出師の表
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本文(白文・書き下し文)
五年、率諸軍北、駐漢中。
臨発上曰。

(臣亮言)
先帝創業未半而中道崩殂。
今天下三分益州疲弊。
此誠危急存亡之秋也。
然侍衛之臣、不懈於内、
忠志之士忘、身於外者、
蓋追先帝之殊遇、欲報之陛下也。
誠宜開張聖聴以光先帝遺徳、
恢弘志士之気。
不宜妄自菲薄引喩失義、
以塞忠諫之路也。
宮中府中倶為一体、
陟罰臧否不宜異同。
若有作姦犯科、及為忠善者、
宜付有司論其刑賞、
以昭陛下平明之理。
不宜偏私使内外異法也。

侍中侍郎郭攸之・費褘・董允等、
此皆良実志慮忠純。
是以先帝簡抜以遺陛下。
愚以為宮中之事、事無大小悉以咨之、
然後施行、必能裨補闕漏有所広益。
将軍向寵、性行淑均、堯暢軍事。
試用於昔日、先帝称之曰能。
是以衆議挙寵以為督。
愚以為営中之事、悉以咨之、
必能使行陣和睦、優劣得所。

親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。
親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。
先帝在時、毎与臣論此事、
未嘗不歎息痛恨於桓霊也。
侍中・尚書・長史・参軍、此悉貞良死節之臣。
願陛下親之信之。
則漢室之隆、可計日而待也。

臣本布衣、躬耕於南陽。
苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯。
先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、
三顧臣草廬之中、
諮臣以当世之事。
由是感激、遂許先帝以駆馳。
後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間。
爾来二十有一年矣。

先帝知臣謹慎。
故臨崩、寄臣以大事也。
受命以来夙夜憂歎、
恐託付不効以傷先帝之明。
故五月渡濾深入不毛。
今南方已定兵甲已足。
当奨率三軍北定中原。
庶竭駑鈍攘除姦凶、
興復漢室還于旧都。
此臣之所以報先帝而忠陛下之職分也。
至於斟酌損益進尽忠言、則攸之・褘・允之任也。
願陛下託臣以討賊興復之効。
不効則治臣之罪、以告先帝之霊。
(若無興徳之言則)
責攸之・褘・允等之慢、以彰其咎。
陛下亦宜自謀、以諮諏善道察納雅言、
深追先帝遺詔。
臣不勝受恩感激。
今当遠離。
臨表涕零、不知所言。」

遂行屯于沔陽。
五年、諸軍を率ゐて北し、漢中に駐す。
発するに臨みて上して曰はく、

(臣亮言す)
先帝創業未だ半ばならずして中道に崩殂せり。
今天下三分し益州は疲弊す。
此れ誠に危急存亡の秋なり。
然れども侍衛の臣、内に懈らず、
忠志の士、身を外に忘るるは、
蓋し先帝の殊遇を追ひ、之を陛下に報いんと欲すればなり。
誠に宜しく聖聴を開張し以て先帝の遺徳を光らかにし、
志士の気を恢弘すべし。
宜しく妄りに自ら菲薄し、喩へを引き義を失ひ、
以て忠諫の路を塞ぐべからず。
宮中府中は倶に一体と為り、
陟罰臧否するに宜しく異同あるべからず。
若し姦を作し科を犯し、及び忠善を為す者有らば、
宜しく有司に付して其の刑賞を論じ、
以て陛下の平明の理を昭らかにすべし。
宜しく偏私して内外をして法に異にせしむべからず。

侍中侍郎郭攸之・費褘・董允等は、
此れ皆良実にして志慮忠純なり。
是を以て先帝簡抜して以て陛下に遺せり。
愚以為へらく宮中の事、事大小と無く悉く以て之に咨り、
然る後に施行せば、必ず能く闕漏を裨補し広益する所有らん、と。
将軍向寵は、性行淑均、軍事に堯暢す。
昔日に試用せるとき、先帝之を称して能と曰ふ。
是を以て衆議寵を挙げて以て督と為す。
愚以為へらく営中の事、悉く以て之に咨らば、
必ず能く行陣をして和睦し、優劣所を得しめん、と。

