特集:ひたちの桜は大煙突とともに


市内に14,000本を超える市の花、桜。日本さくら名所百選に選ばれている「かみね公園・平和通り」をはじめ、4月上旬から、市内一円を美しく彩ります。
 その「桜」には、市民と日立鉱山とが手を取り合い、市民・企業の共生の原点となった物語が秘められています。
 今号では、「桜」にまつわる歴史を紹介するとともに、その歴史を基に描かれた新田次郎の小説『ある町の高い煙突』の映画化などについてお知らせします。


日立鉱山の創業

 
日立鉱山が創業する前の鉱山は「赤沢銅山」と呼ばれていました。佐竹氏がこの地域を治めた江戸時代以前から約300年を越える歴史があるとはいえ、規模的には地方の群小鉱山の一つに過ぎませんでした。
 1905(明治38)年、久原房之助(くはら ふさのすけ)が赤沢銅山を買収、村名の「日立」からとって「日立鉱山」と改称し、近代的な鉱山の経営に乗り出しました。
(写真は本山採鉱所の本鉱入り口)

鉱山の発展と煙害の深刻化

 日立鉱山は、当時の最新技術を使った探鉱により、鉱床を次々と発見。銅の埋蔵量の豊かさを確信した久原は、他鉱山の鉱石を買い入れて製錬することを視野に入れた、大規模製錬所を天童山大雄院の寺域に1908(明治41)年に建設し、1912(大正元)年までに合計10座の溶鉱炉を完成させました。
 しかし、日立鉱山が発展する一方で、排出される煙の量が増加。周辺地域の農作物や草木が枯れるなど、銅鉱山の技術的宿命であった煙害が発生しました。
 周辺住民に対する補償は、会社の誠意ある対応によって初めは順調でしたが、入四間(いりしけん)など、製錬所に近い集落における被害は深刻を極めました。

農事試験場の設置

 
日立鉱山の庶務課長であった角 弥太郎(かど やたろう)は、煙害などの問題を地元とともに解決する組織である地所係を設置しました。
 さらに、1908(明治41)年、伊豆大島の噴煙地帯にオオシマザクラが自生することに着目した角は、鉱山の社宅周辺でオオシマザクラの試験植栽を行いました。
 また、試験研究機関として、1909(明治42)年に農事試験場を設置しました。この試験場は、煙と植物の間の因果関係を探り、適正な補償に役立てるとともに、優秀な耐煙性植物の開発や苗木の育成などに大きな役割を果たしました。
(写真は村松村(現東海村)の農事試験場)

大煙突の建設

 
一方、久原は高い煙突により煙を高空へ拡散させることを考えます。
 久原は火山が高く煙を噴いてもさほど煙害をもたらさないことと、日立鉱山の前に携わった小坂鉱山での経験から、煙突を高くすれば、悪天候の場合を除いて、煙はほぼ地面に降りることなく空中に拡散すると確信していました。
 しかし当時、煙害を軽減する最良の方策は、「煙をできるだけ希釈し、低い煙突から排出して、狭い範囲にとどめること」であると、学者・政府・業界の全てが信じていました。久原は、部下の反対論を退け、政府を説得し、「日本の鉱業発達のための一試験台」として、大煙突の建設に踏み切りました。
 1914(大正3)年12月20日、当時世界一の高さである「155.7メートルの大煙突」が完成しました。
 翌年3月、大空に煙が吐き出されると、製錬所周辺にたれこめていた煙が消え、これを目にした角は後に「手の舞ひ足の踏むところを知らぬ喜び」と感激を表現しています。その後、大煙突と下記制限溶鉱の対策があいまって、煙害は激減しました。(写真は建設中の大煙突)

