織田戦記2
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I think; therefore I am!
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桶狭間の戦い
美濃の斎藤義龍も国内をうまく統御しており、侮りがたい勢力であったが、やはり尾張を統一した信長にとって最大の懸念は天下統一に最も近いとされていた今川義元であった。おそらく信長が将軍に謁見する前のことと思われるが、斯波義銀が実権を取り戻そうとして、今川の軍勢を引き入れて叛乱を企てる事件も起こっていた。これは事前に察知され、斯波義銀は国外追放となった。尾張の三河との国境地帯にある鳴海城・大高城は今川方となっており、信長はこの攻略のため、鳴海城に対し三河方面から連絡を絶つよう北・東・南に3つの砦、大高城に対して鳴海城・三河との間を遮断するよう2つの砦を構築した。
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鳴海城は信秀の死後に今川方についた山口教継が入っていた城であるが、信長はこの山口教継について、今川氏の本拠駿府において、本当は信長と通じているという噂を流して離間させようとした。今川義元はその噂を信じ、山口教継に親子共々切腹を命じた。また、鳴海城の北北西にある笠寺城にいた戸部新左衛門は、今川義元に尾張の情勢を伝える役目を負っていたが、信長は手に入れた書状を使いその筆跡を家臣に覚えさせた上で、信長と密通しているという嘘の書状を義元に届けさせた。義元は戸部新左衛門を斬首に処した。信長は戦いに先んじて離間策や引き入れ工作を相当程度に行っている。
1560年5月、ついに今川義元は尾張を攻略すべく、大軍勢を率いて駿府を出立した。鳴海・大高両城の後方にある沓掛城に本陣を置いた。三河の諸将も糾合し、その兵力は2万を超えていたであろう。家康(当時は松平元康)が、先鋒として大高城に兵糧を輸送し、そのまわりの織田方の砦(鷲津砦・丸根砦)を攻撃するものとされた。そのころ、清洲城では重臣たちが集まっていた。重臣たちは籠城を主張したが、信長は聴かず、特に何も決めずに散会させた。
夜明け前に、鷲津砦・丸根砦への攻撃が開始されたとの情報が入った。それを聞いた信長は敦盛を舞った後、食べながら鎧に着替え、法螺貝を鳴らして即座に出撃した。信長に同行したものは最初は5名だけだったという。このころ、家康は大高城に兵糧を運びこんだ後、丸根砦を苦戦しつつも攻略し、守将の佐久間盛重を討ち取った。続いて、鷲津砦も陥落した。
信長は鳴海城の西に作られていた善照寺砦で軍勢の集結を待ち、2000程度の兵力を集めた。続いて、信長は敵に丸見えの中、家臣の反対を振り切り、鳴海城の南西に作られていた中島砦へ移動した。信長は桶狭間山に今川義元の本隊があるといった敵の配置情報をつかんでいたものと思われる。鳴海城付近で右往左往してみて自軍の存在をアピールしておきつつ、信長は、後方の桶狭間にいる義元を直撃することを決意する。家臣は敵中への突出を諌めたが、信長は、敵は疲れているのに対して我々は新手であり大軍といえども怖れることはなく、今回勝てば末代までの功名である、と述べ、昼前に出陣し桶狭間へ向かって急行した。義元の前衛部隊の一部とも衝突した可能性はあるが、それは容易に打ち破ったか置き去りにしたのであろう。信長の精鋭部隊の機動力と練度が効を奏した。前線に兵力を送っていたため、義元の本陣には5000人程度しかおらず、しかも精鋭はあまりいなかったと考えられている。結集する間を与えず、信長は2000の精鋭で義元の本陣に突入し、一気にこれを瓦解させた。義元は300騎程に守られながら後退していたが、討ち減らされ、ついに義元は毛利新助によって討ち取られた。総大将を失った今川軍は壊乱状態になって駿府へ敗走した。
