南北戦争3
リーの北部侵攻
I think; therefore I am!
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第二次ブルランの戦い
マクレランがリッチモンドへ侵攻しているころ、リンカーンは新たな軍団を組織しようとしていた。
7日戦争がはじまった日である1862年6月26日、リンカーンは西部の戦線で戦果をあげていたジョン・ポープ少将を新編成のヴァージニア軍司令官に任命した。
ポープはマクレランとは対照的に攻撃的な精神の持ち主だった。
また、7月23日、リンカーンは西部からハレックをワシントンに呼び戻し、北軍の総司令官に任じた。
7月、ヴァージニア軍45,000を率いてポープは南下を開始した。
リッチモンドから撤退したマクレランが動く気がないのを見てとったリーは、
12,000の兵を石壁ジャクソンに与えて迎撃させた。
ジャクソンは敵の到着を待たず北上した。
8月9日、途中のシーダー・マウンテンで、ナサニエル・バンクスの北軍先遣隊8,000に遭遇し、
小競り合いとなった。数で劣るバンクスは敗れて撤退した。
少なくない規模の南軍がいると知ったポープは一度後退した。
4日後、ロングストリートがジャクソンと合流し、ポープと対峙する南軍の兵力は24,000程度まで増えた。
マクレランのポトマック軍は海上から撤退にかかっており、
ポープとマクレランが合流すれば130,000を越える兵力になる。
その前にポープの軍勢を撃つため、リーはジャクソンにポープの軍の側面を迂回して攻撃するよう指示した。
8月25日、ジャクソンは自らの率いる全軍25,000を以て、西側からの側面迂回機動に出た。
2日で86kmを踏破し、ポープのヴァージニア軍の後方の補給線である鉄道に躍り出た。
ロングストリートも同じ道を通って接近していた。
ジャクソンはさらに北上し、北軍の大規模な補給基地であるマナッサス駅へ到達し、
物資欠乏に悩む南軍では手に入れられないような大量の物資を奪った。
劇的に敵が後方にいると知ったポープは北上を開始した。
このころ、リッチモンドから撤退してきたポトマック軍の一部がポープの指揮下に入ってきており、
ポープはそれらの合計62,000程度の兵力をマナッサス駅に集結させようとしていた。
マクダウェル配下のキング師団もマナッサスに向かっていたが、
ちょうどジャクソンの軍の近くを通りかかり、遭遇戦となった。
キング師団は戦場から撤退したが、これによってジャクソンの軍の位置が知れた。
しかし、ポープは状況をよく把握できておらず、ジャクソンは撤退中だと思い込んでいた。
29日、ポープはジャクソンの軍を両翼から挟み撃ちにする意図で、マクダウェルと、
リッチモンドから戻ってきたポータに対して、ジャクソンの退却路であるべき背面のゲインズヴィルに進軍するよう命じた。
しかし、ポーターは途中で南軍の散兵に進軍を阻まれ、主戦場に間に合うことはなかった。
すでにその時には、ロングストリートの増援30,000がゲインズヴィルを進行中だったのだ。
そんな戦況を把握していなかったポープは、昼ごろジャクソンの人へ攻撃を開始した。
ロングストリートは時間をかけて陣形を整え、翌日、
全く無防備だった連邦ヴァージニア軍の側面に攻撃を開始した。
間もなく北軍の劣勢は明らかになり、
潰走はしなかったが16,000の死傷者を出してワシントンへ撤退した。
一方、この第二次ブルランの戦いにおける南軍の被害は半分程度の9,000だった。

James Longstreet
まもなく、ポープは司令官を解任された。リンカーンは敗れた軍勢を立て直すため、
2ヶ月前に編成されたばかりのヴァージニア軍をポトマック軍に合流させ、マクレランの手に委ねた。
また、このころには、リンカーンは奴隷解放を宣言する機をうかがっていた。
連邦側の州でも、南北境界近くのデラウェア州・ケンタッキー州・
メリーランド州・ミズーリ州・ウェストバージニア州などは奴隷州であり、
奴隷解放はデリケートなテーマであり、慎重にタイミングを考慮する必要があったのだ。
特に、メリーランド州は、南部連合のヴァージニア州とで首都ワシントンを挟む位置にあり、
離反すればワシントンは危機に陥る。
リーも当然そのことは承知しており、北部へ侵攻することで、その戦意を低下させられると考えた。
南部の目的は独立であり、停戦しさえすれば達成される。
また、北部領内で勝利を挙げることで、南部の綿花貿易の主要な相手であり、
海上封鎖を破ることのできる艦隊を持つイギリス(当然北部の求める保護貿易は都合が悪い)や
フランス皇帝ナポレオン3世が戦争に介入する可能性も期待する声もあった。
ポープの軍勢を打ち破り優勢になった状況を、リーは有効に活用するつもりであった。

