。秀吉は10月23日に出立してすでに友誼のあった黒田官兵衛の居城姫路城に入り、播磨の諸勢力と積極的に会談した。もともと播磨は信長とすでに通じているものが多かったため、半月後には平和裏に播磨の平定がほとんど完了した。信長もその働きぶりを評価したが、秀吉は無断離脱の汚名を返上するにはまだ不十分と考え、但馬にも攻め入ることとした。一方の光秀は10月27日には波多野氏の支城籾井城を攻撃した。
但馬に進軍した秀吉は、岩洲城・竹田城を攻略し、竹田城に弟の秀長を置いた。ついで、11月27日に秀吉は毛利氏傘下の宇喜多氏の城である上月城・福原城を攻撃し、一週間強でこれを開城させた。秀吉はこれらの城兵をことごとく処刑した。この功績に対し、信長は秀吉に名物茶器を与えた。松永久秀を討伐した信忠に対しては11種もの名物茶器を与えた。
明けて1578年2月23日、秀吉は播磨に再度入り、姫路に陣を置いたが、ここにきて東播磨に勢力を持つ別所長治がその本拠地三木城で叛き、毛利氏に通じた。これによって、秀吉は背後を扼され、東西二正面に敵を抱えることとなってしまった。
上杉謙信の死と越中侵攻
3月13日、本願寺と通じて上洛を企図していた上杉謙信が急死した。上杉家はその後御館の乱と呼ばれる後継者争いに突入し、信長は北陸方面からの圧力から解放された。これをきっかけに、飛騨の姉小路頼綱が上杉家から信長に鞍替えした。この状況を受けて、信長は越中への進出を考え、もとの越中守護代家の出身である神保長住に佐々長穐らをつけて、4月に飛騨から越中を攻撃させた。神保長住は増山城を攻略し、旧縁のある国人の一部を味方につけ越中西南部を制圧した。
毛利氏参戦
別所長治の離反を受けた秀吉はまずその本拠である三木城を攻撃することとし、3月29日三木城を包囲した。4月3日には支城のひとつを攻略した。一方、信長は4月4日、信忠を総大将とした軍勢で石山本願寺近辺に進出し、周辺の作物をなぎ払った。そのうちの明智光秀・滝川一益・丹羽長秀は続いて丹波方面へ向かい、4月10日に園部城を攻撃し、これを開城させた。
4月中旬になって毛利氏が本格的に参戦し、上月城を包囲した。秀吉に加え、摂津を任されている荒木村重が救援に向かったが、背後にも敵を抱えており、川を渡った先にある上月城には手出しできず、山上の陣地から身動きが取れなくなった。
播磨での苦境を受け、信長は信忠を総大将とした大軍を救援に送った。丹波を攻略中の光秀や、佐久間信盛・滝川一益・丹羽長秀・細川藤孝・織田信雄・織田信包・神戸(織田)信孝という大陣容であった。信忠は5月6日には明石近辺に陣を構え、三木城の支城である神吉城・志方城・高砂城に攻撃を開始した。信長の意図は上月城を救援するより、まずは別所氏を討つことにあった。信長自身も5月13日には出陣すると予定していたが、京都や安土で大雨・洪水が発生したため、信長の出陣はなしとなった。
秀吉は上月城付近に在陣し続けていたが、援軍は別所氏の攻撃に向かっており、救援することができないままであった。6月16日、秀吉は京都へ行き、信長の指示を仰いだ。信長は上月城付近の陣地を引き払い、神吉城・志方城を攻略し、その後に三木城を攻撃するよう指示した。これを受けて、6月26日、光秀・滝川一益・丹羽長秀は上月城から東方10kmほどの三日月山に陣を敷いて毛利氏に備える一方、秀吉と荒木村重は上月城近くの陣を引き払い姫路に後退した。翌27日には信忠を総大将とする大軍が神吉城を包囲した。井楼を組み立てて猛砲撃を加えた。塀や櫓が破壊され、城方は降伏を申し出たが、信長は降伏を許さず、攻撃を続行させた。志方城に対しては織田信雄が攻囲を開始した。
鉄甲船
このころ、九鬼嘉隆に建造を命じていた鉄甲船6隻および滝川一益に建造させた白い大船1隻が完成し、6月26日、これら7隻の大型艦を中心とする九鬼水軍が堺を目指し伊勢を出港した。大阪湾に入ったあたりで、本願寺方の船団が迎撃してきたが、九鬼嘉隆は敵船をひきつけた上で砲撃によって多数を撃沈した。7月17日には特に被害もなく堺に入港した。翌日より九鬼水軍は石山本願寺に対する海上封鎖を開始し、本願寺を苦境に陥れた。
播磨方面では、神吉城攻めがクライマックスを迎えつつあった。7月20日遂に城主を討ち、天守も焼け落ちて城兵の多数が焼死し、神吉城は落城した。信忠はそのまま志方城に攻撃を開始した。志方城はすぐに開城し、こちらの降伏は認められた。さらに信忠は三木城付近に進出し、押さえの城を構築して援軍は播磨から撤兵した。すでに別所氏には近くに有力な味方はおらず、秀吉は三木城の包囲を続けていくことになる。
