郷土博物館の紹介

かみね公園入口
日立市郷土博物館
〒317-0055 茨城県日立市宮田町5-2-22
TEL.0294-23-3231 FAX.0294-23-3230
■常磐自動車道「日立中央インター」から10分
■常磐線「日立駅」からバスで10分、
 「神峰公園口」下車徒歩1分 
催し

日立ふるさと文化少年団団員を募集します

日立の歴史や昔から伝えられてきたものに出会い・ふれあい・体験する少年団に参加しませんか。
 
 
餅つきの様子
ハイキングの様子
そば打ちの様子

        

とき

4月から来年3月まで
*月1回活動。原則、毎月第4土曜日または日曜日の9時〜12時(予定)

ところ

郷土博物館他

対象

4月現在、市内に住んでいる小学3年生から中学3年生までの児童生徒
*定員40人(多いときは抽選)

活動内容

土器作り、そば打ち、まゆ玉作りなど
講師=小・中学校教員、市民ボランティア

料金

年額7,000円(入団時一括納入)
*バス代などが別途かかる場合があります。

申し込み

3月15日(金曜日)(必着)までに、住所・氏名(ふりがな)・電話番号・学校名・新学年・生年月日・性別・保護者の氏名・入団して体験したいことを書いて、はがきかファックスで、郷土博物館 〒317-0055 宮田町5丁目2番22号 ファックス 0294-23-3230 電話番号 0294-23-3231へ

収蔵美術品展 −現代作品を中心に−

 郷土博物館が所蔵している現代美術作品を展示します。
日時
7月18日(土曜日)〜9月27日(日曜日) 9時30分〜16時30分
*入館は16時まで。休館日は7月27日(月曜日)、8月31日(月曜日)
場所郷土博物館2階特別展示室
問合せ郷土博物館 電話番号 0294-23-3231 IP 050-5528-4923


上田薫 《ゼリーにナイフ c》




特集:子ども通信員リポート
古代版ハイウェイ&サービスエリア
長者山遺跡を紹介します
 日立市の北部に位置する長者山遺跡は、教育委員会による発掘調査の結果などから、奈良・平安時代の古代国家の交通政策を知る上で重要な遺跡であることが判明し、本市初の国指定史跡「長者山官衙遺跡(ちょうじゃやまかんがいせき)及び常陸国海道跡(ひたちのくにかいどうあと)」として国の文化審議会から文部科学大臣へ答申されました。
 今号では、長者山遺跡が建てられた目的や当時の遺跡の役割などについて、子ども通信員の3人が取材しました。
INTERVIEW

左から              
郷土博物館 猪狩俊哉 主幹
豊浦小学校 中村春奈さん
山部小学校 樫村彩乃さん
櫛形小学校 高田柊弥さん

長者山遺跡

・所在地:十王町伊師2951番地1 他
・時期:奈良・平安時代
・面積:約30,000平方メートル
 (国史跡の指定対象範囲は約46,000平方メートル)

01 長者山遺跡はどんな遺跡で、いつ頃見つかったのですか?
 長者山遺跡は、平成18年度の調査で発見されたんだ。当時発見されたのは、古代官道、つまり今でいう高速道路と、その道沿いに建てられた役所に関わる建物跡だった。
 そして、その後の約10年に及ぶ調査で、24棟の建物、道路(古代官道)、幅約3メートルの大きな溝の跡や当時の土器などが見つかったんだよ。
 当時の常陸国の状況を記した書物『常陸国風土記』に記載されている他の土地などとの位置関係や、十王町伊師の字名「目島(めじま)」、考古学的な調査の成果などから、長者山遺跡は『常陸国風土記』に記載された「藻島駅家(めしまのうまや)」の有力な候補地と言われているんだ。
 市では現在、この長者山遺跡の保護と活用のため、国史跡の指定を受けようと取組を進めているんだよ。