賢臣に親しみ小人を遠ざくる、此れ先漢の興隆せし所以なり。
小人に親しみ賢臣を遠ざくる、此れ後漢の傾頽せし所以なり。
先帝在りし時、臣と此の事を論ずる毎に、
未だ嘗て桓・霊に歎息痛恨せずんばあらざりしなり。
侍中・尚書・長史・参軍は、此れ悉く貞良死節の臣なり。
願はくは陛下之に親しみ之を信ぜよ。
則ち漢室の隆んなること、日を計りて待つべきなり。

臣は本より布衣、躬ら南陽に耕す。
苟くも乱世に性命を全うし、聞達を諸侯に求めず。
先帝臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉屈し、
臣を草廬の中に三たび顧み、
臣に諮るに当世の事を以てす。
是に由りて感激し、遂に先帝を許すに駆馳を以てす。
後傾覆に値ひ、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。
爾来二十有一年なり。

先帝臣の謹慎なるを知る。
故に崩ずるに臨みて、臣に寄するに大事を以てす。
命を受けて以来夙夜憂歎し、
託付の効あらず以て先帝の明を傷つけんことを恐る。
故に五月濾を渡りて深く不毛に入る。
今南方已に定まり兵甲已に足る。
当に三軍を奨率して北のかた中原を定むべし。
庶はくは駑鈍を竭くして姦凶を攘ひ除き、
漢室を興復して旧都に還さん。
此れ臣の先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり。
斟酌損益し忠言を進め尽くすに至りては、則ち攸之・褘・允の任なり。
願はくは陛下臣に託すに討賊興復の効を以てせよ。
効あらずんば則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告ぐべし。
(若し興徳の言無くんば則ち)
攸之・褘・允等の慢を責め、以て其の咎を彰らかにせよ。
陛下も亦宜しく自ら謀りて、以て善道を諮諏して雅言を察納し、
深く先帝の遺詔を追ふべし。
臣恩を受けて感激に勝へず。
今当に遠く離るべし。
表に臨みて涕零ち、言ふ所を知らず。」と。

遂に行きて沔陽に屯す。
参考文献:三国志 宮川尚志 明徳出版社

現代語訳/日本語訳

建興五年、諸葛亮は諸軍を率いて北へ進み、漢中に駐留した。
そして、軍を動員するに際し、このような上表文を奏上した。

「先帝は漢王朝再興事業を始められましたが、完成しないうちに、崩御されてしまいました。
今、天下は三分され、我が益州は疲弊しています。
これはまさに益州の危機であり、存亡のかかった重要なときであります。
それにも関わらず、護衛の臣が、宮中で職務を怠らず、
忠義に篤い武人が、戦場で身を顧みないで戦うのは、
おそらく、先帝の厚い待遇を思い返し、これを陛下に対して報いようと思うからでありましょう。
陛下は進言を広く受け入れるようにして先帝の遺徳を明らかにし、
志ある者の志をさらに広げるようにするのが良いでしょう。
また、みだりに徳を薄くするような行動をしたり、都合のいい例を引いたりして、正しい道を外れ、
忠義の心から来る諌言の道を塞ぐのは良くありません。
さらに、宮廷と丞相府は一体となり、役人を評価して昇進または降格させるときに、
意見が食い違わないようにするのが良いでしょう。
もし不正を行なう者や、忠義で善良な行動をとる者があれば、
そのことを役人に委ねて、その刑罰と褒賞を議論させ、
それによって陛下の公正で明白な法律を明らかにするのが良いでしょう。
皇后や卿大夫にひいきして、等しく法を適用しないのは良くありません。