信長は掃討戦を行い、尾張や三河の西部まで今川氏の勢力を一掃した。また、混乱の中、大高城から退却していた家康は空になった元の松平氏の本拠である岡崎城を接収し、以後今川氏から自立していくこととなる。義元の後を継いだ今川氏真は家中を統制できず、勢力を縮小させていった。
桶狭間の戦いの後、三河方面は家康(松平元康)が領すこととなった。当初、今川氏と結んでいたが、信長とは旧知の仲でもあり、桶狭間の戦いの翌年1561年2月には水野信元の仲介で同盟交渉が開始された。容易には交渉は終わらなかった。
美濃攻略
5月になると、美濃をうまくまとめ上げ、信長も苦しめていた斎藤義龍が病没した。これを好機とみた信長は、それを知るや否や出陣した。墨俣の南方森部の地で戦いとなり、機動力で虚を突いた信長が圧勝した。信長は墨俣城を占拠した。9日後、13歳にして義龍の後を継いだ斎藤龍興が稲葉山城より出陣し、北上していた織田勢と十四条の地で戦闘が行われた。今度は、準備を整えた斎藤氏が信長に勝利した。信長は墨俣へ後退し、清洲城へ戻った。
1562年1月、ついに信長と家康の同盟が成立し、清洲城にて両者は会見した。これによって東方の脅威がなくなり、信長は美濃攻略に注力できることになった。翌年には信長の娘が家康の嫡男信康に嫁ぐことが決まり、同盟はより強固なものとなった。さらにこの時期、信長は美濃攻略を容易ならしめるべく、北近江を領する浅井長政との同盟も成立させた。ただし、織田氏と浅井氏の友邦である越前の朝倉氏には、歴史的に対立してきた経緯があるため、浅井家中では反対派も少なくなかった。信長は浅井側に譲歩した内容を提示し、さらに、妹の市を嫁がせることを約束するなどして、同盟の成立を期した。
このころ、尾張北方犬山城と付近の数城を有し、かつては信長に協力していた織田信清が斎藤氏と結んで信長に反抗する姿勢を見せていた。信長は犬山の南方小牧山に小牧城を建設し、清洲城より本拠を移した。より美濃に近い北方に移動し、美濃攻略の拠点としたのである。機動力を重んじる信長にとっては、主戦場たる美濃から遠い清洲城にとどまる意味はなかったのである。だが、多くのものにとって清洲城は中心都市であり、離れることに抵抗感を持つ者もいた。そこで信長は、一度別の山奥を本拠にすると言った後、そこよりはひらけている小牧山を指定することによって、家臣たちを止むを得ないという気にさせた。
美濃のほうでも、情勢に変化が生じつつあった。道三以来もともと決して安定していたとはいえない美濃国中であり、まだ十台半ばの斎藤龍興は、困難な情勢下、家臣の信頼を得ることに失敗していたのだった。1564年2月、不満を持った竹中半兵衛(重治)と美濃三人衆の一人安藤守就が斎藤氏の本拠稲葉山城を急襲し、占拠する事件が起こった。両社も最終的には進退窮まり、斎藤龍興に稲葉山城を返したが、斎藤家の求心力の低下は明らかだった。
小牧城に移動した信長は、まず犬山城の信清に対処することにした。1564年、信清方の支城を丹羽長秀に降伏させ、然る後に犬山城を厳重に包囲した。しばらくして、犬山城は落城した。さらに木曽川を渡って美濃に進出した。鵜沼城・猿啄城は降伏した。
1565年5月、京都では実権を得ようと策動していた将軍足利義輝が、実力者松永久秀らに攻め殺される事件が起こった。将軍の弟足利義昭は奈良から脱出し、琵琶湖南部の矢島に移って、上洛の機会を窺っていくことになる。
同7月、加治田城の有力国衆佐藤氏が丹羽長秀を通じて信長に降った。これに対し、斎藤氏は長井道利率いる軍勢を進発させ、加治田城の南方に堂洞城という攻城拠点を構築した。信長は救援のため小牧城から出陣し、堂洞城を攻囲し、陥落させた。これにより東美濃に信長は大きな拠点を得た。さらに、信長は養女を武田勝頼に嫁がせ、武田氏との同盟を結んだ。これにより東美濃の後背は当面安全となった。
