織田戦記6
本願寺・上杉謙信との対立
I think; therefore I am!
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石山本願寺攻囲
前年10月に信長と講和した本願寺だったが、信長に抵抗する意思は強く、鉄砲集団として知られていた雑賀衆・根来衆を石山本願寺に入れるなど、来るべき戦闘に備えていた。また、将軍の足利義昭は毛利輝元の保護を受けつつ、再度信長包囲網の構築を図っていた。中国地方の覇者である毛利氏としても信長との衝突は不可避であったのである。かくして本願寺と毛利氏は連絡を取り、反信長の連合を結成するに至ったのである。
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4月14日、信長は遂に石山本願寺近辺に配置していた塙直政・荒木村重・細川藤孝と明智光秀に石山本願寺に対する攻囲を開始させた。塙直政は南方3kmの天王寺まで進出し、砦を築いた。明智光秀は東方5kmの森河内に、細川藤孝は東北5kmの守口にそれぞれ砦を築いた。荒木村重は野田に3箇所の砦を築いた。しかし、当時は石山本願寺付近で大和川と淀川が合流して大阪湾へ大きな流れが注ぎ込んでおり、本願寺はその南岸の石山本願寺付近から海岸線も現在の浪速区あたりまでに砦を構築し、海上からの補給線を確保していた。荒木村重の築いた砦は北岸から海上交通を扼す意図もあったが、制海権を確保するには至っておらず、信長は陸上4方向から石山本願寺を包囲したものの、それだけで石山本願寺を屈服させることは不可能であった。
そこで信長は、5月3日、塙直政・三好康長に、淀川・大和川南岸から海岸線にわたって連なる城砦群の中央にある三津寺を、山城・大和・和泉・根来の兵を以て攻撃させた。天王寺には明智光秀と佐久間信栄(信盛の長男)が代わりに入った。海上交通を喪失すれば本願寺にとって重大事であり、この攻撃に対して本願寺は数千の鉄砲を装備した1万もの兵力を援軍に送った。この一揆勢の鉄砲の猛攻に織田方は総崩れとなった。塙直政が戦列を危ういところで支えたが、意気あがる一揆勢の猛攻に飲み込まれ、激戦の後、塙直政は戦死した。返す刀で明智光秀らの守る天王寺が攻撃の標的とされた。天王寺砦は確保から時間がたっておらず十分な防備が施されていなかった。
京都でこの凶報を聞いた信長は諸将に出陣を命じた。信長本人は軍勢の集結を待たずに5月5日に100名あまりの直属部隊のみを率いて京都を出陣した。若江で軍勢の集結を待ったが、武将クラスは着陣したものの、なかなか兵力は集まらなかった。その間、天王寺は15000の一揆勢の攻撃の前に絶望的な状況になりつつあり、信長の下には数日は持たないと報告が来ていた。敗戦と天王寺を見殺しにした場合の影響を考え、信長はわずか3000の兵で援軍に向かった。第一陣は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝、第二陣は滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆と美濃三人衆、第三陣は信長の直属部隊が固めた。
天王寺に着いた信長は、雨のような銃撃を行っている15000の一揆勢に突撃し、血路を開いて光秀ら天王寺の味方と合流を果たした。この戦闘で信長も負傷した。しかし信長は劣勢な兵力で防戦し続ける気はなかった。これほど敵と近接しているのは天の与えた機会であるとして、諸将の反対を押し切って信長は打って出た。死兵となった信長の反撃に虚を衝かれ、一揆勢の戦列は崩壊した。信長は石山本願寺へ撤退する一揆勢を追撃し、2700の首級を挙げた。
本願寺に対する認識を改めた信長は、石山本願寺の周囲に10の攻囲用の城砦を構築し、天王寺に重臣の筆頭である佐久間信盛を置いて、対本願寺戦を指揮させる体制を構築した。こうして陸上は完全に封鎖された。ただし、淀川・大和川南岸から海岸線にわたって連なる城砦群は健在であり、海上からの補給はまだ可能であった。信長も和泉の水軍を配して、海上封鎖を試みた。また、戦死した塙直政の代わりに筒井順慶に大和の支配を任せた。
1576年7月13日、大阪湾に800艘もの毛利方の村上水軍が現れた。兵糧の少なくなっている石山本願寺の要請を受けて海上から補給を行うために毛利家が送り込んだものである。織田方の水軍300艘も迎撃したが、よく統制された火矢を使った戦術の前に、完敗を喫した。村上水軍は補給を終えて全く被害を出さずに引き上げていった。本願寺を屈服させるには村上水軍を破って大阪湾の制海権を確保するか、毛利氏を討たなければならない。事態の長期化は避けられない情勢であった。
上杉謙信との対立
