「危うく殺されそうになった」墨田区役所発行『関東大震災体験記録集』1977年

斎藤 大作 79才(被災地 本所区小梅業平町4)

 

私は当時、母や妻子を南伊豆に残し伯父が経営する造船所を手伝っていた。

  (中略)

須崎原へ逃れるつもりで歩き出したが、その方向も真赤に空が染っているので方向をかえ人家の無い方へとさまよううちに鉄道線路に出た。そこで一安心、線路上なら人家とも離れ地割れの心配ないと考え一途にこの線路上を伯父の家族と東に向って歩いていった。着いたのが四ツ木で、四ツ木橋のふもとでは外国人が背中を日本刀で縦に切られて両手をついて呻いていた。 

時刻も夕方で如何せんと戸惑っていると土地の自警団の人に小学校に避難民みな収容されているとの声を聞き、その小学校へたどりつき一夜を明かした。

東京の空は赤くほてっていた。その夜は外国人が押し寄せて来るとの噂さに自警団を組織して一時間交代、徹夜で日本刀や竹槍を持って又避難者は棒切れを持って警戒した。夜明けと共に伯父一家は柴又へ避難し私は焼跡を一応見定めに戻った。

道々外国人の死骸が道端の溝に。果して放火したのだろうか又井戸に毒を入れたのか実に疑わしい。しかし警察でも念のため確めるまでは井戸水を飲まぬ様注意書が出ているので喉が乾いても無暗に水が呑めない。やっと住いや工場の焼跡を見廻った。

業平橋の近くでうちの職人三人と会い無事を喜び合い、柴又へ急いだ.四ツ木橋を渡った少し下の百姓小屋に私の従兄弟の三人兄弟が避難しているのと出合い、自分も始めての土地で道程もわからないので今夜一晩泊めてくれる様頼んだところあっさり断られた。

立腹しながら鉄路を頼りにしばらく歩くと深い谷底様な所に鉄橋があって一本一本枕木を目で拾いながら、目が眩みそうになるのを一生懸命になってやっと向岸にたどり着いた。ほっとして歩くうち銃を持った自警団の青年二名に止められ、自警団本部へ連行された。そこは田圃の中の一固まりの森の中に祠があり、左側に小さな池があってその池の緑に立たされた。自警団の若い連中は皆竹槍や木刀を持ち、それをつき付けられ身動きも出来ない。何と説明、弁解しても外国人だといって承知しない。私もこの時ばかりは観念した。折角火の中を生き延びて来たのに今此処でむざむざ殺され路傍に無惨な屍を晒すのかと観念したら、すーっと気が静まると同時に故郷に在る母や妻子の顔が目瞼に浮び色々な事が走馬燈の様に渦巻き、過去の事を一瞬の中に連想するのだった。自分も二十七才の男盛りを無惨に殺されてなるものか、誰でも先に手を出した奴の喉笛に食いつくかして冥土の道連れにしてやろうと覚悟して右手のペンを握りしめた。折もよし軍隊が来たとの声、私は逆に銃殺かと観念した。騎兵が二騎来て「私刑はいかん。軍へ渡せ」と。私は両手を縛られ、馬の後から引張られる様に二、三町程来たかと思った所で質問二、三、最後に教育勅語をやりかけ「宜しい気の毒だった。早くここを難れなさい」と縄を解いてくれた。私は再生の想いでその場を去った。

   (後略)

 

追悼する会編『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(1992年)より

 

゙仁承

「四つ木橋を渡って一日の晩は同胞14名でかたまっておった。そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつなぎに結わえて言うのよ。『俺たちは行くけど縄を切ったら殺す』って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。

翌日の5時ごろ、また消防団が4人来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私らは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。」

 

青木(仮名)

たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね。荒川駅の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪を持って来て組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。大きな穴を掘って埋めましたよ。土手のすぐ下のあたりです」

 

井伊(仮名)