記事に関する問合せは
郷土博物館 電話番号 0294-23-3231 IP 050-5528-4923

02 遺跡にいた人は、どんな仕事をしていたのですか?
 まずは、「官道」と「駅家(うまや)」について説明をしようか。
 「官道」は、当時の都と地方との間で素早く情報を伝達するために造られた、公的な道路のことなんだ。官道は各地を最短距離で結ぶために、直線的に造られていて、当時の情報伝達の手段としては官道を通るのが、一番速い方法だったんだ。
 そして「駅家」は、官道に約16キロメートルごとに建てられていて、情報を伝える役人が食事や宿泊をしたり、役人が乗る馬を休ませたり、交換したりする施設だったと言われているよ。
 皆が知っている施設で表すと、官道を「高速道路(ハイウェイ)」、駅家を「サービスエリア」とするのが、一番イメージに近いかな。
 長者山遺跡は、この駅家だったと言われているから、馬の飼育・世話をする人や、次の駅家への道案内をする人が働いていたと考えられているんだ。

03 遺跡から都まで、どのくらいで情報が伝わったのですか?
長者山遺跡から、当時の奈良・京都の都までの距離はおよそ600キロメートルあったんだ。
 当時の乗り物で1番速かった馬を使った場合、1日100キロメートル程度移動できたと言われているので、都に到着するまで、だいたい1週間ぐらいか
かったと考えられているんだ。
奈良時代から平安時代の主な官道

04 当時の十王は、どんな様子だったのですか?
 『常陸国風土記』には、県内の駅家の場所や、藻島駅家の近くに囲碁で使う碁石が採れる浜があったことが書かれているんだ。伊師浜海岸には碁石が浦があるよね。また、常陸国がとても豊かな国だとの記述があり、人々にとって暮らしやすい土地だったと考えられているよ。
通信員が長者山遺跡と郷土博物館を見学した様子を紹介します。
遺跡と出土した遺物から感じる千年前の息吹
 子ども通信員の3人は、実際に長者山遺跡と郷土博物館を見学し、
千年以上も前に存在していた建物跡や官道跡を実際に歩いたり、
出土した土器などに触れたりしました。
A 直線的に続く官道
この場所から少し進むと、官道の跡が雑木林の中に、そしてさらに田んぼの反対側まで続いていました。
    官道跡の続き
B 1,100年前の礎石跡
建物の柱を支える礎石が、タテ・ヨコ規則正しく並んでいました。
C 掘立柱建物跡
礎石を使わない建物跡も発見されているようです。

*発掘当時の写真。現在は遺跡の保存のため埋め戻されています。
出土した遺物から、その遺跡の年代や役割が分かるんだって!
遺跡から見つかった土器や瓦、炭化したお米などの「遺物」は、遺跡の年代などを明らかにする重要な手がかり。長者山遺跡の遺物の特徴は、
■文字が書かれた土器や、文字を書くための硯(すずり)などが出土している
■同じ時代の一般的な集落の遺跡と比べて、遺物の出土量がとても少ない
 このことから「遺跡は役所機能を持つ公的な施設跡であった可能性がある」と考えられているんだって。
文字が書かれた土器
出土した遺物に触らせていただきました!
なぜ「長者山」という名前?
「長者」というのは、今でいう「お金持ち」のこと。昔の人がこの土地を掘ったときに、「土の中からお米が出た」「土からお酒の匂いがした」など、不思議なことがあったという逸話が残っていたんだ。
 その逸話から、当時の人たちがこのあたりにお金持ちが住んでいたと考え、「長者山」と名付けたと言われているんだ。
取材してみてどうだった?

同じ道を昔の人が通っていたと思うと、ふしぎな感じがしました


山部小学校5年 樫村 彩乃(かしむら あやの)さん
   6月17日、子ども通信員として長者山遺跡を取材しました。遺跡を実際に見てみると、想像以上にすばらしかったです。
 まず、1,000年以上前の道がはっきりと残っていて、びっくりしました。この道は、「古代官道」と呼ばれる、中央と地方をつなぐ重要な道でした。この官道が使われていたのは、奈良・平安時代のころだそうです。都まで、馬で1週間くらいで着いたそうです。同じ道を昔の人も通ったんだなとふしぎな感じがしました。ほかにも、遺跡には、建物の土台の跡である石がいくつもありました。その石は、たて・横が均等にならんでいて、すごいなと思いました。この建物には、お米などが保管されていたと考えられているそうです。今回、取材に参加して、昔の人の工夫や知恵におどろきました。古代の高速道路とサービスエリアだということがよくわかりました。とてもおもしろかったです。
ぼくが生まれたころに発見された遺跡を、たくさんの人に知ってほしいです