Robert Edward Lee
アンティータムの戦い
第二次ブルランの戦いの4日後の9月3日、マナッサスを出たリーの率いる南軍55,000は、
翌日ポトマック川を渡河し、7日にはメリーランド州フレデリックに到達した。
リー侵攻のニュースで、北部はパニックになった。リーはマクレランの慎重さを計算し、
フレデリックで軍を4つに分け、できるだけ多くの戦果をあげようとした。
その上で、マクレランが到達する前には合流できると考えたのである。
ペンシルヴァニア州に近いメリーランド州のヘーガーズタウンにはロングストリートが派遣された。
シェナンドア渓谷の北方、シェナンドア川がポトマック川と合流する地点であり、12,000の守備隊がいるハーパーズフェリーにはジャクソンが派遣された。
シェナンドア渓谷は南部連合の穀倉地帯であり、またその位置から、南軍にとってマナッサスを北部侵攻の正面玄関とすれば、裏口に相当した。
リーはシェナンドア渓谷から補給をする意図だった。
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マクレランはやはり慎重に進軍し、13日にフレデリックに到達した。
ここで戦局は急展開を見せる。兵士が葉巻をまくのに使われていたリーの詳細な命令書の写しを拾ったのだ。
もちろん、偽計の可能性もあり、マクレランは慎重に検討した。
18時間後にこの情報が正しいと判断し、ついに攻勢に出るべく84,000の軍を会戦に備え動かし始めた。
一方のリーは、マクレランが命令書の写しを入手したことを南部シンパより聞き、
急いで軍を集結させようとした。マクレランとリーの間には、ブルーリッジ山脈があったので、軍の一部を割いて足止めを行った。
さすがに勝敗は明らかだったが、リーがシェナンドア渓谷へ戻るための渡河地点(シャープスバーグ)へ戻る時間を稼いだ。
このころジャクソンは、ハーパーズフェリーを見下ろす高台に砲台を設置し、
それによって北軍守備隊12,000はなすすべもなく降伏した。
ジャクソンは配下のアンブローズ・パウエル・ヒル(A.P.ヒル)に後始末を任せ、
残りを率いてすぐにリーに合流することにした。
この報告を聞き、リーは一戦交える決意をした。
ジャクソンは今まで南軍を救ってきた迅速な行軍で、マクレランが到着する3時間前にリーと合流した。
リーの軍は、ポトマック川を背に渡河地点の近くに布陣しており、兵力は41,000ほどだった。
時間がなかったため、十分な防御陣地を作ることができない状況であった。
前方にはアンティータム川が流れており、南軍右翼を攻めにくくしていた。
一方のマクレランは指揮下の兵力が87,000になっていた。
まず南軍左翼を攻撃して左翼に兵を集中させ、次に南軍右翼へ川を渡って攻撃し、
中央から増援を出させ、最後に戦術予備のポーターの軍団に中央を突破させるのがマクレランの攻撃計画だった。
17日早朝に攻撃が始まった。まず、北軍右翼のフッカー軍団、次いでマンスフィールド軍団が攻撃を開始した。
マクレランの指示が個別の軍団ごとに出されていたこともあって、連携を欠き、リーはかろうじてもちこたえた。
トウモロコシ畑で激戦となり、フッカーは負傷、マンスフィールドは戦死した。
次に、サムナー軍団が攻撃に出た。大損害を受けつつも南軍を押し込み、南軍左翼は窮地に追いやられた。
マクレランはここで戦術予備のポーターの軍団を投入することも考えた。
しかし、ポーターに"Remember, General, I command the last reserve of the last Army of the Republic."(「忘れないでください、将軍、私は北部の最後の軍の最後の予備を率いているのです。」)と言われて躊躇し、南軍左翼は崩壊を免れた。
次は北軍左翼のバーンサイドがアンティータム側を渡って攻撃する番であった。
マクレランが何度も前進を伝令したが、バーンサイドは南軍の守備に手間取り、なかなか渡河することができなかった。
渡河を終了してバーンサイドが南軍右翼に対する総攻撃を開始したのは、15時ごろになってからだった。
兵力が薄くなっていた南軍右翼はすぐに押し込まれたが、15時30分ごろハーパーズフェリーから27kmを強行軍してきたA.P.ヒルの師団が渡河地点を渡って到着したことで、
バーンサイドの進撃は押しとどめられ、その日の戦闘は終わった。
この日の戦いは、アンティータムの戦いと呼ばれている。
南軍は少なくとも全体の4分の1近い10,000の損害を出しており、敵地での攻勢を続けられる状況ではなかった。
北軍も12,000の損害を出し、慎重なマクレランは、まだポーターとフランクリンの2個の無傷の軍団を予備として持っていたにもかかわらず、