侍中・侍郎の郭攸之・費褘・董允らは、みな良実で、考えは忠純です。
このため、先帝はこれらの者を選抜して陛下に残したのであります。
宮中のことは、大小に関わらず、全て彼らに相談し、その後実行するようにすれば、
必ず欠点や手落ちを補って陛下を助け、広く世に利益をもたらすことができるものと、愚考する次第であります。
将軍向寵は、性行善良で分け隔てがなく、軍事に精通しています。
かつて彼を試用してみたとき、先帝は彼を有能であると賞賛されました。
このため、衆議は一決して彼を都督に任じたのです。
陣営の中のことは、全て彼に相談すれば、必ず軍を統率されて争わない状態にし、
優れた者が上に立つ構造を築くことができるものと、愚考する次第であります。

賢臣に親しんで小人を遠ざける、これは前漢が繁栄した理由です。
小人に親しんで賢臣を遠ざける、これは後漢が衰退した理由です。
先帝は、まだ生きておられた頃、私とこの事について議論するごとに、
いまだかつて後漢の桓帝・霊帝に歎息痛恨しなかったことはありません。
侍中・尚書・長史・参軍は、みな善良で意思が堅く、貞節のために死ねる人物です。
どうか陛下は彼らに親しみ、信任してください。
そうすれば、漢室の再興は、日を数えて待てるほどで叶うでしょう。

私はもともとは仕官しておらず、自ら南陽で耕作を行って、ただ乱世に天寿を全うできればよいと思い、
諸侯に名声が轟いて高官に出世することを求めていませんでした。
先帝は私が身分賎しき貧乏人であることを問題とせず、
かたじけなくも自らへりくだって来てくださり、私を草廬の中に三度も訪れて、私に当世のことをお尋ねになりました。
私はこのことで感激し、そのまま先帝に仕えて奔走することを承諾したのです。
のち、国家転覆の危機に直面し、敗軍の際に任務を受け、危難の間に命を捧げました。
あれから二十一年が過ぎようとしています。

先帝は私が行動を控え目にしていることを知っておられました。
そのため、崩御されようとしたとき、私に大事を託されたのです。
しかし、私は命を受けて以来、朝から晩まで憂えてため息を落とし、
付託に対して何の成果を挙げることもできず、先帝の聡明さに傷を付けてしまわないかと恐れていました。
そのため、五月、濾水を渡って不毛の地に入りました。
今、南方は既に定まり、兵力も既に十分備わっています。
ここは大軍を率いて北へ進み、中原を平定すべきです。
私の非才を使い尽くして悪人を打ち払い、漢室を復興して旧都洛陽に戻れたらよいと思います。
このことこそ、私が先帝のご恩に報いて、陛下に真心を尽くす務めです。
政策を考え、真心を尽くした進言を行なうのは、郭攸之・費褘・董允らの務めです。
どうか陛下は私に賊を討ち漢室を復興する任務をお任せください。
成果が上がらなければ、私の罪を処罰して先帝の霊にお告げください。
もし徳を高めるような進言がなかったら、郭攸之・費褘・董允らの怠慢を追及し、
その過失を公表してください。
陛下もまた自らお考えになって、正しい道について臣下と相談し、
的確で合理的と思われる進言をお入れになって、深く先帝の遺言を思い返しますのがよいでしょう。
私はご恩を受け、感激に耐えません。
今こそ遠征を行なうべきです。
この表に向かっていると涙がこぼれてしまい、何を申し上げるつもりだったのか忘れてしまいました。」

