織田戦記3
苦戦の元亀年間
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浅井長政叛す

 4月20日、信長は3万程度の軍を率いて朝倉氏討つべく越前へ向け出陣した。比叡山の琵琶湖川のふもとにある坂本から琵琶湖の西岸を進み、破竹の勢いで朝倉氏の拠点手筒山城・金ヶ崎城を陥落させた。しかし、ここに至って急変が生じた。北近江の浅井長政が朝倉氏との歴年の同盟関係を重んじて、信長に叛いたのだ。浅井長政は妹の市を嫁がせており、上洛時も重要な役割を果たしていたため、信長はなかなかその離反を信じなかったという。北近江は岐阜と京都の連絡線上にあり、金ヶ崎にいる信長の後背を突ける位置である。信長は即座に撤退を決めた。秀吉・光秀・池田勝正を殿としておき、主力は京都に逃げ帰った(金ヶ崎の退き口)。

 これを機と見た六角氏が再起をかけて南近江に進出を図った。信長が派遣した稲葉良通が守山で六角氏の進出を挫き、岐阜と京都間の通路が塞がれることは免れた。5月9日に信長は京都を発ち、永原(現在の野洲)に滞在した。この地で信長は。京都と岐阜の間の連絡を失わないため、この区間を有力武将たちに守らせることにした。京都に近い琵琶湖の南端あたりにある宇佐山城には森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川重政を、岐阜へ向かう順にそれぞれ配置した。信長は岐阜に戻った。6月4日にはさっそく再度進出を図ってきた六角氏を柴田勝家・佐久間信盛が打ち破った。

 6月19日、堀氏と樋口氏が浅井長政から離反して信長に帰順したという連絡を受けて、信長は即座に出陣した。行く行く略定しつつ、2日後の21日には浅井長政の本拠小谷城に迫った。しかし、守りが堅いために信長は方針を変更した。小谷城の南方9kmにある横山城を攻略し、小谷城に対する押さえとすることにしたのである。翌日信長は後退を開始し、追撃を何とか振り切って姉川を渉って横山城に近い竜ヶ鼻砦に入った。家康が5千の兵を率いて援軍として合流し、信長方の兵力は3万近く以上になったものと思われる。浅井長政も朝倉氏の援軍8千と合流しその兵力は14000程度となった。

 浅井・朝倉連合軍は決戦を求めて南下して姉川の北に布陣した。28日の朝には姉川の戦いが開始された。浅井長政は優勢の信長の軍勢に対して激闘した。やがて家康の奮闘もあり朝倉軍が敗走したことで戦線が崩壊し、浅井・朝倉連合軍は敗走を開始した。信長は勝利はしたものの、小谷城は堅固で電撃的な攻略を諦めざるを得なかった。横山城を攻略した後、秀吉を小谷城に対する押さえとして配置した。また、佐和山城を丹羽長秀に包囲させた。翌年2月には佐和山城も開城することになる。岐阜と京都間の連絡は危機を脱した。信長は上洛して将軍に戦勝を報告して岐阜に戻った。

本願寺起つ

 朝倉氏・浅井氏への攻撃が不首尾に終わったことで、信長に敵対する勢力の動きが活発化した。7月21日、三好三人衆を中心とした1万3千の軍勢が四国阿波から摂津に上陸した。京都でその報を受け取った将軍足利義昭は、信長に連絡するとともに、畿内の守護に攻撃を指示した。しかし、畿内の兵力では攻撃するには不十分であった。信長は約1ヵ月後の8月20日に岐阜を出陣した。三好三人衆の軍勢は、石山本願寺の西方のデルタ地帯にある野田・福島に砦を築き拠点としていた。26日、信長は天王寺に本陣を置き、4万以上の兵力を以て包囲する体制をとった。おおむね、現在の大阪環状線を一回り小さくした円状にその陣は配置されていた。その布陣は、現在の大阪城の位置にあった石山本願寺も半包囲する形になっており、本願寺は信長がこの機に石山本願寺の明け渡しを要求することを懸念した。(明け渡しを要求したとも言われる。)


