南北戦争1
南北戦争開戦
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南北戦争開戦前

 南北戦争前夜のアメリカの南北の対立は大きかった。

 産業が発展しつつあった北部は、イギリスにキャッチアップするまで優秀なイギリス製品を排除する保護主義と、それを支える連邦の権限強化、そして、北部の産業では必要ない黒人奴隷の解放が人道的立場より主張された。

 それに対し南部は、黒人奴隷を安い労働力として利用する プランテーション経営が産業の主力であった。 綿花やタバコなどを輸出し、工業製品はイギリスなど外国から輸入する構造になっており、自由貿易主義が主張された。 連邦政府の権限が大きい必要はなく、 州権を尊重すべきと主張された。 黒人奴隷はプランテーション経営に必要不可欠な存在であり、 奴隷解放を承認できようはずもなかった。

 日本では3月に桜田門外の変が起こり、勝海舟や福沢諭吉を乗せた咸臨丸がアメリカへ渡った年である1860年には、アメリカでは大統領選挙があり、エイブラハム・リンカーンが当選した。 リンカーンは奴隷解放論者ではあったが、かなり穏健な方で、それよりもむしろ連邦の統一をはるかに重視していた。しかし、南部諸州は奴隷廃止を主張するリンカーンの当選を認めようとしなかった。サウスカロライナ州が連邦からの離脱を決定し、以降他の南部諸州も続いた。


サムター砦

 連邦から離脱した州でも、軍事拠点はいまだ連邦軍の管理下にあるものが多かった。 連邦から最初に離脱したサウスカロライナ州のチャールストンにあるムールトリー砦の守備隊を指揮するロバート・アンダーソン少佐は南部出身であり、対南部で強行姿勢に出ないことを期待する向きもあったとされる。

 大統領選の一般投票から約一ヶ月半後の1860年12月26日、アンダーソンは軍人としての職責を全うすべく、守備隊を攻略が困難なサムター砦に移動させた。これにサウスカロライナの住民は激昂し、サムター砦はアメリカ中の注視の的となった。

 2月18日、ジェファーソン・デーヴィス(Jefferson Davis)が最初で最後の南部連合初代大統領に就任した。 ジェファーソン・デーヴィスは使者をワシントンに送る一方、 ピエール・ギュスダーヴ・トゥータン・ボーレガード准将(P.G.T.Beauregard)をサムター砦のあるチャールストンに派遣した。


P.G.T.ボーレガード


ジェファーソン・デーヴィス

 約二週間後の3月4日、リンカーンが 第16代アメリカ合衆国大統領に就任した。 リンカーンは就任演説で、南部のものを含む政府に属する財産や土地を 「保持し、占有し、所有する(hold, occupy, and possess)」と述べ、 連邦(合衆国the United States)を断固として維持する覚悟を表明した。 一方、同じ演説で奴隷制に手をつける気はないとアピールし、事態の鎮静を図ったが、不発だった。

 物資が不足しつつあるという情報を受けたリンカーンは アンダーソンのもとに救援隊を派遣する一方、それをサウスカロライナ州知事に伝え、 南部側に開戦するか否かの決定権を預けた。 リンカーンはこちらから攻撃を仕掛けることはないと公言していた。情報を受けたジェファーソン・デーヴィスは閣議を開催し、既に派遣していたボーレガード准将に サムター砦に降伏を要求し、受諾しなければ砦を粉砕せよと命じた。 降伏勧告を受けたアンダーソンは、これを拒否したものの、物資の欠乏から数日で降伏せざるを得なくなるだろうとも伝えた。ボーレガードはこれをデーヴィスに伝え、その意思を確認したボーレガードは降伏の正確な日時を伝えるようアンダーソンに迫る使者を派遣した。アンダーソンは、補給がなければ3日後の正午までと答えたが、南部側はこれに満足せず、一時間後砲撃が開始された。

 二日目には、サムター砦は危機的な状況に陥っていた。 補給の望みもなくなったアンダーソンは、降伏に同意した。サムター砦陥落の方を受けたリンカーンは、「通常の司法手続きでは抑えられないほど強力な徒党を抑える」ための任期三ヶ月間の7万5000の義勇兵募集の呼びかけを発した。南部ではこれを実質的な宣戦布告と受け止めた。斯くして内戦の勃発は避けられない情勢となった。