櫛形小学校6年 高田 柊弥(たかだ しゅうや)さん
 父が見せてくれた新聞記事には、長者山遺跡が国指定史跡になるという内容が書いてありました。このときは、なんとなく「すごいことなんだろうな」と思っていました。実際に取材して、一番印象に残った話は、遺跡が発見されてまだ12年しか経っていないことです。もっと前に見つかったのだと思っていたのでおどろきました。次に意外だった話は、見つかった土器などが少ないことです。遺跡の広さは、学校の体育館くらいでした。その中に、建物の柱の跡があり、今でいうサービスエリアのような役割の建物「藻島駅家」があったという話を聞きました。郷土博物館の人はよくこの遺跡を見つけられたなと思いました。長者山遺跡は、奈良〜平安時代の遺跡だそうです。ぼくが生まれたころに発見されたこの遺跡は、これから注目されていくと思います。身近にある長者山遺跡をたくさんの人たちに知ってもらいたいです。
1,000年以上前のみぞやそせきが残っていて、とてもおどろきました

豊浦小学校6年 中村 春奈(なかむら はるな)さん
取材してみて、一番印象に残ったことは遺跡がよく残っていることです。理由は昔あったみぞやそせきが、1,000年以上たった今でも残っていたからです。昔みぞだったところが、今は道などになって残っていたり、柱を支えていた石が少しくぼんで残っていたので、とてもおどろきました。取材に行く前は長者山遺跡は誰かが住んでいた跡だと思っていましたが、となりに海道跡という道路が通っていて、その道路を通る人たちが休む場所だったということが分かり、とても勉強になりました。遺跡を見学した後には郷土博物館に行きました。博物館では遺跡についての展示物を見たり、遺跡から出てきた土器をさわることもでき、とてもきちょうな体験ができました。遺跡の取材でおどろいたことがたくさんあります。このことを今後、より多くの人たちに知ってもらいたいです。
長者山遺跡が郷土の誇りになってほしい
郷土博物館 猪狩俊哉 主幹
長者山遺跡は『常陸国風土記』に書かれた「藻島駅家」の候補地ですが、実は、その他にも約10か所の「風土記スポット」が市内に残っています。村々の男女が酒と料理を持ち寄って遊び楽しんだ「密筑里(みつきのさと)」の「大井(おおい)」は水木町の泉が森、村人を困らせた神が遷(うつ)り鎮(しず)まった「賀毘礼高峯(かびれのたかみね)」はパワースポットとして名高い御岩山がよく知られる所です。
 今回の国指定をきっかけに「古代のハイウェイ」と、長者山遺跡をはじめとした多くの「風土記スポット」が市民の皆さんにとって郷土の誇りとなってほしいと思いますし、その他の文化財にも関心をもってもらえるよう、今後も取り組んでいきたいと考えています。
長者山ガイドツアーにお越しください
〜郷土博物館職員が現地を案内します〜
とき 8月18日(土曜日) 10時30分〜11時30分
小雨決行。荒天の場合は翌日に延期。
中止・延期の場合は当日の8時30分までに電話で連絡します。

  • 現地集合。駐車場に限りがあるため、なるべく乗り合わせてお越しください。

  • 先着30人 
    *9月以降も、月2回程度実施予定です。
  • 申し込み 8月13日(月曜日)の9時から電話で
    郷土博物館 電話番号 0294-23-3231 IP 050-5528-4923へ
    見学はガイドツアーで
    長者山遺跡は、現在、未整備のため、一部で立ち入りを制限しています。見学をご希望の場合は、郷土博物館のガイドツアーに参加するか、郷土博物館に問い合わせてください。