リーの反撃を恐れ、再び攻勢に出ようとしなかった。
翌日リーは退却し、リーを北部領から追い払ったことでマクレランは戦略的に勝利を挙げた。
これを受け、9月22日ついにリンカーンは奴隷解放予備宣言を発表した。
この日から、南北戦争は、反乱制圧であるとともに、奴隷制に対する戦いでもあると位置付けられていく。
奴隷解放宣言の本宣言は後の1863年1月1日に発表された。
この宣言では、メリーランド州・デラウェア州・ケンタッキー州・ミズーリ州・ウェストバージニア州の奴隷や、既に北軍が制圧した地域の奴隷に関しては例外とされていた。
北部人も多くは反乱制圧を目的に戦争をしているという意識であり、
これは南部連合に勝利するための妥協であったが、
メリーランド州・ミズーリ州・テネシー州・ウェストバージニア州はのちに自主的に奴隷制を廃止した。
この宣言の意義は大きく、イギリスやフランスもリンカーンの奴隷解放の趣旨に共感し、
南部連合の支持に回る可能性は消滅した。
また、黒人兵士が北軍に入隊したことで、北軍は多くの兵力を確保した。
アンティータムの戦いの後、マクレランはリーを追撃せず、最高司令官であるリンカーン大統領の再三の要請にもかかわらず動かなかった。
総司令官ハレックは、作戦行動に適した時期に、大軍を持ちながら敗走する敵を追わなかったことを公式に非難しており、
当然リンカーンも同じことを考えていた。
1ヶ月半後の11月1日、どうしても動かないマクレランを遂にリンカーンは解任した。
確かに戦場でのマクレランは、負けはしないものの、撤退戦を除きあまりにも慎重で、
勝利をあげられるタイプではなかった。
マクレランは、低く評価されることも多いが、
北軍を編成・訓練したのはマクレランであり、
マクレラン解任後の戦況は、名将リーを相手に負けないだけでも十分困難だったことを示している。
また、他ならぬリーが、戦後のインタビューで、最も有能な連邦の指揮官はだれかと問われ、こう答えている。
「マクレランだな、圧倒的に。あのような軍を組織しえたのは連邦では彼だけだと思う。グラントはもちろん戦争の後半に戦場でもっと成功しているが、グラントはマクレランが残した努力の成果を得ただけだ。とはいっても、私はグラント将軍を軽んじたいのではない。実際、彼は多くの才能を持っている。しかし、グラントが戦争の初年度に指揮をとっていたら、我々は独立を勝ち取っていただろう。グラントは攻撃を重んじていたが、そうしてくれれば我々にとってはありがたかった。(既に書いたとおり、実際にはマクレランは9か月もの間軍を動かさなかった。)というのも、戦闘になれば失っただろう兵士より多くの兵を、動かなかったことによって失ったからだ。第一回マナッサスの戦い(北部での名称は第一回ブルランの戦い)の後、我々の軍はある種「乾いた腐敗」に陥り、戦闘で失ったであろう兵士よりも多くの人員を野戦病で失ったのだ。」
"McClellan, by all odds. I think he is the only man on the Federal side who could have organized the army as it was. Grant had, of course, more successes in the field in the latter part of the war, but Grant only came in to reap the benefits of McClellan's previous efforts. At the same time, I do not wish to disparage General Grant, for he has many abilities, but if Grant had commanded during the first years of the war, we would have gained our independence. Grant's policy of attacking would have been a blessing to us, for we lost more by inaction than we would have lost in battle. After the first Manassas the army took a sort of 'dry rot', and we lost more men by camp diseases than we would have by fighting."
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