足利義昭は信長に対して上洛の供をするよう命じており、信長はそれを引き受けた。1566年、義昭の仲介により斎藤氏と織田氏の停戦が成立し、信長は上洛しようとしたが、畿内の三好氏と南近江の六角氏がそれに立ちふさがった。斎藤氏も不穏な動きを見せており、現時点では上洛は困難と考えた信長は上洛を中止し、斎藤氏との停戦は破棄された。足利義昭は越前に行き、朝倉氏を頼った。7月には、西美濃の要衝墨俣に秀吉が一夜にして城を構築することに成功し、信長は西美濃攻略の橋頭堡を得た。8月には斎藤龍興と戦ったが、増水した川に突っ込んで失敗し、敗走している。
1567年になると、斎藤氏の弱体化は明らかであり、信長は上洛を明確に意識していた。尾張から見て北の美濃方面だけでなく、西の伊勢方面にも侵攻することを決め、滝川一益を派遣した。8月には自ら大軍を率いて攻め込み、北伊勢の土豪たちを傘下に収め、滝川一益に北伊勢を担当させた。
伊勢に出兵している間、美濃の方では大きな動きがあった。氏家・稲葉・安藤の美濃三人衆がそろって信長に帰順の意を示してきたのである。信長はすぐに軍勢を美濃へ向け、電撃的に斎藤氏の本拠稲葉山城に連なる瑞龍寺山を占拠し、城下町を焼いて稲葉山城を包囲した。あまりのスピードに対応することができなかった斎藤龍興は城を捨てて伊勢長島へ落ち延びていった。こうして7年がかりでついに信長は美濃の攻略に成功した。信長は稲葉山城を岐阜城と改名し、本拠地を小牧城より岐阜城に移転させた。
上洛
翌1568年、信長は北伊勢に再度侵攻した。神戸城(現在の鈴鹿)の神戸具盛を囲んだが、堅く籠城されて攻めあぐね、政治的な解決法を用いることにした。すなわち、信長の三男信孝を後継ぎのいない神戸具盛の養嗣子とし、従属的な同盟関係を結ばせるというものである。神戸氏は了承し、信長は伊勢での地歩を広げた。続いて、現在の津市あたりに勢力のあった長野氏の攻撃に移った。長野氏の重臣細野藤敦の居城安濃城を包囲した。その弟であり長野家重臣の分部光嘉は信長につくことを希望しており、当主長野具藤を追い出して、信長の一族を主君として迎え入れようとした。信長は了承し、弟の信包を送り込んだ。かくして、信長は北伊勢を勢力下に組み込んだ。
領地の安全が概ね確保され、いよいよ上洛の準備を整えた信長は、足利義昭を招待した。義昭は朝倉氏のもとを離れ、信長の力を借りて上洛するべく、岐阜に向かった。7月25日、信長は義昭を出迎えて歓待し、上洛に向けて早速行動を始めた。8月7日には同盟国浅井氏の近江に入り、佐和山城にて進路にある六角氏の懐柔を試みた。しかし、六角氏は畿内を握る三好三人衆と通じており、信長の通行を許さなかった。三好三人衆とは、三好家の一族の重臣である三好長逸・三好政康・岩成友通の三者を言い、当時は三好家当主の三好義継を保護していた松永久秀と対立しており、優勢な立場にあった。7日後には信長は懐柔を諦め、岐阜へ戻って軍勢の集結を待った。
9月7日、大軍を率いて信長は岐阜から出陣した。家康の名代の松平信一や浅井氏の軍勢など、同盟国の軍勢とも合流し、その総兵力は4万を超え6万に至ったともされる。六角氏の本拠である観音寺城の先に箕作城という支城があり、信長は佐久間信盛・秀吉・丹羽長秀らにここを攻略させた。一日のうちに箕作城は陥落し、信長の大軍の前になすすべのない六角氏の親子は観音寺城から逃走した。こうして信長は南近江の攻略をあっさりと終えた。南近江の国人衆は皆信長に帰順した。すでに京都への進路を塞ぐものは何もなかった。信長は義昭を呼び寄せ、9月26日遂に上洛を果たした。
六角氏が破れた時点で、京都の町は大騒ぎになっていた。しかし、正親町天皇は前年のうちに信長との接触を持っており、上洛に際しては、乱暴狼藉を働かぬよう信長に対して命じていた。信長も軍紀を特に厳にし、京都へ入るにあたってほとんど混乱や乱暴狼藉はなかった。信長は柴田勝家らを先鋒とし、三好三人衆ら敵対勢力を一掃すべく、そのまま軍を動かした。信長の本隊も3日後の29日には出陣した。電撃的に行く行く敵城を略定し、山城・摂津は数日のうちに平定された。和泉・河内・大和の国衆も続々信長および義昭に帰順した。特に、10月5日には当時三好三人衆と対立していた畿内の有力者松永久秀が恭順の意を示して降伏してきた。義昭にとっては兄を殺した仇であったが、すでに松永久秀と通じていた信長はこれを起用して大和の平定を命じた。その領地は平定した分そのままとされた。松永久秀についていた三好家当主の義継は河内北部の領有を認められた。信長は、そのほかの地方についても、帰順してきた諸将に統治を任せた。岐阜を出発して1ヶ月ほどで、信長は南近江から畿内の大部分を自らの支配下に収め、飛躍的に勢力を拡大したのである。