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 当時、石山本願寺は浄土真宗本願寺派の総本山であった。浄土真宗は親鸞が確立した教えであるが、親鸞自身が教団を組織しなかったため、様々な流派に分かれていた。親鸞の曾孫である覚如が本願寺という寺を建立し、親鸞の血胤の力で門徒を結集しようとしたのが浄土真宗本願寺派の成り立ちである。本願寺のトップは法主(ほっす)と呼ばれ、妻帯して法主を世襲し、親鸞の血筋を受け継いだ。親鸞から数えて8代目の蓮如(れんにょ)の時代に本願寺は急拡大し、意図せざる結果だったが一向一揆をも取り込んで巨大な軍事力を持った存在となった。さらに、公家や将軍家、大名家と姻戚関係を結んで庇護と格式を得ることとなった。寺院の実務を取り仕切る坊官は下間氏が世襲して務めた。このように、本願寺は戦国大名と変わらない軍事力を持った組織だったのである。寺院が軍事力を持っていたのは本願寺に限ったことではなく、比叡山延暦寺などはその僧兵が白河上皇を悩ませたことから知られるように大昔から武装していた。日蓮宗も同様であった。この三者は対立しており時には数千の死者を出す戦闘にも発展した。

 信長は寺社領の差し押さえや、軍事費の供出の要求などを行っていた。そして今回の出兵があり、遂に、親鸞から11代目の法主顕如(けんにょ)は信長と戦う決断を下した。9月6日、全国各地の門徒に顕如は檄を発した。信長に対抗して立ち上がれ、立ち上がらないものは破門する、という激しい内容であった。10日にはもともと交流のあった浅井氏と連絡をとった。一方の信長は、本願寺の動きに気づいていなかったようである。将軍足利義昭に出陣を依頼し、8日には石山本願寺の川を渡った北の天満森に移動し、攻城戦を本格化させた。攻城戦は終わりかかっていた。三好三人衆は和睦しようとしたが、信長はこの機に彼らを殲滅する気であった。12日には野田・福島の砦に程近い海老江に進出した。しかし、同日夜、突然の鐘の音とともに、本願寺が信長の軍勢の側背面に対して攻撃を開始したことで、形勢は一転する。16日には信長は本願寺と和睦の交渉を始めたが、話はまとまらなかった。

 このとき、本願寺に呼応して浅井・朝倉連合軍に本願寺の門徒も加わった3万の軍勢が琵琶湖の西岸を南下していた。宇佐山城の森可成は3千程度の兵しか有していなかったが、そのうち千程度の兵で打って出て京都への進撃を阻むべく坂本で迎撃しようとした。19日に戦闘が始まり、善戦したものの翌20日には集結した敵に抗することができず、森可成は戦死した。浅井・朝倉連合軍は宇佐山城を攻略しようとしたが、残った兵が持ちこたえた。翌21日には攻略を諦めて山科・醍醐へ進出した。

 本願寺との和睦はまとまらず、戦闘は20日に再度始まった。22日には天満森に戻った。同日、浅井・朝倉連合軍の京都方面進出と森可成戦死の連絡を受けた。すぐに柴田勝家と明智光秀を京都に派遣した。勝家は危険な状況を見て取り、信長に上申した。これを受けて信長は三好三人衆や本願寺との戦いをやめて、京都に転進することを決意した。23日に全軍を集めて強行軍で京都へ向かい、夜には到着した。翌日には下坂本に進出した。坂本にいた浅井朝倉連合軍は信長の主力が戻ってきたことで、決戦を避け比叡山に登り布陣した。森可成が時間を稼いだおかげで京都を失うことは避けられた。信長は延暦寺に対し、味方すればこれまでに差し押さえた延暦寺の領地を返還する、敵対すれば焼き討ちにすると勧告した。延暦寺は受け入れなかった。こうして延暦寺も反信長包囲網に参加する意思を明確にしたのである。信長は長期戦を覚悟して比叡山を包囲した。

 包囲状態で戦線は膠着した。本願寺の挙兵を受けて、尾張に程近い伊勢長島では緊張状態が高まっていた。長島の願証寺は伊勢・尾張・美濃の本願寺の中心拠点だった。信長も弟の信興を長島に近い小木江城に置いていた。しかし、信長は比叡山から動くことができない。11月に長島の一向一揆は小木江城の信興を攻めて21日切腹に追い込んだ。また同月25日琵琶湖の拠点である坂本に近い堅田が帰順してきたため、重臣の一人坂井政尚に千の兵をつけて送った。しかし、翌26日に朝倉氏と一揆軍勢が攻めかかり坂井正尚は戦死した。本願寺門徒が浅井・朝倉連合に組して動き回るのに対して、信長は比叡山から身動きができず、窮地に陥っていた。信長は将軍と天皇の権威にすがった。将軍自ら和睦の仲介を行い、12月9日和睦の勅令が下された。3ヶ月に及ぶ包囲で比叡山でも食料が減ってきていた。13日に和睦が成立し、信長は岐阜に戻った。

