南北戦争4
南部連合の最盛期
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西部における南軍の侵攻

 西部戦線では、シャイローの戦いのあと、ハレックが南下を進めており、 1862年5月29日に南軍の西部方面の司令官であるボーレガードはコリンスを放棄した。 その責任を問われてボーレガードは司令官を解任され、 南部連合大統領ジェファーソン・デーヴィスはブラグストン・ブラッグ少将を後任に据えた。  31,000の兵を率いるビュエルの目標はテネシー州の主要都市のひとつチャタヌーガ(Chattanooga)の攻略とされたが、 ビュエルの進撃は慎重で40日かけた7月中旬にチャタヌーガの西方約100kmのディケーター(Decatur)に到達しただけだった。 7月23日、ハレックが北軍の総司令官に任じられ、西部戦線を離れた。 その結果、グラントが率いることになったミズーリ軍と、ビュエルが率いるオハイオ軍が再び独自に行動することになった。 また、グラント指揮下の師団長であったシャーマンが6月に北軍が占領したメンフィスの軍事行政官に任じられた。

 この間に、南軍の指揮を執るブラッグは、グラントのもとには監視の兵力だけを残し、 35,000の軍勢を南部域内の鉄道網を使って南方のモービル・東南のアトランタを経由してチャタヌーガへ7月下旬までには移動させるという、 当時としては例のない大規模な鉄道による機動を行った。 一ヶ月兵を休めた後、ブラッグは北方へ攻勢に出た。 兵力を集結し補給線を守るため、ビュエルはブラッグと平行に後退した。 ブラッグはビュエルとルイヴィル(Louisville)の間の鉄道を遮断し、 ビュエルの攻撃を待ったがビュエルはルイヴィルへ入ってそこで陣を固めた。 兵力を結集した結果、ビュエルのもとには55,000の兵がいた。 しかし、ブラッグは攻撃してこなかった。 このころ、首都方面ではリーがアンティータムの戦いを受けて南部へ撤退していた。

 マクレラン同様、 ワシントンから攻勢に出るよう圧力を受けていたビュエルは前進を開始し、 10月7日両軍が遭遇した。 翌9日、南軍は攻撃を仕掛けたが、数に劣り、また、 朝令暮改の典型例だったブラッグの指示を部下が信頼しなかったため、 結局ブラッグは破れてチャタヌーガまで退却した。

 南軍の退却に際し追撃をしなかったなど、指揮の拙さを指摘され10月24日ビュエルは任を解かれた。 後任にはローズクランズ少将があてられた。また、10月25日、グラントがテネシー方面の司令官に任命された。 一方、南軍のブラッグも厳しい批判を浴びたが、 ジェファーソン・デーヴィス大統領のお気に入りだったため、 任は解かれず、代わりに大統領はマクレラン侵攻時の戦闘での傷から回復したJ.E.ジョンストンを 西方を預かる上級の司令官とし、その指揮下に組み入れることにした。

フレデリックスバーグの戦い

 11月1日にマクレランが解任されたあと、12万のポトマック軍を率いることになったのはアンブローズ・エバレット・バーンサイド少将だった。 リンカーンからの攻勢にたいする強い圧力を受け、リッチモンドへ侵攻する作戦を立て南下を開始した。 バーンサイドはラパハノック川の渡河はフレデリックスバーグで行うとしていたが、 総司令官のハレックはそれに乗り気でなく、 11月17日にポトマック軍の先鋒はフレデリックスバーグについていたにもかかわらず、 渡河用の架橋の準備が間に合わず、それが届いたのは5日後の22日になってであった。 その間に、リーが率いる南軍の主力70,000はフレデリックスバーグに到着して陣地を構築した。


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 南北戦争は火力を利用した陣地防御が著しく有利になった時代であった。 しかし、当時それはまだ必ずしも共通の認識とはなっておらず、 バーンサイドはフレデリックスバーグで渡河する計画を放棄しなかった。 12月13日、バーンサイドは南軍陣地に2方向から攻撃を開始した。 結果は北軍の惨敗であり、南軍5,000に対して北軍は12,000の死傷者を出した。


Ambrose Everett Burnside
特徴的なひげはburnsidesの語源とされる。

グラント ヴィックスバーグへの攻撃を開始

 11月、グラントは、40,000の兵を率いて、メンフィスとコリンスの中間にあるグランド分岐点駅から南進を開始した。 このころ、イリノイ州の有力政治家ジョン・A・マクラーナンドがリンカーンの承認を得て、 個人的に募兵を行っていた。 12月にこれを知ったグラントはリンカーンに問い合わせ、 テネシー方面の司令官としてマクラーナンドが集めた兵に対する指揮権を確認した。 そこで、グラントはその兵をシャーマンに指揮させ、 マクラーナンドが到着する前にヴィックスバーグへ攻撃をかけさせることとした。

 12月20日、32,000の兵を率いてシャーマンはヴィッグスバーグへ向けて南下を開始した。 上流のメンフィス、下流のニューオーリンズをすでに押さえている北軍としては、 ミシシッピー川中流の南軍の重要都市ヴィックスバーグを攻略すれば、 南軍の水上戦力は壊滅状態であり、 ミシシッピー川での南部連合の分断が完成することになるのである。 しかし、同日、グラントが設けていた補給基地が南軍騎兵の襲撃を受けて壊滅し、 グラントは撤退を強いられることとなった。 これを受けて南軍のミシシッピー川方面司令官ペンバートンはヴィッグスバーグに兵を回した。 27日、シャーマンはヴィックスバーグ北部の絶壁を攻撃したが、 一方的に被害を受けて失敗に終わった。

ストーンズ川の戦い

 もう少し東方の西部戦線では、ビュエルに代わったローズクランズが訓練を行った後、 ワシントンの意を受けて、12月26日、47,000の兵を以てブラッグを討つべく進軍を開始した。 南軍では、ジェファーソン・デーヴィス大統領がブラッグの軍から 1万をミシシッピー川方面のペンバートンに送ることにしたため、 ブラッグの兵力は37,000となっていた。 マーフリーズボロ郊外のストーンズ川沿いで12月30日、両軍は対峙した。 翌31日は、南軍のブラッグが先手を取って攻撃を開始し、北軍を押し込み、 13,000の死傷者を出した。 しかし南軍の損害も甚大であり、結局12,000の死傷者を出して撤退した。


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