そのまま進軍して沔陽に駐屯した。

解説

五年、率諸軍北、駐漢中。臨発上曰。
ごねん、しよぐんをひきゐてきたし、かんちう(かんちゅう)にちうす。はつするにのぞみてじやうそ(じょうそ)していはく、

「発」は"動員する"。
「上(じやうそ/じょうそ)」は、"天子などに文章を差し出すこと"。

蜀漢が領土とした益州は四方を山脈に囲まれた天然の要塞地帯であり、軍隊がまともに侵入できる経路は、
「蜀の桟道」を含む、北の雍州から秦嶺山脈・米倉山脈を越えていく狭隘な4*2通りの陸路と、
揚子江の支流である漢水を上る水路の2つのみであった。
このためか、140年における人口は約726万人で、当時の中国の総人口約4765万人に対して約15.2%を誇った。
また、豊富な水資源と肥沃な土壌に恵まれた豊かな土地であり、
戦国時代には秦が、その滅亡後には漢の劉邦が、ここ益州によって統一を成し遂げた。
そして、「漢中」は、その秦嶺山脈と米倉山脈の間にある漢中の喉元であり、
雍州と益州の間に軍隊を通すには、漢中を策源(補給の拠点)とする必要があった。
劉備はかつて、ここを曹操と争って手に入れ、後、諸葛亮はここに丞相府を置いた。
今回の第一回北伐においても、当然漢中を策源にする必要があった。



(臣亮言)
(しんりやう(りょう)もうす)

これは、本来、三国志の記述にはないが、諸書にはあるので、ここで補った。


先帝創業未半而中道崩殂。今天下三分益州疲弊。此誠危急存亡之秋也。
せんていさうげふ(そうぎょう)いまだなかばならずしてちうだう(ちゅうどう)にほうそせり。いまてんかさんぶんしえきしうはひへいす。これまことにききふそんばう(ききゅうそんぼう)のときなり。

「先帝」とは、蜀漢の先主劉備のこと。
諸葛亮がこれを書いたときは、後主劉禅の時代になっていた。
「中道」は"仕事の途中"。
「崩殂」は「崩御」に同じ、天子が死亡する事。
「誠(まこと-ニ)」は"本当に・実に"。
「秋(とき)」は"大事なとき・危険が迫ったとき"。


然侍衛之臣、不懈於内、忠志之士忘、身於外者、蓋追先帝之殊遇、欲報之陛下也。
しかれどもじゑいのしん、うちにおこたらず、ちうしのし、みをそとにわするるは、けだしせんていのしゆぐうをおひ、これをへいかにむくいんとほつすればなり。

「然(しか-レドモ)」は逆接。
「侍衛」は"天子の護衛すること"。
「懈」は「怠」に同じ。
「内」は"宮中"。
「蓋(けだ-シ)」は想像の意"たぶん・おそらく・思うに"と、断定"つまり"の意がある。
「殊遇」は"特別に厚い待遇"。


誠宜開張聖聴以光先帝遺徳、恢弘志士之気。不宜妄自菲薄引喩失義、以塞忠諫之路也。
まことによろしくせいちやう(せいちょう)をかいちやう(かいちょう)しもつてせんていのいとくをあきらかにし、ししのきをくわいこう(かいこう)すべし。よろしくみだりにみずらひはくし、たとへをひきぎをうしなひ、もつてちうかん(ちゅうかん)のみちをふさぐべからず。

「宜(よろ-シク〜べ-シ)」は、再読文字で、適当"〜するのがよい"の意を表す。
「開張」は"大きく開け広げる"。
「聖聴」は"天子の聴聞"。
「光」は"明らかにする"。
「恢弘」は"広げて大きくする"。
「菲薄」は"徳の劣っていること・徳を薄くすること"。


宮中府中倶為一体、陟罰臧否不宜異同。
きうちうふちう(きゅうちゅうふちゅう)はともにいつたい(いったい)となり、ちよくばつざうひするによろしくいどうあるべからず。

「宮中」は"宮廷"、成都にあった。
「府中」は"丞相府"、漢中にあった。
このように政治の要となる組織が離れた場所にあったので、なおのこと協調が重要だった。
「倶」は"いっしょに"。
「陟罰」は"昇進させたり罰したりすること"。
「臧否」は"人物を批判すること"。
「臧否(善悪・可否)を陟罰す」という解釈も多いが、
この時代にはよく、臧否は人物評論の意で用いられたらしい。
「異同」は"反対意見"。