    日立市で初めての国指定史跡

    長者山遺跡が国指定史跡に指定されました

     長者山遺跡が、古代国家の交通政策を知る重要な遺跡であると高く評価されたことから、「長者山官衙(かんが)遺跡及び常陸国海道跡(ひたちのくにかいどうあと)」として、10月15日に、日立市で初めて国の史跡に指定されました。
     長者山遺跡は、旧十王町の文化や歴史について記した「十王町史」の編纂(へんさん)作業中、平成18年度に十王町伊師の愛宕神社境内で発見されました。愛宕神社周辺は「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」にも記されている、奈良・平安時代の人馬の休憩施設「藻島駅家(めしまのうまや)」の候補地と言われています。


    長者山遺跡応援企画 長者山ガイドツアー

     国史跡に指定された長者山遺跡について、郷土博物館の職員が現地ガイドを行います。
    日時
    12月1日(土曜日) 10時30分〜11時30分
    *小雨決行。荒天の場合は翌日に延期。中止・延期の場合は当日の8時30分までに参加者へ電話連絡します。
    場所
    長者山遺跡(十王町伊師2951周辺)
    *伊師町田園都市センター集合。駐車場の台数に限りがあるため、なるべく乗り合わせてお越しください。 先着30人。
    申し込み
    11月26日(月曜日)の9時から電話で、郷土博物館 
    電話番号 0294-23-3231 IP 050-5528-4923へ



    日立風流物が改めてユネスコ文化遺産に!

    日立風流物が「山・鉾・屋台行事」として改めてユネスコ文化遺産になりました。
     日立風流物は京都祇園祭の山鉾行事とともに、平成21年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されています。
     昨年12月にエチオピアで開催された、ユネスコの「無形文化遺産の保護に関する条約」政府間委員会において、日立風流物など国指定重要無形民俗文化財33件を一括して「山・鉾・屋台行事」として登録することが決まりました。
     日立市では、人類の宝となった日立風流物を後世に伝えるため、日立郷土芸能保存会と協力して、風流物人形制作講座をはじめとする無形民俗文化財後継者育成事業に取り組んでいます。
     また、郷土博物館では、全国各地の「山・鉾・屋台行事」のポスターなどを展示しています(1月29日(日曜日)まで)。ぜひ、ご覧ください。
    問合せ郷土博物館 電話番号0294-23-3231 IP 050-5528-4923


    日立風流物(平成24年神峰神社大祭礼)


     日立風流物がユネスコ無形文化遺産になりました。
     昨年9月30日にアブダビ(アラブ首長国連邦)で開かれた国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の「無形文化遺産の保護に関する条約」(無形文化遺産保護条約) 第4回政府間委員会で、日立風流物を「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」(代表一覧表)へ記載することが決議されました。
     この条約は、昭和47年にユネスコで採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)の枠組みから外れていた無形文化遺産を保護するため、平成15年に採択されたものです。
     日本からはほかに12件が決定しました(下表参照)。


    ユネスコ無形文化遺産になった日立風流物。
    今年の春も、「日立さくらまつり」で公開されますので、ぜひ、ご覧ください。


    更なる発展のため保存伝承に努めます

    日立郷土芸能保存会会長 鈴木幸吉

     日立風流物は、国の重要有形民俗文化財と重要無形民俗文化財の指定を受け広く親しまれていますが、この度第1回のユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載されたとの朗報を受け関係者一同喜びに沸いています。
     また、創始以来、近隣の風流物の消滅が見られるなか多くの災害を乗り越え、全国に類を見ない精巧にして豪壮な風流物をたいせつに守り続けられた先人たちと先覚(せんかく)の匠(たくみ)への感謝の気持ちでいっぱいです。
     今後も日立郷土芸能保存会は、日立風流物の更なる発展を期待し、世界に広く伝えるため、保存伝承に努めていきます。皆さんのご協力をお願いします。