比叡山焼討

 明けて1571年1月、信長は秀吉に命じて姉川を封鎖させた。浅井・朝倉両氏と本願寺の連携を絶とうとしたものであり、琵琶湖の西岸でも同様に封鎖を行ったことであろう。また、2月ごろまでに伊勢の滝川一益に長島一向一揆への反撃を試みさせている。長島には本願寺から下間頼且が派遣されており、各中洲に十数個の砦を構築して強固な防御体制を敷いていた。滝川一益も有効な攻撃はできなかったであろう。また、2月17日、丹羽長秀が包囲していた南近江に残る浅井氏の拠点佐和山城の磯野員昌が降伏し信長に帰順した。佐和山城には丹羽長秀がそのまま入った。

 5月6日、小谷城から浅井長政が出陣して横山城の近くに布陣した。その上で、別働隊を以て前年に信長に降った堀氏の居城である鎌刃城を攻撃しようとした。前線で突出した位置にある横山城は堀氏の支援なくして維持はできなかった。竹中半兵衛に城兵の指揮を任せ、秀吉は100騎ほどを率いて鎌刃城へ急行した。堀氏の軍勢と合流すると、500騎ほどの軍勢で数倍の浅井氏別働隊に猛攻を加え、これを敗走させた。秀吉は追撃し遂に小谷城にこれを追い込んだ。一方の横山城も竹中半兵衛が持ちこたえた。浅井長政は小谷城に撤退した。

 同5月12日、信長は長島の一向一揆を討つべく、5万の大軍を率いて岐阜を出陣した。しかし、中洲に作られた長島は要塞化され難攻不落であり、信長は成すすべなく16日には撤退を命じた。柴田勝家率いる一隊は揖斐川と山に挟まれた隘路を通らねばならず、一向一揆勢の猛追撃を受けた。柴田勝家は負傷し、殿を代わった美濃三人衆の一人氏家卜全は戦死するなど、信長の完敗でこの出兵は終わった。

 同年8月18日、信長は突如として出陣した。対浅井戦線の前線基地である横山城に入り、小谷城の近くを放火して回った。その後、佐和山城に入り、9月1日、京都岐阜間に配置していた柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛・中川重政の4将に安土に近い志村城・小川城を攻撃させた。4将は志村城を圧倒して殲滅し、小川城はそれを見て降伏した。さらに、佐久間信盛に与えられた永原城の近くに本願寺の拠点金森城があり、信長はこれを次に攻撃した。金森城はすぐに降伏した。

 信長はそのまま京都方面へ向かった。諸将は上洛するものとばかり考えていたが、信長の本当の狙いは延暦寺であった。京都に最も近く前年に苦汁をなめさせられた敵を急襲することにしたのである。佐久間信盛などは信長を諌めたが、信長は聞き入れなかった。9月12日早朝、信長は坂本に軍を動かし、まず延暦寺の門前町として栄えていた坂本に放火した。そのまま比叡山を上り、延暦寺を焼き討ちして、建物を灰燼に帰し、老若男女の区別なく殺害した。同じく比叡山にあった日吉神社も焼き打たれ、延暦寺と日吉神社の持っていた所領は全て没収された。坂本は明智光秀に任され、城が建てられることとなった。翌13日信長は京都に入り将軍に拝謁した。信長の様子は普段通りであった。

武田信玄動く

 この比叡山焼き討ちに対し、天台宗に帰依していた武田信玄は激怒した。武田家と信長は婚姻同盟を結んでいたが、以後武田信玄も反信長の動きに参加していくことになる。この年、信長は延暦寺焼き討って坂本を確保したものの、それ以外には赫たる戦果を挙げていない。むしろ、将軍との確執が深まり、将軍足利義昭自ら裏で信長包囲網を構築しようと画策し始めたことで信長を見限る有力大名も現れた。前述の通り武田信玄と松永久秀(及び三好義継)である。松永久秀は度々の信長からの派兵要請で大和の戦線で苦戦しており、不満を抱くようになっていた。信長は試練の時を迎えた。

