先進(抄)
-第十一-
I think; therefore I am!


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改訂済

往時の門下を懐かしむ

本文(白文・書き下し文)
子曰、
「従我於陳蔡者、皆不及門也。
徳行、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、
言語、宰我・子貢、
政事、冉有・季路、
文学、子游・子夏。」
子曰はく、
「我に陳蔡に従ひし者は、皆門に及ばざるなり。
徳行には、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、
言語には、宰我・子貢、
政事には、冉有・季路、
文学には、子游・子夏。」と。
参考文献:「論語」藤堂明保 学習研究社

現代語訳/日本語訳

先生はおっしゃった、
「陳や蔡で私に従い苦しみをともにした弟子たちは、今はもう門下にいない。
徳行に関しては、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓が、
弁舌に関しては、宰我・子貢が、
行政に関しては、冉有・季路が、
文学に関しては、子游・子夏が優れていたな。」


解説

子曰、「従我於陳蔡者、皆不及門也。
しいはく、「われにちんさいにしたがひしものは、みなもんにおよばざるなり。

「及門」は"門下にながらえる"。


徳行、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語、宰我・子貢、政事、冉有・季路、文学、子游・子夏。」
とつこうには、がんゑん・びんしけん・ぜんはくぎゆう・ちゆうきゆう、げんごには、さいが・しこう、せいじには、ぜんゆう・きろ、ぶんがくには、しゆう・しか。」

多いので説明は省略。



過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし

本文(白文・書き下し文)
子貢問、
「師与商也、孰賢。」
子曰、
「師也過。
商也不及。」
曰、
「然則師愈与。」
子曰、
「過猶不及。」
子貢問ふ、
「師と商とは、孰れか賢れる。」と。
子曰はく、
「師や過ぎたり。
商や及ばず。」
曰はく、
「然らば則ち師は愈れるか。」と。
子曰はく、
「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし。」と。
参考文献:「古典I改訂版漢文編」稲賀敬二 森野繁夫 第一学習社 「論語」藤堂明保 学習研究社

現代語訳/日本語訳

子貢が尋ねた、
「師と商とでは、どちらのほうが優れているでしょうか。」
先生はおっしゃった、
「師は何事につけても度を過ぎている。
商は、物足りない。」
「それならば師のほうが優れているのでしょうか。」
先生はおっしゃった、
「度が過ぎているのも、物足りないのと同じことだ。」
(いずれも不完全である)


解説

子貢問、「師与商也、孰賢。」子曰、「師也過。商也不及。」
しこうとふ、「しとしようとは、いづれかすぐれる。」と。しいはく、「しやすぎたり。しようやおよばず。」

「A与B、孰[形容詞]」で"AとBでは、どちらがより[形容詞]だろうか"の意。

師とは、顓孫師(せんそんし))[字は子張]。
商とは、卜商(ぼくしょう)[字は子夏]。



曰、「然則師愈与。」子曰、「過猶不及。」
いはく、「しからばすなはちしはまされるか。」と。しいはく、「すぎたるはなほおよばざるがごとし。」と。

「然」は"そうであること"。
猶(なほ〜ノごとシ)」は再読文字で、"ちょうど〜のようだ"。

中庸という概念は、儒学の中でも非常に重要な概念であり、
ギリシアのアリストテレス Aristotelesも同じようなことを言っている。



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