若有作姦犯科、及為忠善者、宜付有司論其刑賞、以昭陛下平明之理。
もしかんをなしかをおかし、およびちうぜん(ちゅうぜん)をなすものあらば、よろしくいうし(ゆうし)にふしてそのけいしやうをろんじ、もつてへいかのへいめいのりをあきらかにすべし。

「若(も-シ)」は接続詞で順接確定条件。
「作姦」は"悪事を行なう"。
「犯科」は"法に触れる"。
「有司」は"役人"。
「付」は"委ねる・頼む"。
「平明」は"公正で明らか"。
「理」は"法律・法規"、ただし、これは諸書には「治」となっているが、これはとらなかった。



不宜偏私使内外異法也。
よろしくへんししてないぐわい(ないがい)をしてはふ(ほう)にことにせしむべからず。

「偏私」は"ひいきする"。
「内外」は"皇后や卿大夫"。
昔の中国の貴族・役人層は、一番上が"卿"で、その下が"大夫"、
その下が"士"で、さらにその下は平民である。


侍中侍郎郭攸之・費褘・董允等、此皆良実志慮忠純。是以先帝簡抜以遺陛下。
じちう(じちゅう)じらう(じろう)かくいうし(かくゆうし)・ひい・とういんらは、これみなりやうじつにしてしりよちうじゆんなり。ここをもつてせんていかんばつしてへいかにのこせり。

「侍中」は宮中に侍る天子の相談役で、次第に地位が向上した。
「侍郎」は尚書の部署で事務を司る官。
董允伝には「侍中郭攸之・費褘、侍郎董允」とある。
「志慮」は"考え"。
「簡抜」は"選抜"。


愚以為宮中之事、事無大小悉以咨之、然後施行、必能裨補闕漏有所広益。
ぐおもへらくきうちうのこと、ことだいせうとなくことごとくもつてこれにはかり、しかるのちにしこうせば、かならずよくけつろうをひほしこうえきするところあらん、と。

「以為(おも-ヘラク)」は「以A為〜」の略であり、"思う"という意である。
「愚以為」の「愚」は、謙遜である。
「事無大小」は、「事無大無小」ということであろう。
「無A無B」は、「Aと無くBと無く」ということであり、"AとBに関わらず"という意味である。
「悉」は"すべて"。
「咨」は"相談する"。
「裨補(ひほ)」は"欠点を補って助ける"。
「闕漏(けつろう)」は"手抜かり・不足"。


将軍向寵、性行淑均、堯暢軍事。試用於昔日、先帝称之曰能。是以衆議挙寵以為督。
しやうぐん(しょうぐん)かうてう(こうちょう)は、せいこうしゆくきん(しゅくきん)、ぐんじにげうちやう(ぎょうちょう)す。せきじつにしようせるとき、せんていこれをしよう(しょう)してのうといふ。ここをもつてしうぎてうをあげてもつてとくとなす。

向寵は、諸葛亮が北伐に出た際に、成都を守る留守部隊の総司令官(都督)に任命された人物。

「淑均」は"善良で分け隔てがない"。
「堯暢」は"熟知する"。
「称」は"褒める"。
「督」は、「都督」、総司令官の意である。


愚以為営中之事、悉以咨之、必能使行陣和睦、優劣得所。
ぐおもへらくえいちうのこと、ことごとくもつてこれにはからば、かならずよくかうじんをしてわぼくし、いうえつところをえしめん、と。