「荒川駅の南の土手に連れてきた朝鮮人を川のほうに向かせて並べ、兵隊が機関銃で撃ちました。撃たれると土手を外野(そとや)のほうへ転がり落ちるんですね。でも転がり落ちない人もいました。何人殺したでしょう。ずいぶん殺したですよ。私は穴を掘らされました。あとで石油をかけて焼いて埋めたんです。いやでした。ときどきこわい夢を見ました。その後一度掘ったという話を聞いた。しかし完全なことはできなかったでしょう。今も残っているのではないかなあ」

浅岡重蔵

「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路直上に並べて石油をかけて焼いたですね。そして橋の下手のところに3ヶ所ぐらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていた。

2〜3年たったころ、そこはくぼみができていた。草が生えていたけどへっこんでいた。きっとくさったためだろう。ひどいことをしたもんです。いまでも骨が出るんじゃないかな。兵隊がトラックに積んで、たくさんの朝鮮人を殺したのを持ってきました。そう、河原で殺したのもいます。ふつうのなんでもない朝鮮人です。手をしばって殺したのも日本人じゃなくて朝鮮人だと思ったね。

むこうを向かせておいて背中から撃ったね。軍隊が機関銃で撃ち殺し、まだ死なない人は、あとでピストルで撃っていました。水道鉄管橋の北側で昔の四ツ木橋寄りに大きな穴を掘って埋めましたね.死体は何百だったでしょう。本当に ひどいことをしたもんです」

 

大川(仮名)

22〜3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四ツ木橋の下流の土手下だ。西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。1挺か2挺の機関銃であっというまに殺した。それからひどくなった。四ツ木橋で殺されたのはみんな見ていた。なかには女2〜3人いた。女は・ひどい。話にならない。真っ裸にしてね。いたずらをしていた。朝鮮人を連れてきたのは向こう岸(葛飾側)の人だった。寺島に連れていかれる前に四ツ木橋の土手下で殺された。兵隊は震災から2〜3日してきたが、歩きで騎兵ではなかった」

 

田中(仮名)

「1個小隊くらい、つまり20〜30人くらいいたね。2列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。2列横隊だから24人だね。その虐殺は2〜3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。

朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち会いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ。それは何回にもおよんでやった。だから四ツ木橋のところを掘っても骨は出ないですよ。自分は防護隊に所属していたため、憲兵隊といっしょに何回も立ち会っているから知っている。大震災の騒動の時は、青年団の役員をしていた関係で憲兵隊がずいぶん家に来ていろいろ聞いていた。このあたりには朝鮮人がけっこういた。彼らの素行、日常の行動はどういうふうかずいぶん調べて歩いていた」

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                           

 

 

↑ 旧四ツ木橋

大正11(1922)年架橋

昭和44(1969)年廃止

(出典:『区制40周年記念・墨田の

今昔展』すみだまつり実行委員会・

墨田区文化観光協会)

 

← 警視庁『大正大震火災誌1925年

寺島警察署報告より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

篠塚さんは、事件について手記と地図を残して下さった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「震災の惨状を詠む」

墨田区役所発行『関東大震災体験記録集1977年

浦辺政雄 69才   (被災地 本所区長岡町)

 

〇 我が記憶衰へぬまに震災の証言を歌にと夜更け書き次ぐ

〇 目も鼻も唇咽喉も乾き果て火のなき道に脱れ出でにき

〇 焼水死幾千漂ふ墨田川茫然として佇ちつくし居き

〇 理由なく殺されていく人々を我が瞳の前に50余人見つ

 

ああいうことは繰り返しちゃいかん

 

浦辺さんには1984年に初めて話を聞いて以来、現地調査をお願いしたり、追悼式に列席していただいた。被服廠跡や小名木川ぞいに見た証言や思いを残して下さった。

当会編『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』に、多くの証言を掲載させて頂きましたが、その一部を紹介します。

 

「墨田区が関東大震災体験記を募集して、短歌を出した事があります。そうしたら、朝鮮人虐殺にかかわる歌はすべて載らなかった(下の3首)。だけど、ああいう非常事態が今後起きないとも限らない。そのときに、ああいうことは二度と繰り返しちゃならないと、自分が生きてるかぎり、皆さんに真実を訴えたいと思って、でしゃばるようですがね、話すんです」

