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犬養木堂記念館
〒701-0161
岡山市北区川入102-1
TEL 086-292-1820
FAX 086-292-1825
 犬養木堂とは  木堂の生涯   木堂年譜
犬養の名前
 木堂の先祖は「犬養」「犬飼」の両方とも使っていたといいます。木堂が生まれた頃は「犬飼」を使っていましたが、木堂は、上京(1875)前後から「犬養」を使いだし、結局「犬養」にしました。
 「木堂」というのは、雅号です。孔子の『論語』から付けられ、名付けたのは栗本鋤雲です。

木堂の生涯
 岡山時代
  安政2年(1855)4月20日、備中国庭瀬村川入(現在の岡山市北区川入)の大庄屋犬養家において、父源左衛門、母嵯峨の次男として誕生しました。幼名は仙次郎。5歳から父に漢学を学び、優れた才能を発揮しました。10歳頃から、現在の倉敷市山地にあった犬飼松窓の三餘塾に通いました。
 13歳の時父が病死し、家計をたすけるため門脇の一室で近所の子供たちに読み書きを教えていました。東京に出て漢学で身を立てようと考え、明治5年(1872)17歳で小田県庁(現在の岡山県笠岡市)に勤務、この時、「万国公法」に接して洋学の思想に目覚め、洋学を学ぶために明治8年(1875 20歳)に上京しました。

小田県庁時代(後列中央)

 慶應義塾時代
従軍記者として  上京後、湯島の共慣義塾を経て、翌年慶應義塾に入学し福沢諭吉の指導を受け、生涯の方向が決まりましたが、明治13年(1880 25歳)卒業を目前にして同塾を退学しました。
 在学中「郵便報知新聞」から西南戦争の従軍記者として派遣され、その現地ルポ「戦地直報」で名声を博しました。

 ジャーナリスト時代
 慶應義塾在学中、「郵便報知新聞」に記事を寄稿していたが、慶應義塾退学と同じ頃に辞め、その後、明治13年に「東海経済新報」を創刊しました。翌明治14年(1881 26歳)7月、統計院権少書記官となりますが、同年10月大隈重信の下野に従い退官しました。
 明治15年(1882 27歳)に立憲改進党結成の計画に加わるとともに、「郵便報知新聞」の有力記者となり、また東京府会議員に当選します。(明治23年の退任まで改選ごとに当選)
 明治16年(1883 28歳)4月には「秋田日報」主筆として秋田へ赴き、11月に帰京、「郵便報知新聞」に復帰。明治18年(1885 30歳)に「朝野新聞」に入社し、幹部として活躍しました。
 衆議院議員当選の明治23年(1890 35歳)11月に朝野新聞を退社、翌24年(1891)1月、日刊新聞「民報」を創刊しました。

朝野新聞時代

 政治家時代
 憲政の神

演説会場にて
 明治23年(1890 35歳)7月、帝国議会開設に伴う第1回衆議院議員選挙に岡山県第三区から立候補し、当選します。以来、連続19回当選し、立憲改進党、中国進歩党、立憲国民党、革新倶楽部、立憲政友会に所属。一貫して政党政治の確立と普通選挙制度の実現に尽力し、大正期の憲政擁護運動では、尾崎行雄とともに先頭となって活躍して「憲政の神様」と言われました。大正中頃からは、普通選挙を実現しようと尽力しました。
 この間、明治31年(1898 43歳)10月〜11月、大隈内閣の文部大臣、大正12年(1923 68歳)9月〜12月、第2次山本内閣の逓信大臣兼文部大臣、大正13年(1924 69歳)6月〜翌14年5月、加藤内閣の逓信大臣などを歴任しました。
 また、中国 辛亥革命(1911 明治44年)の前後には、孫文ら辛亥革命の指導者たちを支援し、親交を深めました。

 政友会総裁・首相時代
 昭和4年(1929 74歳)10月、政友会総裁に就任し、昭和6年(1931 76歳)12月内閣総理大臣に就任、犬養内閣を組織し、満州事変の収拾にあたりましたが、軍国主義の高まる中で、翌昭和7年5月15日、首相官邸に海軍青年将校らが侵入し、彼らの凶弾に倒れました(5・15事件)。この犬養首相の死で第二次世界大戦前の政党政治に終止符がうたれました。
 青年将校たちに「まあ、靴でも脱いで座れ、話せばわかる」と言い、被弾後駆けつけた女中に「今の若いもんをもう一度つれてこい。話してきかせてやる」と言ったのはあまりにも有名です。

総理大臣
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木堂年譜
年代
安政2 1855 4月20日備中国庭瀬村川入に生まれる
万延元 1860 父から四書五経の素読を受ける
慶応元 1865 犬飼松窓の三餘塾に入り経学を修める
明治元 1868 8月父が病死、翌年自宅で塾を開くが、間もなく倉敷に行く
明治5 1872 小田県庁に勤務
明治8 1875 7月上京。湯島の共慣義塾に入学。翌年、慶応義塾へ転学
明治10 1877 郵便報知新聞の従軍記者として西南戦争に派遣され、「戦地直報」を発信
明治13 1880 慶應義塾を卒業直前に退学。8月「東海経済新報」を創刊
明治14 1881 7月統計院権少書記官に就任するが、10月大隈重信の下野とともに退く
明治15 1882 4月立憲改進党の結成に参画。5月東京府会議員補欠選挙に当選
明治16 1883 4月「秋田日報」主筆として秋田に赴く。11月帰京して郵便報知新聞に復す
明治18 1885 郵便報知新聞を辞し、朝野新聞に入社
明治23 1890 7月第1回衆議院議員選挙に岡山県第三区から立候補し当選(以後連続19回当選)
明治27 1894 4月中国進歩党を組織
明治29 1896 3月進歩党を組織
明治31 1898 6月憲政党を組織。10月大隈内閣の文部大臣に就任。憲政党分裂後、憲政本党に属す
明治36 1903 大石正巳と中国、朝鮮半島を訪問
明治40 1907 11月中国訪問(翌年1月帰国)
明治43 1910 3月立憲国民党を組織
明治44 1911 孫文らの辛亥革命援助のため、中国に渡る
大正2 1913 憲政擁護運動で尾崎行雄とともに先頭に立ち活動、「憲政の神様」と称される
大正11 1922 11月革新倶楽部を組織
大正12 1923 9月第2次山本内閣の逓信大臣兼文部大臣に就任。関東大震災の復興に力を注ぐ
大正13 1924 6月護憲三派内閣(加藤高明内閣)の逓信大臣に就任
大正14 1925 5月普通選挙法公布の後、革新倶楽部と政友会を合同させ、大臣及び議員を辞職。政友会長老に推される。7月補欠選挙で再選され、余儀なく受諾する
昭和4 1929 6月中国の孫文移霊式に参列。10月政友会総裁に就任
昭和6 1931 12月内閣総理大臣(第29代)に任命され、犬養内閣を組閣
昭和7 1932 5月15日首相官邸で凶徒に襲われ、同日夜半死去
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