南北戦争開戦 アナコンダ・プラン

 軍事的経験がほとんどないリンカーンは、歴戦の長老であり英雄のウィンフィールド・スコット少将を陸軍総司令官とし、戦略の助言を求めた。スコットが進言した戦略は、以下の項目から成っていた。

1.首都を防衛し、南軍の主力を引きつけておくための一軍を編成する。
 スコットの計画では首都近辺では会戦は意図していなかったが、実際には、世論の圧力で首都近辺は主戦場と化した。

2.外国からの援助と物資を断つために優勢な海軍力を用いて海上封鎖を行う。
 大西洋岸北部・南部とメキシコ湾東部・西部にそれぞれ封鎖艦隊が配置された。綿花産業を主力とする南部はすぐに工業製品に事欠くようになり、食糧や弾薬も不足しがちになった。さらには軍靴の不足にすら悩まされるようになった。

3.ミシシッピー川を水陸両面で制圧し、南部連合を東西に分断する。

 スコットの意図は、戦闘による解決よりも、反乱をやめさせることにあり、 当初、戦争の帰結に楽観的だった世論や新聞からは、 じわじわと獲物を絞め殺す南米の大蛇になぞらえて「アナコンダ・プラン」と呼ばれ、その消極性を批判された。 実際、アナコンダ・プランによる圧力で反乱をやめさせるというスコットの意図は実現しなかったものの、 南北戦争を通じた戦略としては受け入れられ、戦争が長期化する中で南部連合の戦闘力を確実に奪っていった。 そして、リンカーンは、政治的な意図からこの戦略に一つの事項を付け加えた。

4.西部でもテネシー州東部方向へ軍を進める。
 テネシー州は南部連合に属していたが、テネシー州東部はリンカーンの共和党と合衆国を支持するものが多かった。後に西部からの攻撃が戦争の帰結に重要な意義を持つことになる。


第一次ブルランの戦い

 南北戦争における地理的条件における特徴的なこととして、合衆国の首都ワシントンと南部連合の首都リッチモンドがわずか200kmしか離れていないということがあげられる。 これは、東京から浜松程度の距離であり、この距離の近さもあって、サムター砦が陥落してからさほど経たない段階で、P.G.T.ボーレガード准将率いる南部連合の軍勢は、その軍旗はホワイトハウスからも見えるほどまでワシントンに接近していた。北部諸州からワシントン周辺に続々と部隊が集まったことで一挙にワシントンを攻略されることは避けられた。

 これらの北軍部隊はアーヴィン・マクダウェル少将が指揮した。 マクダウェルは、すぐにリッチモンドを攻めるべきであるという 世論の圧力を受け、訓練不足の兵たちを率いて戦わざるを得ない立場に立たされた。


Irvin McDowell

 当時の、ワシントン周辺では、ボーレガードが22,000の兵を率いて、マナッサス(Manassas)駅にあった。ここは、ワシントンとリッチモンドの中間にあり、しかも、シェナンドア渓谷方面とリッチモンド方面に続く鉄道の合流地点であって、戦略上の要衝であったため、名将として知られるロバート.E.リーが南部連合のジェファーソン・デーヴィス大統領に占領を進言していたのである。


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 マクダウェルはアーリントン高地に37,000の兵とともにいた。また、ハーパーズフェリー(Harpers Ferry)には、北軍のパターソン率いる18,000の兵が配置されており、それに対峙する形で、シェナンドア渓谷には、南軍12,000の兵を率いるジョセフ・エグルトン・ジョンストン少将(J.E.ジョンストン)がいた。 二箇所ともで、北軍の方が数的優勢を得ていたが、相手方の兵力については双方とも把握できていなかった。南軍のボーレガードとJ.E.ジョンストンの間は、鉄道によって結ばれており、機動性の上で有利であった。

 マクダウェルは、ボーレガードの右翼を攻撃し、マナッサス駅と連合首都リッチモンドとの間に入り込むことで、リッチモンド防衛を迫られたボーレガードがマナッサス駅から離れ、JEジョンストンとの合流が出来なくなるようにした上で、数的に劣勢なボーレガードを討つつもりであった。しかし、世論はそれをよしとせず、マクダウェルはワシントンよりまっすぐボーレガードを攻撃するよう命じられた。パターソンの軍勢がジョンストンの足止めをし、ボーレガードとの合流を防ぐということになっていた。