 

 

○ 抗はぬ朝鮮人に打ち落ろす鳶口の血に夕日照りにき

〇 虐殺を逃れし幾千の朝鮮人護送さるるを我が見送りし

○ 朝鮮人社会主義者を震災の非常事態に殺せしは誰か 

 

 

 

水野明善著『浅草橋場・すみだ川

1986年・新日本出版社)より引用

 

解説この本は著者の自伝であり、遺作。水野明善は1917年浅草の橋場(はしば)生まれ。父親の水野一善は震災の年の始めには、のちの特高、当時の高等警察官になっていたが、震災当時は弟の急死で橋場の窯業を継いでいた。浅草の有力者で警防団長でもあった。(のちに浅草区議に)。

「敗戦の年をさかのぼること23年。1923年9月1日 。

生家の浅草橋場から北東へ約2キロ半、隅田川をこえて、荒川放水路にかかる旧四ツ木橋の西詰。その夜半、わが家の方向にあたる向島側から人々の異様なけたたましいばかりのざわめきが近づいてきた。私は極度の疲れでぐっすり眠っていた。目がさめた。疲れと興奮とでウトウトしていた。荒川の河川敷に橋桁をたよりに蚊帳を吊って、その蚊帳ばりのなかで息をこらす私たち、母と生後十日足らずの末妹・秀子、そして6歳になる私。母子にはその異様の極限ともいうべきざわめきが何を意味するか、まったく見当がつかない。

 我が家の家の方、向島側、西南方向は褐色を帯びた紅蓮の炎におおわれている。

 阿鼻叫喚ともいうべきものがけたたましさに変わった。我々の頭上あたりまで迫ってきた。その阿鼻叫喚がいくらかおさまったと思われた時、母がマッチをすった。マッチを上下左右させた。押し殺したギャッという叫びが母の口を辛くもついて出た。

《血よ、血よ》。私の目はパチッと開いた。母はも1本、もう1本とマッチをつけた。橋上から滴り落ちる液体が蚊帳を伝わる。赤褐色。血だ。私には、阿鼻叫喚のなかに《アイゴー》《哀号》 と泣き叫ぶ声がまじっていようなど、聞きわける分別などあろうはずもなかった。やがて蒲団の上の白い毛布に、はっきりその血痕が印されている。私はただただ震えおののいた。母も私の両手をにぎり、やがて上半身をしっかり抱きしめ、身震いが止まらない。その身震いが、そのまま、私に伝わった。

生涯、私が母に暖かくも冷たくも抱かれた記憶は、この時、ただ一度だけである。

やがて、暫くして父がもどってきた。

《おい、津る、明善はどこだ?》 ・・・ 《やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって。まだ油断ならん。いいか、元気でがんばるんだぞ。》

そういうなり向島側に駆け戻っていった。炎を背に父のシルエットが鮮やかだった。

6歳の私の耳には“鮮人”の意味も“アカ”の意味も当然わかりっこなかったが、ただ、蚊帳のなかの白布にたれた赤い血の色が連想されて、‘アカ’と父が云ったことだけは鮮烈に記憶に残っている。」   (中略‥・避難時の回想。1日夕方避難を開始。白髭橋を渡り向島方面へ)「ようやくのことに、まだ木橋であった四ツ木橋西詰の土手にたどりついたのは、日がくれようという一瞬のことであった。河川敷に車をおろし、橋桁下に蚊帳をつり、その蚊帳のなかに身を横たえた。父だけは飛び出していったきり、戻ってこない。かなりたって、血走ったような父が、一度戻ってきた。そして云ったそうだ―というのは、この記憶は私になく、後年母から聴いたもの―、《覚悟しておけよ。これから凄じいことが起るが、決して取り乱すな。》 こう父は云って向島側に走り去った、ということである。

そして、あの阿鼻叫喚、赤血のしたたり。

四ツ木橋下での恐怖の一夜、非人道そのものといえる一夜をへて、翌朝、渡った四ツ木橋の所々方々に見受けられた血塊が無残であった。」

 

               目次へ