10月14日には信長と義昭は京都に戻り、18日、義昭は朝廷より征夷大将軍に任じられた。義昭は信長の軍事力に全く依拠して将軍たり得たため、その基盤はきわめて弱体であったものの、一方で、多くの国人衆が帰順してきたのには、義昭の権威のおかげでもあった。信長はその権威をうまく利用した。この時期に信長が採った政策としては、まず関所を廃止した。また、寺社領の差し押さえにも着手し、寺社や都市には軍事費の供出を求めた。石山本願寺には5000貫が課され、すぐに支払われた。本願寺は他にも、名物茶器を信長に送るなどしている。自治都市堺には20000貫が課されたが、堺はこれを拒否して抵抗する姿勢をとった。堺は三好三人衆や本願寺の経済的な後援者であり、引き換えに商業活動の保護を得ていたのである。三好家は四国阿波を本国としており、畿内の勢力が衰えたといっても滅びたわけではなかった。
10月26日に信長は岐阜に戻った。将軍足利義昭は本圀寺を御所とした。翌1569年1月5日、信長不在の隙をつき、三好三人衆が堺の後援のもと、流浪中の斎藤龍興らと呼応して将軍御所の本圀寺を急襲した。本圀寺には明智光秀もいた。劣勢の中なんとか持ちこたえ時間を稼いだ。6日には細川藤孝・三好義継・伊丹親興・池田勝正・荒木村重ら織田方の援軍が来援し、三好三人衆の軍勢を撃破した。同日、信長は将軍急襲さるの報を受け、緊急に出陣した。行く行く合流しつつ、3日の行程を2日で踏破し、5万以上の兵力を畿内に集結させた。この機に信長は畿内の支配を確立しようとした。先日の敗北で三好三人衆は畿内での勢力を失い、本国の阿波に後退した。また、堺を包囲し、親信長の今井宗久の動きもあって堺は信長の支配下となった。2月には将軍の御所としての二条城の建設を始めた。3月、義昭より副将軍の職を与えられたが信長はこれを断り、代わりに堺・大津・草津に代官を置き、公式に直轄地とすることを願い出た。
1569年5月、南伊勢に勢力を有し未だ信長に従っていない北畠氏から、木造具政が叛いて信長に帰順した。この機を捉え、8月20日信長は岐阜から7万以上の大軍を率いて南伊勢に向けて出陣した。北畠氏は大河内城を主城として、籠城の構えを見せた。秀吉に支城のひとつを攻めさせ、1日でこれを抜いた。その後はそのまま大河内城に向かった。信長は大河内城を重囲して兵糧攻めの構えを見せた。10日目に信長は攻撃をかけたが、損害を受けただけで失敗した。その後も攻撃をかけたが失敗し、戦線は膠着した。やがて信長の次男信雄を北畠氏の後継として養子にし、大河内城を明け渡すという信長に有利な条件で和睦が成立し、10月3日に大河内城は開城した。伊勢を滝川一益に任せて信長は京都へ向かった。
京都にて信長は将軍義昭に戦勝を報告し、正親町天皇にも謁見した。数日後、遂に信長は将軍義昭と衝突した。岐阜に戻り、翌1570年1月、信長は将軍義昭を掣肘すべく5か条の要求を認めさせた。しかし、この時点では決定的な対立にはまだ至らなかった。また、同日、諸大名に対して上洛するよう書状を出した。上洛に参加するか否かで敵味方をはっきりさせ、また、集まるであろう諸大名の兵力も用いて、信長に従わない大名を討伐する意図だったのだろう。およそ1ヵ月の時間をとった後、信長は岐阜を出て京都へ向かった。3月1日には将軍義昭に挨拶し、朝廷にも参内した。このとき信長の呼びかけに呼応して上洛したのは、徳川家康・松永久秀・三好義継・北畠具房などであり、宇喜多・大友といった大名も使者を派遣した。越前の朝倉氏は連絡をよこさなかった。
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