    今回決定した日本のユネスコ無形文化遺産
    日立風流物大日堂舞楽(だいにちどうぶがく)(秋田県鹿角市)、早池峰神楽(はやちねかぐら)(岩手県花巻市)、秋保(あきう)の田植踊(仙台市)、チャッキラコ(神奈川県三浦市)、小千谷縮(おぢやちぢみ)・越後上布(えちごじょうふ)(新潟県)、奥能登のあえのこと(石川県珠洲市など)、京都祗園祭の山鉾行事(やまほこぎょうじ)(京都市)、題目立(だいもくたて)(奈良市)、石州半紙(せきしゅうばんし)(島根県)、甑島(こしきじま)のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)、アイヌ古式舞踊(北海道)、雅楽(ががく)


    ユネスコ無形文化遺産とは
     国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が定めた有名な条約の一つに「世界遺産条約」(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約)がありますが、この条約では、芸能・社会慣習・祭礼行事・伝統工芸技術などの無形文化遺産を保護することが出来ないため、平成15年、新たに「無形文化遺産保護条約」(無形文化遺産の保護に関する条約)が採択されました。
     この条約の目的の一つは、条約締結国が推薦する自国の無形文化遺産目録を、政府間委員会の決定を経て「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」(代表一覧表)へ記載することにより、その保護を図ろうとするものです。




       
    西町支部 本町支部 北町支部 東町支部



    日立風流物の始まり
     日立風流物は、元禄8年(1695年)水戸藩第2代藩主徳川光圀の命によって、神峰神社が宮田・助川・会瀬の3村の鎮守になったとき、氏子たちが造った山車を祭礼に繰り出したのが始まりと考えられており、これに人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間(1716年〜35年)からといわれています。
     また、日立風流物の特徴の一つである「からくり人形」は、村人たちが、当時流行していた人形浄瑠璃などを参考に、人形作りの工夫を重ねながら、技術を自分たちのものにしていったと考えられています。
     4町(東町、北町、本町、西町)の4台の風流物は、村人たちにとって大きな娯楽となりました。4町相互の競い合いもあって、明治中期から大正初期にかけて改良が重ねられ、山車も大型化していきました。
    大正期ごろの風流物

    戦災により焼失
     その風流物も太平洋戦争下の昭和20年7月、米軍の焼夷弾攻撃により2台が焼失、1台が半焼という被害に遭い、人形の首(かしら)も約7割を焼失してしまいました。
     しかし、戦後の昭和29年には宮田風流物保存会(現在の日立郷土芸能保存会)が結成されて復興の機運が高まり、昭和33年5月には1台の復元を果たして、21年ぶりに公開されました。
     日立風流物は、昭和34年には国の重要有形民俗資料(現在の重要有形民俗文化財)、52年には重要無形民俗文化財として指定されましたが、これは山車として指定を受けた全国で最初の例であり快挙というべきものでした。

    後世に伝承するため人形操作体験会なども行われています。

    そして今に…
     昭和41年5月までに4台すべての復元がされ、今では、毎年4月上旬に催される日立さくらまつりや、7年に1度の神峰神社大祭礼(次回は平成24年5月の予定)で公開されています。
     このほか模型が日立シビックセンターや郷土博物館に展示公開されています。


    わたしたちのまちひたちの昔と今

    日立市郷土博物館
     日立市郷土博物館は、郷土の移り変わりや人々の暮らしに関する貴重な資料を集め、研究や展示を行っています。
     今回は、3人の通信員がまちの歴史や文化、昔の人たちの暮らしなどについて取材しました。
    郷土博物館を取材する3人の子ども通信員の皆さんの写真
    郷土博物館を取材して、その魅力に触れた3人の子ども通信員の皆さん
    (写真左から、阿久津翔太さん、伏見幸之介さん、佐藤晃生さん)