 1861年7月16日、マクダウェルは前進を開始した。ジョンストンをシェナンドア渓谷に釘付けにする任を帯びたパターソンもハーパーズフェリーを発し前進を開始したが、敵が二倍の兵力であると思い込み、増援を求めてハーパーズフェリーに戻ってしまった。これによって、ジョンストンは軍勢をマナッサスに送ることが可能になった。7月18日、マクダウェルの軍と、ボーレガードの軍がついに接触し、これを受け、ボーレガードはジョンストンに来援を要請した。19日から20日にかけてジョンストンの軍勢がマナッサス駅に一日中鉄道で送られた。マクダウェルの陣営では、敵が合流したことにより、決戦は延期すべきであるという意見が強まりつつあったが、兵員の多くの兵役期限が迫っており、マクダウェルは戦う決心をしていた。


J.E.Johnston

 来援したJ.E.ジョンストン少将はP.G.T.ボーレガード准将より階級が上だったが、ボーレガードが、合流した部隊の指揮を引き続き執ることを認めた。これで、北軍の兵力37,000に対し、南軍も34,000の兵力を集めることが出来た。マナッサス近くで対峙していたマクダウェルとボーレガードの二将は、両者とも、右翼部隊を大きく迂回させ、敵の側面を突くという作戦を考えていた。しかし、アメリカでこれほど大規模な軍勢が組織されたことは無く、ボーレガードは右翼部隊の迂回攻撃は放棄せざるを得なくなった。

 翌21日、後に第一次ブルランの戦い(南部側ではマナッサスの戦い)と呼ばれるようになる戦いが始まった。マクダウェルは陽動のための部隊を振り向け、主力の3個旅団を遠大な迂回行軍の途につかせた。戦いは午前6時半ごろに始まった。迂回中の北軍部隊の前衛が、敵左翼に攻撃を開始したのは10時過ぎごろであった。しかし、この迂回行軍は南軍に察知されており、南軍の猛烈な砲火を浴びた。正面から南軍左翼を攻撃していた北軍部隊の二個旅団がブルラン川を渡河したことで、北軍の戦況は改善した。この旅団のうち片方は、後に西部戦域活躍することになるウィリアム・テカムセ・シャーマン(William Tecumseh Sherman)が指揮していた。さらにしばらくすると迂回部隊の後衛が戦場に到着し、北軍は南軍左翼に攻撃を集中する形となった。南軍左翼は押されて後退し、戦列崩壊寸前となった。この時、南軍で陣形を保っているのはトマス・ジョナサン・ジャクソン准将率いる旅団くらいのものであった。 その隣に布陣していた、バーナード・ビー准将がジャクソンのもとに来た。ジャクソンは、いまだ規律を保っている自分の旅団を中心に、後退してくる南軍兵士を再編しようとしていた。ビー准将は、後退していく南軍兵士に向かってこう叫んだ、"There stands Jackson like a stone wall. Rally behind the Virginians!" 「ジャクソンが石壁のごとく立っているぞ。バージニア兵の後ろに再集結せよ。」 この呼びかけで、何とか南軍兵士は踏みとどまった。主戦場は左翼にあると感じ取ったボーレガードとジョンストンが、そこへ駆けつけ、危ういところで戦列を再編した。

 正午すぎ、一万もの北軍兵士が再編を終えた南軍兵士へ攻撃を加え始めた。マクダウェルは勝利が近いと考え猛攻をかけたが、南軍はこれに耐えた。二時過ぎ、ジョンストン軍団の最後衛が戦場に到着した。新鮮な兵力の到着で、流れは少しずつ南軍に傾きつつあった。16時ごろ、疲労困憊の北軍は、壊走を始めた。マクダウェルは整然たる撤退を伝令したが、訓練されていない兵士たちにそれは不可能であった。こうして最初の大規模会戦に北軍は完敗した。しかし、このあと続々と兵力が増強されたため、この戦いの戦略的な意味は大きくなかった。


"Stonewall" Jackson

 "There stands Jackson like a stone wall. Rally behind the Virginians!" という言葉を残したビー准将は、その言葉を発した後すぐに戦死したが、この言葉は人々の記憶に残された。これにより、ジャクソンは "石壁ジャクソン(Stonewall Jackson)"と呼ばれるようになった。また、敗将となったマクダウェルは任を解かれ、その後任には、ジョージ・ブリントン・マクレラン少将があてられた。



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