当時の新聞報道にみる、
旧四ツ木橋朝鮮人犠牲者の遺骨のゆくえ
1923(大正12)牢9月1日に震災発生後、戒厳令のもとで亀戸警察署では多数の朝鮮人や中国人が殺害されたほか、習志野騎兵連隊が平沢計七(労働運動家)ら10名と砂町の自警団員4名を殺害している。朝鮮人虐殺の報道禁止が不十分ながら解除されたのは10月20日だが、それ以前からこれら日本人殺害事件(「亀戸事件」と報道された)は報道され、遺族・労働組合・弁護士らの追求もあって新聞各紙が続けて記事にした。
東京の朝鮮人虐殺事件はほとんど報道されていないが、荒川放水路の旧四ツ木橋周辺の朝鮮人犠牲者だけは同じ場所に「亀戸事件」犠牲者を埋めたと亀戸警察署長が話したことから、亀戸事件報道の中に散見する。
*注:記事の漢字・送りがなは現代風に改め、読点を加えた。
同年10月14日の『時事新報』は、現場を「京成電車荒川停留所で乗り捨てて右にちょっと折れると、長い四ツ木橋が白けた胴体に秋の陽を受けて淋しく目につく。・・・その四ツ木橋から右手に約一丁土手にそうて行くと・・・ここが今世間の注目を惹く亀戸署で軍隊の手に殺された主義者等十名と自警団員四名の投棄死体を埋めた場所だ」と報道。左下の写真は検事の視察。
10月14日自警団員遺族と布施辰治弁護士は古森亀戸警察署長と対座した。記事の中で、「警察側では死体は荒川放水路堤防において焼死溺死者や○○死体百余名と共に火葬しているからどれが誰の遺骨ともわからぬ」と答えた。伏せ字○○は当時の朝鮮人の蔑称「鮮人」だろう(1923年10月15日『報知新聞』「判らぬ骨は受取らぬ」)。
左の10月21日『読売新聞』の、「戦場の如き江東 平沢氏等と共に焼いた〇〇〇〇体百個 古森亀戸署長談」の中で、9月2日から5日までの亀戸署の検束者720名中400名は朝鮮人で、「自警団員‥・四名、南葛労働の平沢外九名と共に投棄した百名余の死体中にはこれら〇〇〇〇く」と伝えている。伏せ字は「鮮人数多」くか。
その後日本人遺族等が遺体を引き取ろうとした。
11月13日の『国民新聞』では、平澤以下の遺骨引取 きょう弁護士連付添で」の記事で、「…荒川放水路付近の野原には既報の如く百数十名の鮮人遺骨が山積して居る始末なので、之等の遺骨の中から一々撰り分けて拾い上げるので手順がナカナカ複雑になる」ため弁護士が総督府出張所の立ち会いを求めたところ、「朝鮮人の遺骨は亀戸ばかりじゃない。諸所にあるから特に一カ所ばかり引取る訳にはいかぬ」と言う返事だったと報道している。
そして現場に遺族等を近づけまいと、11月12日と14日の少なくとも2度、憲兵・警官が警戒線をはる中、旧四ツ木橋下手から多数の遺骨が運び去られた。
11月14日の『国民新聞』は、13日遺族等が遺骨引き取りの立ち会いを求めに亀戸署に寄ると、古森署長より「遺骨は昨夜(12日)掘り出して署に安置してあるから、ここから引き取ってくれ」と言われた。遺族大会後「死体を投棄された荒川放水路四つ目橋堤防下」(四ツ木橋の誤り)に急行してみると、20余名の警官20数名の乗馬憲兵が警戒し遺族も寄せ付けなかった。
11月14日『報知新聞』「骨も掘れずに遺族引き還す 亀戸事件死体遺棄の現場は憲兵や警官に守られて」も同じ状況を伝える。上の写真の奥は旧四ツ木橋か。
二度目の警官等の遺体発掘は11月14日だった。
11月15日『国民新聞』「又も荒川放水路で 死体発掘の怪行為」は、「十四日午後一時より平澤等を埋めた現場である、荒川放水路四ツ木橋下半町の付近三カ所に現に埋めてある死体をまたもや発掘して何れへか搬入した」と報じる。亀戸署高等係警部補以下巡査十九名が人夫に変装し、寺島署の警官六十名が四ツ木橋上から一間おきに警官線を張っての発掘だった。遺体は十三個の棺にまとめられ、トラック三台で運び去られた。
11月16日『読売新聞』は、日本人14名の遺族の抗議に、「『刺殺されたことは天下周知の事実で今更その惨状やその場所で骨を掘るため、他の百数十名の骨をかき回すことは忍びないことだ』というのが警視庁側の言い分」と記す。