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    世界に認められた「日立風流物」

                   台原中学校2年 伏見(ふしみ) 幸之介(こうのすけ)さん
     郷土博物館は、「市民の教養と憩いの場」になることをめざして開館しました。「日立の歴史」を調べるに当たって、欠かせない博物館です。
     その中でも、僕は、「日立風流物(ふうりゅうもの)」という伝統的な祭りについて興味を持ちました。みなさんも日立さくら祭りや日立シビックセンターで見たことがあると思います。
     しかし、日立風流物の本来の姿は、7年に1度行われる「神峰神社大祭礼(だいさいれい)」です。今度の祭りは、平成24年なので、ぜひ行ってみてください。
     日立風流物の特徴は、カラクリです。実際に郷土博物館にもカラクリの仕組みが分かる模型があり、糸を上下に振ると体が動き、びっくりしました。風流物を見る機会があれば、カラクリに注目しながら見てください。
     日立風流物は、ユネスコ無形文化遺産に選ばれました。日立に伝わる伝統芸能である風流物は、世界にも認められたのです。
     僕はこの取材を通して、自分の住んでいる日立市がこんなにもすごい物をつくってきたということにびっくりしました。それは、昔の人が歴史を残して現代に伝えていったからすごいのだと思います。これからもずっと「日立風流物」をたいせつにし、未来に残していきたいと思います
    ふしみさんの写真
    郷土博物館の学芸員から話を聞きました。

    日立の歴史と人々の努力

                     泉丘中学校2年 阿久津(あくつ) 翔太(しょうた)さん
     明治38年、久原房之助(くはらふさのすけ)が日立鉱山を開業し、改善に改善を繰り返して大鉱山へと発展させました。
     そして日立鉱山が出来て5年後の明治43年、小平浪平(おだいらなみへい)が5馬力誘導電動機(ゆうどうでんどうき)を作りあげ、日立製作所を設立しました。
     この2人の活やくによって日立は優れた鉱工業都市となりました。
     しかし、太平洋戦争が始まると、日立市の工場では、ほかの多くの工業都市と同様に兵器が作られるようになりました。
     日立は焼夷弾(しょういだん)爆撃や模擬原爆(もぎげんばく)投下など、4回の攻撃を受けました。工場はほとんどこわされ、多数の死傷者が出ました。4度も空襲を受けたのは、全国的に見ても、日立ぐらいしかないそうです。
     戦後には、人々は焼けあとで農業をしたりしました。 
     家が焼けてしまった人々は、廃材で小さい家のような小屋を作って生活していました。
     僕は、日立の歴史をあまり詳しく知りませんでした。
     しかし、今回郷土博物館に行き、日立にはとても厳しい歴史があること、そしてそのかげで努力を重ねた人々がいることを知りました。
    あくつさんの写真
    館内に展示されている資料を見ながら説明を聞きました。

    今と昔の暮らしの違い

                        久慈中学校3年 佐藤(さとう) 晃生(あきお)さん
     僕が郷土博物館へ行き、最も興味を持ったのが、「古い道具と昔の暮らし」についてです。
     みなさんも知っているように、昔は洗濯物を、たらいなどを使って洗っていました。
     今は洗濯機で洗うのでとても楽ですが、昔の人が手で汚れを落としている姿を想像すると、「冬の間の洗濯は辛かったろうな」と思います。
     また、ご飯を炊くときは、火をおこしてから始まります。今のように自動でご飯が出来上がるわけではありません。
     更(さら)に、下駄(げた)やわらぞうりもあります。僕も下駄を履いたことがありますが、歩くのに苦労したことを覚えています。
     ほかにも、たくさんの道具があり、それを見ていると、今との違いをいろいろと考えます。
     今の日本は昔と違い、物が進化をしています。
     昔の人の暮らしを想像すると、今の生活は楽だなと感じました。
     僕は、この取材を通して、これからも昔の道具や暮らしについて興味や関心を持っていきたいと思いました。
     ぜひ、みなさんも郷土博物館を見学してみてください。
    さとうさんの写真
    博物館には昔のまちや暮らしに関するさまざまな資料が展示されています。


    まちの歴史と文化を知ろう! 「日立市郷土博物館」

     日立市郷土博物館では、日立風流物(ふうりゅうもの)をはじめ、さまざまな展示物から日立市の歴史・文化を感じ取ることが出来ます。
     今回、3人の子ども通信員が、郷土博物館を取材(しゅざい)しました。
    郷土博物館を取材した子ども通信員
    (写真右から早川理菜さん、沢畑瑠里さん、梅原拓真さん)