本願寺の頑強な抵抗を受けて反信長の動きが活発化していった。足利義昭は、毛利氏や本願寺のみでなく、各地の大名に対して反信長の呼びかけを行っていたが、上杉謙信も遂にこれに応じることを決めたのである。上杉謙信と信長は以前は同盟関係にあったが、信長の勢力伸張が上杉氏としても脅威になってきており、前年から関係は冷え込み始めていた。また、本願寺と組むことでこれまで悩まされてきた一向一揆との争いに終止符を打つことができるということもあった。
上杉謙信は9月に越中に侵攻しこれを平定した。さらに11月には能登に侵攻し、その諸城を攻略した。しかし、能登最大の拠点である七尾城は難攻不落ですぐに攻略することができず、押さえの城を構築したところで戦線が膠着した。一方、織田方の加賀平定は遅々として進まなかった。梁田広正に加賀方面の指揮は任されていたが、攻略のための兵を与えられていたわけではなく、一揆持ちの国である加賀では地元勢力を味方につけることも難しかったのである。梁田広正は召還され、柴田勝家が加賀平定の役割を担うことになった。
11月4日に信長は上洛の途についた。12日には赤松広秀・別所長治・浦上宗景ら播磨の大名の訪問を受けた。25日に建設が進みつつある安土に戻った。同じ日に南伊勢の北畠氏を信雄に抹殺させ、伊勢の平定を完成させた。
雑賀衆・根来集切り崩し
膠着状態に陥った対本願寺戦線打開のため、信長は大きく2つの対策を行っていた。ひとつは九鬼嘉隆に燃えない船の建造を命じたことである。これに対して九鬼嘉隆が出した答えが金属の装甲が施され大砲を装備した大型船である鉄甲船である。その建造には莫大な資金が必要だったが、信長の豊かな財力で実用化されることになった。
対本願寺戦線打開のための対策のもうひとつは、鉄砲集団である雑賀衆・根来衆を本願寺から切り離すことである。信長は彼らを味方に引き入れるべく工作していた。そして、年が明けた1577年2月2日、雑賀衆の5つの地域集団のうちの3つの集団と、根来衆の最大派閥である杉の坊が信長に降ってきたのである。この機会に信長は雑賀衆の完全制圧を目論み、10万とも言われる大軍で、一貫して本願寺を支援している雑賀城の鈴木孫一に対する攻撃を命じた。信長は9日には安土城を発ち、16日には和泉で軍勢を集結させた。2手に分かれて前進し、海岸寄りを進んだ一隊が3月1日には雑賀城を囲んだ。しかし、これ以上の攻撃の進展は難しかったようであり、15日には講和を結び、撤退した。雑賀衆の完全制圧は成らなかったものの、雑賀衆・根来衆の多数が信長についたことで、本願寺の火力を削減することはできた。
1577年6月、建設の進む安土城下に対して、13条の掟を発した。楽市楽座の宣言や、中山道通行者の安土通行を命じた条文など、安土城下の発展を期した内容であった。
上杉謙信の攻勢
本願寺・毛利氏との戦いが小康状態になる中、上杉謙信との関係が緊張を増しつつあった。この時期、信長は伊達輝宗とも交誼を結び、上杉氏を攻撃することを相談したりしていた。上杉謙信は、北条氏政の侵攻を受けて能登を離れていたが、能登での戦況は悪化と足利義昭や毛利輝元からの上洛要請のため、7月に能登への転進を決めた。七尾城の勢力は上杉派と織田派に分かれており、上杉謙信の攻撃を受けて織田派の長綱連が信長の来援を請う密使を派遣した。これを受けて信長は上杉謙信と戦うことを決意した。
柴田勝家を総大将とし、不破光治・前田利家・佐々成政など越前方面の武将に、秀吉・滝川一益・丹羽長秀や美濃の氏家・安藤・稲葉などを加えた3万の軍勢が、8月8日、七尾城救援に出発した。しかし、その為にはまず一揆持ちの国加賀を通過する必要がある。一揆勢も上杉方であるため、情報のない中の前進であった。途中で秀吉が勝家との対立のため、勝手に帰ってしまい、このことは信長を激怒させた。この状況下で、本願寺包囲に参加していた松永久秀が信貴山城に拠って再度謀反を起こした。信長も慰留を図ったが、松永久秀は聴かなかった。この行動には、長年の敵であった筒井順慶が大和の守護となったことへの反発があったと考えられている。
9月に入り、上杉謙信は七尾城を再度包囲した。15日になり、七尾城内で上杉派が織田派を粛清し、城を明け渡す異変が起こった。その後、上杉謙信は末森城を陥落させ、さらに織田氏の軍勢と決戦すべく南下した。一方の柴田勝家は手取川を越えたところでようやく七尾城陥落を知り、撤退を開始した。9月23日、上杉謙信は手取川を戻る途中の織田氏のおそらくは後衛を捕捉し、これを打ち破った。冬の接近を前に、上杉謙信は翌春の決戦を期してそれ以上は進まなかった。
松永久秀死す
9月27日、松永久秀討伐の指揮をとることとなった信忠が岐阜を出立した。10月1日、先発した細川藤孝・明智光秀・筒井順慶らが松永久秀の支城である片岡城を攻撃し、これを1日で陥落させた。3日には信忠も信貴山城へ至り、これを囲んで放火した。10日には佐久間信盛・秀吉・明智光秀・丹羽長秀らも合流し、信忠は総攻撃をかけた。松永久秀は遂に観念し、天守に火を放って自殺した。
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