九州戦国史概略
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戦国初期の九州北部に関しては、豊後(大分)の大友氏・肥前(佐賀長崎)の竜造寺氏などがおり、
また、中国方面からは大内氏・毛利氏が九州進出を目論んでいた。
かつては、大宰府が主な争奪の対象だったが、
時がたつにつれ貿易の拠点である博多が重要視されるようになった。
立花山城は、博多を支配するための要衝であった。

まず、九州北部で勢力を誇ったのは大友氏(大友宗麟)だった。
その最盛期を現出した戸次鑑連は、 大友氏に反旗を翻した立花氏を討ったが、
名門の家名を残すため、その後立花姓を名乗るようになる。
後世には、立花道雪という名で知られている。
立花山城を根拠に、毛利氏と組んだ秋月氏等諸勢力と戦った。
1569年には、猛烈な決意と4万の兵力で毛利元就が攻勢に出てきた。
多々良浜が主戦場となった。 立花山城が毛利氏の手に陥落するなど、毛利氏優勢で戦いは進んだが、
大友氏が支援する大内輝弘が高嶺城を占領したことで、 後背を脅かされた毛利元就は撤退を決めた。
こうして、大友氏の福岡支配は一時の安泰を見た。

しかし、大友氏の覇も長くは続かなかった。
1570年には、約八万といわれる大軍で、
竜造寺隆信の立て籠もる佐嘉(佐賀)城を完全包囲していたが、
その配下の鍋島信昌に、宗麟の弟大友親貞が奇襲を受けて敗北・戦死し、
総崩れになった大友氏は、圧倒的兵力を持ちながら敗北を喫した。(今山の戦い)
ここから竜造寺氏が力をつけていくことになる。

大友氏の衰退を決定付けたのが、1578年の耳川の戦いだった。
日向の伊東氏が島津氏に敗れたため、 その勢力が日向にも及び始めたことを憂えた大友氏は、
南方に進出を開始し、耳川以北を制圧した。
大友氏の高城攻撃から始まった戦線は拡大し、
約二万の島津氏と約五万の大友氏の会戦へと発展した。
数に驕った大友方は、島津義弘・義久・家久の「釣り野伏せ」といわれる
敗走したように見せかけて敵をひきつけ、三方から伏兵で攻撃する島津家伝統の戦術にはまり潰走、
耳川付近で捕捉され4000あまりを戦死させる大敗北を喫した。
これにより、大友氏からの諸勢力の離反が始まり、逆に島津氏はいよいよ隆盛した。
竜造寺氏はこの隙に福岡・大分・熊本あたりまで勢力を拡大した。

1584年には、ついに島津氏と竜造寺氏の盛衰を分けた決戦が起こる。
沖田畷の戦いと呼ばれるこの戦いは、 島津・有馬連合軍が、戦闘のさなか、
竜造寺隆信を戦死させることにより決着する。
その戦死は、この戦いの敗戦だけでなく、竜造寺氏の衰退も決定付けた。

こうして島津氏は、九州制覇目前まで迫った。
その圧力に耐えかねた大友氏は、既に近畿・四国・中国を制していた羽柴秀吉に救援を要請する。
1585年、秀吉は島津氏に降伏を勧告したが、島津氏はこれを拒絶した。
翌1586年、島津氏はまず筑前侵攻を試みたが、
岩屋城に立て籠もる高橋紹運率いる僅か700の兵の必死の抵抗に
3700の損害を受け、その進撃速度は大幅に遅れることとなった。
この間に、秀吉がまず派遣した毛利氏及び長宗我部氏を救援に到着した。
筑前を諦め、豊後方面に転進した島津氏は、敵の援軍にもかかわらず優勢に戦いを進めた。
これをうけ、1987年正月、秀吉は九州侵攻を決定し、自ら20万の大軍を率いて南下を始めた。
圧倒的兵力差の前に、4月には島津義久は降伏した。

義弘・歳久らはその後も抵抗した。
島津氏は、その多くの領地を取り上げられたが、薩摩・大隅は安堵された。

秀吉は、島津氏の降伏後、箱崎宮に本拠を置き、戦乱で焼け野原になった博多の復興を始めた。
これは、博多を朝鮮出兵の策源地とするための布石でもあった。



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