鉱山による植林と苗木の無償配布

 農事試験場では、煙害に強い樹木の研究が続けられ、オオシマザクラなどの苗木育成にも成功していました。1914(大正3)年に農事試験場で栽培したオオシマザクラの苗木は、約120万本と報告されています。
 大煙突建設によって煙害の状況が一変すると、角はただちに自然環境を回復させるために、オオシマザクラ、ヤシャブシ、スギ、ヒノキ、クロマツなどの植林を開始しました。およそ18年にわたる植林の面積は延べ1,200町歩(約1,190ヘクタール)に達し、植えられた苗木は、500万本を超えます。そのうちオオシマザクラの植林面積は合計595町歩と報告され、260万本が植林されたと推測されます。
 日立鉱山による植林とともに、周辺地域の希望者に対する苗木の無償配布も大規模に行われました。1915(大正4)年度の日立村ほか17か村に対する29万本の配布をはじめ、1937(昭和12)年までの23年間に、約500万本の無償配布が行われました。そのうちオオシマザクラの苗木は72万本におよびます。
260万本のオオシマザクラっていったいどれくらい・・・

およそ1キロメートルの道のりにソメイヨシノが約120本植えられている平和通りで換算すると・・・。
2,600,000÷120≒21,666.66666…
平和通りの約21,700倍、つまり距離にして約21,700キロメートルになります。
これは日立市からアメリカのニューヨークまで(10,714キロメートル:Google調べ)を往復できてしまう距離なのです!


さくらのまちひたちへ


 オオシマザクラの苗木がうまく育つようになると、農事試験場の担当者は、この苗木にソメイヨシノの苗を接ぎ木して、大量の苗木を作りました。角はこの桜の美しさに着目し、1917(大正6)年頃、社宅や学校、道路、鉱山電車線路(大雄院〜現在の日立駅付近)沿いなどに約2,000本の桜を植えさせ、これが市内の桜の原点となりました。
 日立市の桜は、その美しさの背景に、地域の煙害克服の歴史と、環境回復への悲願のもとに懸命に努力を重ねた人々の歴史が秘められているのです。(写真はオオシマザクラ)

煙害解決のキーパーソン

久原 房之助(くはら ふさのすけ)(1869-1965)

鉱毒水騒ぎで経営が安定していなかった赤沢銅山を1905(明治38)年に買い受け、日立鉱山として創業。新しい技術を導入して、短期間で四大銅山の一つに数えられるまでに発展させた。煙害問題が表面化し一時は経営の重荷になったが、1914(大正3)年の大煙突築造、気象状況により操業を調節する対策などでこれを見事に乗り切った。

関 右馬允(せき うまのじょう)(1888-1973)

新田次郎の小説『ある町の高い煙突』の主人公のモデル。1911(明治44)年、23歳という若さで、入四間の住民代表「入四間煙害対策委員長」となる。補償交渉にあたり、被害の実態を調査・研究した上で要求案を提出、また鉱山側とともに被害の実測や農業技術向上に積極的に協働するなど、公平かつ平和的な解決に奔走した。

角 弥太郎(かど やたろう)(1870-1967)

日立鉱山側の煙害対策の中心人物。日立に着任する前、小坂鉱山で煙害を経験。自分の使命は煙害問題の解決にあると覚悟していた。「煙害による損害は、鉱業主が進んで賠償の責を果たさなければならぬ」という基本方針を立て、地元との共存共栄を理想として交渉にのぞみ、被害者側との信頼関係と交渉のルールを確立した。

煙害克服への試行錯誤

神峰煙道(百足(むかで)煙道)


製錬所の煙は、はじめ八角形れんが造の24メートルの高さの煙突から排出されていた。その後、煙害に悩み、1911(明治44)年に長さ約1,600メートルにおよぶ、神峰山の山腹をうねうねとはい上がる百足煙道を築いた。これは、途中の十数か所に、排煙口を設け、分散排煙するもので、日立鉱山の技術者たちの苦心の産物であったが、失敗に終わった。

だるま煙突(阿呆煙突)


1913(大正2)年には、政府の命令により、煙を空気で希釈してから排出する煙突を造ることになり、高さ36mメートル、直径18メートルの煙突を完成させた。
内部に6基の卵型の煙突を抱え込んだこの煙突は、政府の指示する基準を達成したにも関わらず、かえって煙害が激化してしまったことから、阿呆煙突とも呼ばれた。