神保長住による飛騨経由の越中侵攻は西南部を確保した時点で膠着状態に陥っていた。信長は事態打開のため、斎藤道三の末子といわれる斎藤新五郎を起用した。9月24日、居城の美濃加治田城を発し、神保長住と合流した。10月4日、上杉方が入っている今和泉城付近を放火した。その後に退却を開始すると、上杉方の軍勢が追撃をかけてきた。難所を選んで後退し、稼いだ時間で月岡野という地点で準備を整え、勢いに乗る上杉方の軍勢を迎撃し、これを大破した。今和泉城も攻略して越中中部を制圧し、その勝利を背景に越中の諸勢力の多くを帰順させ、越中国内は織田優勢となった。
斎藤新五郎が越中に向かっているころ、9月30日信長は堺まで行き、大型船7隻を擁する九鬼嘉隆の水軍を観艦した。2年前、毛利水軍に完敗して以降、海上から石山本願寺への補給に対して手が出せない状態になっていたが、九鬼嘉隆が鉄甲船の艦隊を編成したことで、海上封鎖が可能となっていた。しかし、本願寺の顕如も補給線が失われるのを黙ってみていたわけではなかった。摂津の荒木村重を離反させることに成功したのである。
荒木村重叛く
10月21日荒木村重謀反の噂は信長の元にも伝わった。信長は明智光秀や松井友閑らを遣り、望んでいるものがあれば与えよう、と言わせた。これに対して荒木村重は野心などありませんと弁明した。信長は安堵し、安土城に出仕するよう命じたが、荒木村重は従わなかった。播磨では22日、秀吉が三木城から打って出てきた別所氏の軍勢を撃破していたが、摂津を失うと播磨平定を進めつつある秀吉が敵中に孤立することになる。また、石山本願寺に対する包囲網にも穴ができてしまう。
11月3日、ついに信長は荒木村重の謀反を確信し、討伐の指示を下して自らも安土から京都へ移動した。黒田官兵衛も荒木村重の説得に訪れたが、荒木村重は応じず、黒田官兵衛を地下牢に監禁した。荒木村重の謀反を重く見た信長は、朝廷を動かし、本願寺と勅命による和睦まで試みた。
6日には600艘もの毛利方水軍が大阪湾に現れた。九鬼水軍がこれを迎撃した。九鬼嘉隆はやはり敵を寄せ付けたあと、旗艦を中心に砲撃を加えた。指揮系統を破壊され、大砲の破壊力を思い知らされた毛利の水軍は敗走した。信長はこうしてついに大阪湾の制海権を確保するに至ったのである。
9日、信長は京都を出陣し、山崎に着陣した。滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らを中川清秀の茨木城へ向かわせ、信忠ら織田一門と越前の不破直光・前田利家・佐々成政らを高山右近の高槻城に向かわせた。中川・高山の二者は摂津に力を持つ荒木村重の重臣であり、信長は彼らの説得にも努めた。特に敬虔なキリスト教徒であった高山右近に対しては、宣教師を説得に使者に送った。信長は宣教師に対して説得できれば布教を広く許し、説得できなければキリスト教を断絶させると脅していた。キリスト教徒と荒木村重に取られている人質の両方を救うため、高山右近は父友照に家督を返上し、宣教師と身一つで信長の下へ投降した。その後家臣たちは高槻城を開城して高山右近と合流した。高山友照は荒木村重のもとへ向かい、人質の身代わりになることを申し出て許された。
14日には荒木村重の本拠地有岡城のある伊丹へ滝川・光秀・丹羽・秀吉・細川らが進軍した。不破・前田・佐々ら越前衆が高槻城から茨木城へ移動し包囲を強めた。24日になって茨木城の中川清秀も降伏し、摂津の過半が早くも信長に帰順した。状況の好転を受けて、信長は朝廷への本願寺との和睦依頼を取り下げた。信長は高山右近と中川清秀を以後も厚遇した。信長は有岡城への包囲を強化した。12月8日には攻勢を仕掛けたが、有岡城の防備は固く、失敗に終わった。信長は長期戦の覚悟を決め、有岡城の周囲に13もの押さえの城を構築し、摂津の東半分を半包囲する巨大な包囲網を構築した。また、秀吉への援軍として佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶を送り、城砦の構築や補給を行って、播磨から戻った。明智光秀はそのまま丹波の波多野秀治の居城八上城を厳重に包囲した。信長は12月25日に安土に戻った。
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