11月16日『時事新報』は、「平澤計七氏等の骨と共に、荒川放水路土手下に埋められた遭難鮮人数十名の死体は、別項の通り警視庁白上官房主事の命令により改葬手続をした上、十四日に発掘してしまった」と報じる。
さらに、11月20日『東京日日新聞』では、「惨殺死体全部を処分した小松川町役場吏員の証言により、荒川放水路の埋葬現場には日本人の死体は一つもなく総て鮮人のみ」と報じる。
同日付の『国民新聞』でも、「鮮人の骨だと証人が出て又騒ぐ 平澤等のではないと掘った人夫が証言」と、右のように同
様の記事がある。
朝鮮人犠牲者の埋葬先について、警視庁は「日鮮親善」のため日本人との合葬を主張し、総督府は朝鮮人のみでの埋葬と見解が分かれていた。11月18日の『国民新聞』では、寺島の共同墓地に日本人朝鮮人ともに仮埋葬中で、正式な朝鮮人遺骨の埋葬先について、鶴見の総持寺、被服廠跡への合葬などがあがっている。この後、追跡報道はとぎれ、遺骨の行方はわからないままである。
最後にガリ版刷り内部資料、「極秘 震災当時ニ於ケル不逞鮮人ノ行動及被殺鮮人ノ数之ニ対スル処置」(朝鮮総督府警務局『大正十二年十二月 関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル状況』所収 *注1)を紹介したい。
この(2)は殺害された朝鮮人数として248人(内務省調査1923年10月22日)とし、政府調査として知られる司法省調査233人(同年11月15日付。注2)をあげていないので、10月22日から11月15日の間に、書かれたものではなかろうか。
注目したいのは、犠牲者の遺体処理方針を示した「(3)処置」である。三・四はセットで、「被殺者」の姓名がわかり遺族が申し出れば遺骨を引き渡すが、遺族以外には渡さない趣旨である。
では、「被殺者」の姓名や遺族がわかるよう努力することに力点があるかといえば、二「遺骨は日本人朝鮮人と判明しないよう処置する」・五「(加害者が)起訴された事件で、朝鮮人に被害あるものは、速やかにその遺骨を不明の程度に始末する」方針だった。これでは「未だ遺骨引渡を申し出たる遺族なし」は当然である。
私たちは各新聞報道で百〜百数十人とされる朝鮮人犠牲者の遺体が、荒川・旧四ツ木橋下手にあったこと、厳しい警戒の下で少なくとも二度にわたりまとめて運び去られた経過を追ってきた。旧四ツ木橋での遺体発掘は、このような日本政府の朝鮮人虐殺事件の証拠隠滅方針があり、かつ亀戸事件犠牲者遺族らが遺体発掘を試みようとしたため、運び去るまで徹底して行われたのだと考える。
私たちが主に調査・聞き書きをしてきた東京の南葛飾郡西部でも、朝鮮人虐殺犠牲者の正確な人数には言及できない。が、加害者は民間人のみとする司法省調査の犠牲者233人、うち「四ツ木橋付近」2件3人、「吾嬬町荒川放水路堤防」1件1名(殺人未遂1件1名)のみとする数字は余りに少ない。この数は衆人環視の中で行われた軍隊による殺害は不問にしつつ、起訴し公判が維持できたのがこれだけだったと理解するべきと考える。
注1:琴秉洞編・解説『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料 朝鮮人虐殺に関する植民地朝鮮の反応』緑蔭書房、1996年所収。原本は国会図書館憲政資料室 斉藤実文書。
注2:司法省「震災後に於ける刑事事犯及び之に関連する事項調査書 祕」、姜徳相・琴秉洞編・解説『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年所収。原本は後藤新平文書:未確認。
【お詫び】当会が2008年9月に発行した『共に生きる明日のために』パンフレットに、2カ所誤りがあった。一つは11月14日と紹介した『時事新報』記事は、10月14日が正しい。また、11月14日『報知新聞』記事の紹介後、「京成線鉄橋か」と記したのは、「四ツ木橋木橋
」が正しいと思われる。今回このホームページで訂正した。