「営中之事」は、軍事に関することの意。
「行陣」は"隊列を組んだ軍隊・行軍"。
「和睦」は"争わないこと・仲の良いさま"。


親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。先帝在時、毎与臣論此事、未嘗不歎息痛恨於桓霊也。
けんしんにしたしみせうじん(しょうじん)をとほざくる、これせんかんのこうりう(こうりゅう)せしゆゑんなり。せうじんにしたしみけんしんをとほざくる、これごかんのけいたいせしゆゑんなり。せんていありしとき、臣しんこのことをろんずるごとに、いまだかつてくわん(かん)・れいにたんそくつうこんせずんばあらざりしなり。

「小人」は"取るに足らない人物"。
「所以(ゆゑん)」は"理由・こと"。
「未嘗不歎息痛恨於桓霊也」に関して、否定語句(未と不)の間に副詞(嘗)が入ってくると、
(〜ずんばあらず)と、読む慣習がある。


侍中・尚書・長史・参軍、此悉貞良死節之臣。願陛下親之信之。則漢室之隆、可計日而待也。
じちう・しやうしよ(しょうしょ)・ちやうし(ちょうし)・さんぐんは、これ悉く貞良死節の臣なり。願はくは陛下之に親しみ之を信ぜよ。則ち漢室の隆んなること、日を計りて待つべきなり。

「尚書」は、この時代には、皇帝への上奏文や詔勅などの文書を管理する官。
「長史」は属官。
「参軍」は幕僚。

「桓・霊」とは、後漢の桓帝・霊帝のことで、
この治世に、宦官らが、儒教の教養を身につけた官僚(清流官僚)・学者らを弾圧したという党錮の禁が起こったため、
後漢の政治は大いに乱れ、清流官僚らは後漢政府を見限った。
この後に黄巾の乱が起こり、後漢政府は豪族たちの力を借りてこれを鎮圧したが、
このために後漢政府の力は弱まった。
また、後漢の官僚たちは、地方の豪族の出身であり、党錮の禁で後漢政府を見限った後は、
自分たちの勢力拡大を目指すようになった。
こうして、天下は群雄割拠の様相を呈すようになっていったのである。


臣本布衣、躬耕於南陽。苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣草廬之中、諮臣以当世之事。
しんはもとよりふい、みづからなんようにかう(こう)す。いやしくもらんせいにせいめいをまつとうし、ぶんたつをしよこうにもとめず。せんていしんのひひなるをもつてせず、みだりにみづからわうくつ(おうくつ)し、しんをさうろ(そうろ)のなかにみたびかへりみ、しんにはかるにたうせい(とうせい)のことをもつてす。

「本(もと-ヨリ)」は"本来"。
「布衣」は"仕官していない者"。
「躬」は"自分で"。
「苟(いやす-クモ)」は、この場合は副詞であり"ただ・ひたすらに・わずかに"等の意。
「聞達(ぶんたつ)」は"名声が聞こえ、高官に出世すること"。
「猥(みだり-ニ)」は目上の人が自分にへりくだってくれたことを表す。
「枉屈(わうくつ)」は"貴人がへりくだって来訪する"。
「顧」は"訪れる"。


由是感激、遂許先帝以駆馳。後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間。爾来二十有一年矣。
これによりてかんげきし、つひにせんていをゆるすにくちをもつてす。のちけいふくにあひ、にんをはいぐんのさいにうけ、めいをきなんのあいだにほうず。じらいにじふいちねんなり。

「由」は理由を表す。
「許」は"承諾する"。
「値(あ-フ)」は"直面する"。
「駆馳(くち)」は"人のために奔走する"。

「傾覆」は長坂の戦いでの敗戦を言う。


先帝知臣謹慎。故臨崩、寄臣以大事也。受命以来夙夜憂歎、恐託付不効以傷先帝之明。
せんていしんのきんしんなるをしる。ゆゑにほうずるにのぞみて、しんによするにたいじをもつてす。めいをうけていらいしゆくやゆうたんし、たくふのこうあらずもつてせんていのめいをきづつけんことをおそる。