制限溶鉱


角は、気象や作物の状況、煙の方向などを判断して炉の操業率を変え、排煙の量をコントロールすることで煙害を低下させる方法を提案。万難を排して実行に移した。この制限溶鉱は、神峰山測候所を中心とする気象観測網の成果を反映させつつ、戦後まで続けられたが、溶錬鉱量の増加とともに激化する煙害を防止するには至らなかった。

新田次郎の小説 『ある町の高い煙突』の映画化が進んでいます

 新田次郎氏の小説『ある町の高い煙突』の映画化が、今年の年末から来年年明け頃の公開を目指して進められています。
 この映画化に取り組む松村克弥監督や、映画『ある町の高い煙突』を応援する会の原田実能(はらだ みのう)事務局長に、この映画や、大煙突と桜の歴史に対する思いを聞きました。

さくらのまち日立市の原点 小説『ある町の高い煙突』
日立鉱山の煙害を克服し、その象徴として「さくらのまち」日立市の礎を築いた情熱あふれる人物像を描く
*小説は、吉田正音楽記念館、日立駅情報交流プラザ「ぷらっとひたち」などで販売中です。また、3月中旬から書店でも取り扱われる予定です。



INTERVIEW

映画化されていない傑作、当時を生きた人間像を描きたい

映画「ある町の高い煙突」 松村 克弥 監督
 
トークフォーラムやエキストラ・オーディションにたくさんのかたが参加してくださり、日立の皆さんのこの作品、そして大煙突に対する熱い思いを実感しているところです。
 実は私の母は日本鉱業の東京本社でキーパンチャーの仕事をしていたことがあり、まさか自分がこの作品に監督として関わることになるとは・・・。本当に不思議な縁を感じます。
 新田次郎さんの小説では「八甲田山」や「劔(つるぎ)岳」などが映画化されていますが、「ある町の高い煙突」はまだ奇跡的に映画化されていない傑作だと思います。
 非常にドラマチックな作品であり、すばらしい脚本もできています。
 描きたいのは、当時を生きた人たちの人間像。農村に生きる青年たち、鉱山の経営者たちの葛藤。そして最後には両者が手を取り合って煙突をつくるという実話をベースにした奇跡の物語です。
 今年の年末から来春の公開を目指して鋭意作業中です。ぜひ公開を楽しみにしていてください。

撮影に先駆けて、トークフォーラムとエキストラ・オーディションが行われました

 映画の撮影に先駆け、昨年11月11日にトークフォーラム「私の中の『ある町の高い煙突』」が開催されたほか、今年の2月3日には、映画のエキストラ・オーディションが行われました。どちらも予想を大きく超える来場者・参加者が訪れ、この映画への期待の高まりが伺えました。オーディションの参加者からは、「大煙突を見ながら育った」「地元の映画なのでぜひ応援したい」などの声が聞かれました。
 
   トークフォーラムの様子      エキストラ・オーディションの様子



INTERVIEW

100年も前の先人たちが残してくれた、大煙突と桜。
そして、その背景にある共存・共栄の精神こそが日立の誇り

映画「ある町の高い煙突」を応援する会 原田 実能 事務局長
 
映画化の話を監督やプロデューサーから伺ったときに、非常に熱い思いを感じました。私の役割はスポンサー探しや広報活動などがメインですが、映画をきっかけとして、「いいね!」がいっぱいの日立の魅力と魅力をつなげながら、多くの観光客が継続して日立市を訪れてくれるようなまちづくりのカタチを作りたいと考えています。
 角 弥太郎さん(小説の加屋淳平のモデル)は広島県府中市(旧大正村)出身で私と同郷。彼がまちの景観まで考えて植林をしていなければ、今の日立の桜はないと思うと感慨深いです。
 本来であれば煙害の被害者・加害者という相容れない両者が歩み寄り、共存・共栄の精神、そして勇気と忍耐で、まちの存続、発展に寄与したという100年も前のエピソード。
 海や山だけではなく、こうした背景を持つ大煙突や桜があるまちは他にありません。これこそが日立市の誇りなのです。美しさはもちろんですが、私たちが心惹(ひ)かれる、日立の桜の根本にある理念を、この歴史を知らない人たちや大煙突を知らない若い世代、市外のかたを含め、より多くのかたに伝えたい。
 角さんや、あの時代に生きた人たちに恥じないよう、熱意を持って取り組んでいきたいと思っています。

