5・15事件で凶弾に倒れた「憲政の神」犬養毅(号 木堂)を顕彰する

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木堂をしのぶ特別展示 web公開

 新型コロナウイルス感染症の拡大防止のための臨時休館に伴い、5月15日(土)から予定していた特別展示を中止したので、5月31日(月)まで、この特設ページで五・一五事件の報道新聞など展示予定だった資料の一部を公開します。


木堂をしのぶ特別展示~木堂祭にかえて~ web公開版

五・一五事件号外新聞記事

 木堂が凶弾に倒れた後、新聞各社から号外新聞が配信されました。衝撃的な事件であったため、情報が錯綜さくそうしているものや、発行日が間違っているものもありました。しかし、翌日から内務省が報道規制を発動、16日の夕刊から事件に関して報道されることはなく、事件の詳細は1年後の昭和8年(1933)5月17日まで待たなければなりませんでした。


東京朝日新聞 号外(昭和7年5月15日付)

 木堂が頭部を撃たれて重態であることなどが報道されている。また、日付が4月15日と間違って印刷されており、混乱している様子がうかがえる。

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東京朝日新聞 第二号外(昭和7年5月15日付)
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山陽新報 第二号外(昭和7年5月15日付)

 美作版。木堂の容態のみ報道されている。

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時事新報 第四号外(昭和7年5月15日付)

 事件当日、現場に不在であった健氏が「驚いて直ちに犬養首相に『危ないからお逃げなさい』と言った」などの記述があり、情報が錯綜さくそうしている様子がうかがえる。

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東京朝日新聞 号外(昭和7年5月16日付)

 「帝都未曾有みぞうの不祥事」として首相官邸ほかへの襲撃についても報道されている。また、前日の号外と同様に、日付が4月16日と間違って印刷されており、出頭してきた襲撃犯人の名前は「○○」と伏せ字になっている。

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東京日日新聞 号外(昭和7年5月16日付)
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犬養毅之墓

 青山霊園(東京)の警視庁墓地にある木堂のお墓。
 木堂は、墓に官職などは一切書かず、名前、生没年、「備中庭瀬人」とのみ記すように遺言していた。このお墓の墓碑は、友人で東洋史学者の内藤湖南こなんが書いたものである。


骨壺

 木堂の末娘 のぶが所持していたもの。木堂の戒名かいみょう「台光院殿沈毅木堂大居士」や生没年などが刻まれている。


デスマスク報道(読売新聞 昭和7年5月17日付)

 昭和7年(1932)、五・一五事件で木堂が凶弾に倒れて亡くなった後、彫塑家(彫刻家) 朝倉文夫によって木堂の顔面の型が取られ、石膏で顔面像(デスマスク)が作られた。このことは、当時の新聞に写真入りで報道された。

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木堂と家族の写真

 木堂の遺体を囲む家族の写真。
 右から道子、仲子、康彦、健、千代子、のぶ(木堂の末娘)、多田正俊(信の夫)。


皇族からの供え物のある祭壇

 天皇や皇后、皇族からの供え物が祀られた葬儀前の祭壇。天皇からはるい(弔辞)も贈られた。


木堂葬儀写真

 木堂の葬儀は、質素な式を望んでいた木堂の意志に反し、政友会による党葬で、首相官邸にて執り行われた。


木堂没後一周忌写真

 木堂が亡くなって1年経った仏間での道子と康彦。


木堂没後一周忌写真

 昭和8年(1933)5月15日、木堂の一周忌法要において。
 遺族席の前列左から健、千代子、康彦、仲子、道子、芳澤謙吉(操の夫)、操(木堂の長女)。


東京日日新聞 号外・東京朝日新聞 号外(昭和8年5月17日付)

 五・一五事件から1年後に報道規制が解除され、事件についての報道が始まった。
 昭和8年(1933)5月17日午後5時解除であったため、新聞各社は号外新聞を発行した。

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東京朝日新聞 夕刊(昭和8年9月19日付)

 昭和8年(1933)7月25日から陸軍の軍法会議が行われた。国家革新のために国民が立ち上がるように訴えるため行動した―と被告の陳述が次々と報道され、国を憂えた青年達の行動と、全国から減刑嘆願が寄せられた。
 13回の審理を経て、同年9月19日、求刑よりも軽い判決が下された。なお約5ヶ月後には、皇太子御降誕の恩赦により減刑されている。

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日本新聞(昭和8年11月10日付)

 昭和8年(1933)7月12日から海軍の軍法会議が行われた。国家革新のために国民が立ち上がるように訴えるため行動した―と被告の陳述が次々と報道され、国を憂えた青年達の行動と、全国から減刑嘆願が寄せられた。
 19回の審理を経て、11月8日に求刑よりも軽い判決が下された。なお約3ヶ月後には、皇太子御降誕の恩赦により減刑されている。

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東京朝日新聞 号外(昭和9年2月3日付)

 昭和8年(1933)9月26日から東京地方裁判所で裁判が行われた。国家革新のために国民が立ち上がるように訴えるため行動した―と被告の陳述が次々と報道され、国を憂えた青年達の行動と、全国から減刑嘆願が寄せられた。
 42回の公判(審理)を経て、翌年2月3日に判決が下された。なお、8日後には皇太子御降誕の恩赦で減刑された。

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台光院殿三周忌名簿

 昭和9年(1934)に行われた木堂の三回忌法要に出席したと思われる人々の名簿。

  • 表紙

  • 西園寺公望、東郷平八郎、平沼騏一郎らの名前がある。
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*まめ知識*
法要について・・・故人が亡くなった1年後が「一周忌」、その翌年(亡くなった2年後)が「三回忌」、亡くなった6年後が「七回忌」となります。
 なお、○回忌は、亡くなった年も含めて数えます。

木堂三回忌写真

 昭和9年(1934)5月15日、木堂三回忌の様子。
 右から道子、仲子、健、康彦。


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