「寄」は"思いを託す"。
「夙夜(しゅくや)」は"朝から晩まで"。
「傷(きづ-ツク)」は"傷つける・損害を与える"。
「託付」は「付託」。


故五月渡濾深入不毛。今南方已定兵甲已足。当奨率三軍北定中原。
ゆゑにごがつろをわたりてふかくふもうにいる。いまなんぱう(なんぽう)すでにさだまりへいこうすでにたる。まさにさんぐんをしやうそつ(しょうそつ)してきたのかたちうげん(ちゅうげん)をさだむべし。

「濾」は"濾水"。
「中原」は中国文明発祥の地。

「三軍」は、力の有る諸侯の軍。 周公丹の理想とした軍制では、一軍は1万2500人で、 周王室が六軍(7万5000人)を擁し、 諸侯は、大国が三軍(3万7500人)、中規模の国が二軍(2万5000人)、 小国が一軍(1万2500人)を保有するものとされた。 ただし、現実にはばらつきがあり、周王室も、5万5000人が限度であった。


庶竭駑鈍攘除姦凶、興復漢室還于旧都。此臣之所以報先帝而忠陛下之職分也。
ねがはくはどどんをつくしてかんくゐよう(かんきょう)をはらひのぞき、かんしつをこうふくしてきうと(きゅうと)にかへさん。これしんのせんていにむくいてへいかにちうなるゆゑんのしよくぶんなり。

「庶(こひねが-ハクハ)」は期待をあらわし、"〜であってほしい・ぜひ〜してほしい"などのように訳す。
「駑鈍(どどん)」は"判断や行動が遅い"など才能が劣っていることを示す。
「竭」は"尽くす・失う・からす"。
「姦凶」は"悪人"。


至於斟酌損益進尽忠言、則攸之・褘・允之任也。願陛下託臣以討賊興復之効。不効則治臣之罪、以告先帝之霊。
しんしやくそんえきしちうげん(ちゅうげん)をすすめつくすにいたりては、すなはちいうし・ひ・いんのにんなり。ねがはくはへいかしんにたくすにとうぞくこうふくのかうをもつてせよ。かうあらずんばすなはちしんのつみををさめ、もつてせんていのれいにつぐべし。

「斟酌(しんしゃく)」は"処理する"。
「斟酌損益」で"政策を考える"と見る。
「怯」は"臆病"。
「治」は"処罰する"。


(若無興徳之言則)
(もしこうとくのげんなくんばすなはち)

これは、本来、三国志の記述にはないが、諸書にはあるので、ここで補った。
「興徳」は「徳を興す」ということである。


責攸之・褘・允等之慢、以彰其咎。陛下亦宜自謀、以諮諏善道察納雅言、深追先帝遺詔。
いうし・ひ・いんらのまんをせめ、もつてそのとがをあきらかにせよ。へいかもまたよろしくみづからはかりて、もつてぜんだう(ぜんどう)をししゆ(ししゅ)してがげんをさつなふし、ふかくせんていのいせう(しょう)をおふべし。

「彰」は"明らかにする"。
「諮諏(ししゅ)」は"上のものが下のものに意見を求め、相談する"。
「察納(さつのう)」は"よく調べて意見を受け入れる"。
「雅言」は"正確で合理的な言葉"。
「遺詔」は"天子の遺言"。


臣不勝受恩感激。今当遠離。臨表涕零、不知所言。」
しんおんをうけてかんげきにたへず。いままさにとほくはなるべし。ひようにのぞみてなみだおち、いふところをしらず。」と。

「当」は此処では当然(〜するべき)の意。
「表」は天子に奏上する文章。


遂行屯于沔陽。
つひにゆきてべんようにとんす。

「遂」は"そのまま"。
「沔陽」は沔水(漢水)の北にある土地で、劉備が漢中王を号した地でもある。


総括

出師の表は、諸葛亮の書いた名文であり、文選にも録せられている。
彼の政治の理論と、忠誠心が披瀝されており、特に日本人にとっては、愛すべき文章となっている。



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