私が千歳小学校4年その頃国を挙げて高度成長期に突入、小学校では
初めての海水浴に、学校を上げて生徒に参加を呼びかけていた時でもあります。
建設業に携わっていた親父は、1~2ヶ月に1回帰ってくる程度で、母と弟の恵、
やっと学校に入る下の弟均の生活でした。
その頃、病気で死にそうな豚の子供を母が貰ってきて、クレゾールで消毒をして、
持ち直した豚が大きくなり夏はリヤカー、冬はそりで豚のえさの残飯を集めるのが、
下の弟との仕事であった。
その日私は母に言った。「今日は学校休みだから、母さんと遊べるね」母は
「今日は豚の堆肥を、畑にもっていかなきゃならないんだ、ヒロシ手伝ってね」
と言われ、「エーやだな臭いんだもの」母は「臭いから美味しい野菜が出来るん
だよ、お前がヤダって言ったら恵(下の弟)も嫌がるでしょう」そう言われると、
何も言えなくなる自分でした。
「じゃあ早く終わらそう、昼になると暑くなってもっと臭くなるから」そう言って
30分もすると、リヤカーに堆肥を載せて家の前を歩き始めてすぐでした。
下を向いて一生懸命リヤカーの後ろを押している私の横をバスが通りかかりました
バスの上から「あっ桑原だ、豚の肥やし運んでるぞ!」
母はびっくりして顔を上げ、先生の顔を見て何度も何度も頭を下げるので。
私はいつのまにか泣き出していました。
「ヒロシ、ヒロシみんなバスに乗っているよ、今日休みだよね」そういう母の顔が、
声が憎らしくてなおさら大声で泣く私でした。
家へ帰って母が「どういう事か説明しなさい」と怒鳴る声にしゃくりあげながら、
学校で始めて、全生徒が臨海学校で海水浴に行った事、先生から「桑原だけが行かない」と
何度も言われたが、家には金がないのでバス代やまして、海水パンツを買ってくれとは
言えなかった事を泣きながら話しました。
最後まで聞かないうちに母は畳に突っ伏し、「なんて情けない、いくらお金がないと
言ってもそれ位の金はある。金がないからって、なにも母さんに言わないお前にして
しまった事が悔しい」と何度も何度も「ゴメン」を繰り返す母でした。
その日みんなでラーメンを取って「美味しいね」「ウンすごくうまい」と笑いながら、
久しぶりのご馳走にご機嫌な夜になりました。
そして「母さんゴメン」と言った僕に、笑いながらこぶしで小さく頭をゴツンする
母さんを思い出します。