 しかし、戦略的には信長は機動力に優れた有力な兵力を持って中央位置を占めており、敵を各個撃破する機会を持っていた。この年に攻撃をかけた相手を考えると、信長は領内深くにあって孤立している敵を各個撃破しようとしたものと思われる。浅井氏と朝倉氏は密接に連携していたが、それ以外では包囲網の連携は必ずしも十分に果たされていなかった。それは、当然、ひとつには、信長が連絡を絶とうとしたことはあるが、それよりも、どの勢力も信長と決戦することを避けようとしていたことが根底にあるのではないだろうか。浅井朝倉連合軍が本願寺の決起に呼応して京都をうかがった際に、京都にはなかなか攻め込まず、比叡山に登って守りを固めたことは、その一例といえよう。信長は有力な兵力を有しており、信長と決戦することは興廃をかけた大勝負であるから、無理もないことである。当時信長に対する攻勢を主導しうる兵力を有していたのは、本願寺と武田信玄くらいだったのであろう。しかし、本願寺は基本的に身を守るために蜂起した一揆であり、攻撃的な意思を有していなかった。本願寺が挙兵したのは、石山本願寺を制圧される危険を感じたからである。信長にとって最大の脅威はやはり武田信玄であった。この年に武田信玄が反信長の姿勢を明らかにしたことは、信長にとって最も厳しいことであった。

 1572年は反信長の動きが公然化していく年であった。本願寺の顕如は1月に武田信玄に太刀等を送り、信長の背後を脅かして牽制するよう依頼している。信長は武田信玄と講和しようとしたが、武田信玄はそれには答えなかった。松永久秀と三好義継も三好三人衆との長年の敵対関係を解消し、反信長の姿勢を明らかにしつつあった。

 3月、信長は浅井・朝倉連合を最初の標的に選び、琵琶湖の北東の両勢力の中間地点に進出して放火し、決戦をしようと試みた。武田信玄が動かないうちに各個撃破したかったに違いない。しかし浅井・朝倉両氏は動かず、信長は諦めて上洛した。4月には松永久秀・三好義継が織田方の城に遂に攻撃をかけた。5月には武田信玄から将軍義昭に対して忠誠を誓う書状が送られた。将軍義昭は信長打倒の自信を持ったことだろう。

 7月、再度小谷城を攻撃すべく出兵した。嫡男の信忠の初陣でもあった。主な武将をほとんど動員した5万もの大軍だったという。21日には攻撃を開始した。城下を焼き払い、浅井氏に組する一向一揆を撃滅し、小谷城を重囲した。小谷城南方2kmという虎御前山に砦も構築した。朝倉氏の1万の援軍は28日に到着した。朝倉義景は小谷城北西の山の上に陣を築いて動かなかった。武田信玄の出陣を控えており、信長としては決戦を急ぎたかったが、朝倉氏としては決戦する理由はなかったのである。8月8日には朝倉氏重臣の前波吉継などが投降するなどの成果はあったが、膠着が続いたため、信長は今まで小谷城に対する押さえであった横山城と虎御前山の砦の間にさらに砦を作り、連絡を構築した上で、9月16日には撤兵した。羽柴秀吉を横山城から最前線となった虎御前山に異動させた。

 9月、信長は将軍義昭に対して異見十七ヶ条という義昭の行動を非難した条文を突きつけた。両者の関係が極めて悪化していたことを象徴する出来事である。そして10月10日、ついに武田信玄が出陣した。5000程度の別働隊を三河・美濃にそれぞれ派遣する一方、信玄の本隊2万強は南方の遠江・三河といった家康の所領に向けて進軍した。上洛しようとしていたといわれるが、すぐに上洛するというよりは、まずは遠江・三河を武田領にしてしまおうという意図であったと見るべきであろう。

 10月13日には家康と武田信玄の間で遭遇戦が行われ、劣勢の家康は撤退した。信玄はそのまま遠江の要衝である二俣城を包囲した。一方浅井・朝倉両氏とも連絡を取っており、11月3日には浅井・朝倉連合軍が呼応して攻撃を開始した。信長は美濃での決戦に向けて兵力の集中を図っていたと思われる。家康には佐久間信盛・平手汎秀を援軍として派遣したが、兵力は3000程度だったという。12月19日には二俣城が陥落した。家康は浜松城で籠城しようとしたが、信玄は素通りした。これに対し家康は反対を押し切って11000の兵力で打って出て三方ヶ原で信玄と会戦を挑んだが、優勢な兵力で迎撃の準備をしていた信玄に圧倒されて完敗した。家康自身も追い詰められ命からがら浜松城まで敗走した。家康は敗走した情けない自分の姿を描かせた「しかみ像」を残し、後の戒めとした。



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