映画に関する情報は応援する会ホームページ
http://www.daientotsu.com/index.html )をご覧ください。
右のQRコードからもアクセスできます。

意外!?あまり知られていない日立の桜

 データによると、市の魅力の一つである「さくら」は、市民にはよく知られていますが、市外のかたには、「かみね動物園」や「海水浴場」などに比べるとあまり知られていないことが分かります。

『日立市の資産認知度』 出展:日立市シティプロモーション戦略

オオシマザクラを見に行きませんか

 「煙害と桜の歴史学習ツアー」と、ふだんは経験できない「海から眺める山々の桜堪能ツアー」を実施します。

(1)大島桜観賞ハイキングツアー

日時 4月14日(土曜日) 8時〜 *雨天中止
内容
Aコース=鞍掛山〜神峰山(往復)
Bコース=鞍掛山〜神峰山〜御岩神社(御岩神社からは路線バスを利用)
*ジオネット日立による「煙害と桜の歴史」などの解説付き。
持ち物=昼食、飲み物、雨具など(動きやすい服装、靴で参加を)
*先着50人
参加料 100円(保険代)

(2)大島桜観賞遊覧船ツアー

日時 4月14日(土曜日) 14時〜 *荒天中止
内容
コース=久慈漁港〜日立沖〜久慈漁港 
持ち物=防寒着、雨具など 
*先着50人
参加料 1,500円(保険代など)

申し込み
(1)(2)とも、3月12日(月曜日)の10時から、申込書(日立市観光物産協会のホームページからダウンロードできます)に必要事項を記入し、
ファックスで、日立市観光物産協会 ファックス 0294-24-7980へ
問合せ 日立市観光物産協会 電話番号 0294-24-7978

大煙突と桜の歴史をもっと知ってもらいたい!
そんな思いから生まれた4コマ漫画を連載中!

その名も・・・
 
だいえんとつくんと、彼に恋するさくらちゃんの物語。
気になる漫画の中身は市公式ツイッター・インスタグラムで!!
    
  ツイッター      インスタグラム
ツイッターのハッシュタグは、「#だいえんとつくんとさくらちゃん」

倒壊後も日立のまちを見守るように


神峰山山頂にある「日立大煙突記念碑」の碑文(抜粋)
平成5年2月19日 大煙突が倒壊した 深い寂寥(せきりょう)感の中にも市民の寄せる惜別と愛着の念は限りない 一企業の範疇(はんちゅう)を超え 常に街の方々の心とともに歩んだ大煙突 その軌跡は永遠に語り継がれるであろう



平和通りの桜から少し遅れて咲く、
日立の山桜。
日立のまちの歴史を振り返ると、
ちょっと誇らしげに見えてきませんか。
大煙突に寄り添うように咲くその姿は、
煙害克服に尽力した先人たちの努力を、
今も静かに伝えてくれています。

映画 「ある町の高い煙突」

日立市や県内で映画の撮影を実施

 日立の大煙突にまつわる実話をモデルとして描かれた、直木賞作家新田次郎さんの小説「ある町の高い煙突」の映画化が決定し、日立市をはじめとした県内を中心に5月から6月にかけ映画の撮影が行われました。
 日立市長も撮影現場に訪れ、監督やスタッフ、俳優の皆さんを激励しました。撮影現場は、緊張感もありつつ、俳優やスタッフ、エキストラのかたがたの会話も弾んでいました。

映画は来春全国で公開予定です

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