     日立市郷土博物館は「市民の教養と憩いの場」をテーマに、昭和50年、今から32年前に建てられました。ここには、数万点の展示物が保存されており、視覚的に学習することが出来ます。
     館内には、常設展示室と特別展示室があります。常設展示室には、日立風流物をはじめ、民家の模型、土器などがあり、実際に触れたり、動かしたり出来るコーナーもあります。特別展示室には、多くの素晴らしい作品が飾られています。
     また、月に2・3回学習会が開かれています。パワーポイントなどで詳しく説明してくれるので、知識を増やす良い機会になると思います。
     これから私たちは、日立について多くのことを学ぶ機会があると思います。
     表面だけの知識ではなく、実際に見たり体験したりすることで昔の生活にもっと近づき、新たな発見や意欲を満たすことが出来ると思います。
     「過去から学び、未来を見つめる人づくり」を目標とする日立市郷土博物館を、たくさんの人が利用し、昔を忘れることなく日立の歴史や文化に触れるようになれば、郷土日立に愛着がわき、新たな発展につながると思います。
    職員から説明を受ける子ども通信員

     今回は、郷土博物館を訪問する機会があり、僕は日立市の代表的芸能である日立風流物を取材しました。残念ですが、まだ本物を見たことはありませんが今回の取材で多くのことが分かりました。
     まず、風流物が始まったのは江戸時代中期で300年以上続いていることを知って歴史の長さに感動しました。しかしその風流物も昭和20年7月太平洋戦争末期、アメリカ軍の焼夷弾(しょういだん)攻撃によって当時4台あったうち4台が全焼、1台も半焼し、また、人形の首も約7割を消失してしまうという悲劇に襲われました。
     しかし、郷土有志(後の日立郷土芸能保存会)の人々の努力によって、昭和32年6月、茨城県無形文化財の指定を受けて、昭和33年5月には1台だけ念願の復元を果たし、21年ぶりに公開を成し遂(と)げました。
     重要文化財でもある、こんなすばらしい風流物があり、日立市民として大いに誇りを持てました。
     しかし現在は少子高齢化が進んでしまい、また熟練した技術が必要なため、風流物のからくりを操る人のほとんどの人が高齢者なので、後継者があまりいなくて苦労しているそうです。
     それでも、何としても継続してもらって、後世の人々にも見て欲しいと思いました。
    日立の伝統芸能「日立風流物」を身近に感じることが出来ます。

     春になると、毎年家族でさくらまつりに行き、平和通りにある桜並木を眺め、いろいろな仕掛けのある風流物の演目に感動しています。
     こんなに近くで桜のトンネルをくぐりぬけ、少し日がたつと、今度は地面に桜の絨毯(じゅうたん)が敷(し)きつめられる。自分が住む町に、こんなすてきな場所があるということは、とても幸せだなと思います。
     そんな日立市の歴史を、肌で感じることが出来るのが、郷土博物館です。
     今回、施設見学で一番印象に残ったことは、日立市は皆さんが知らない歴史や出来事が、まだまだあるということです。郷土博物館には、実際に戦争で使われた砲弾の破片やその当時の様子を伝える写真などが収められていました。私は「戦争」という、残虐(ざんぎゃく)な行為があったということを学ぶためにも、戦争を知らない私たち世代が、博物館に足を運ぶべきだと思います。また、戦争を経験したかたがいたら、ぜひお話を聞いてみたいと思いました。
     これから多くの人々が日立の歴史に興味を持ってくれたらうれしいです。
     これからも、戦争で犠牲になったかたがたがいるということを忘れずに、平和に感謝しながら、命をたいせつにしていきたいと、今回の見学を通して強く思いました。
    昔使われていた生活道具から、当時の文化を感じることが出来ます。

    日立市郷土博物館について  日立市郷土博物館は「市民の教養と憩いの場」として、郷土にかかわる考古・歴史・民俗資料および美術資料を収集・保存・展示・研究しています。
     また展示活動のほかにも、講座・体験会、学習会、講演会、ワークショップ(制作体験)なども随時開催しています。
     さらに館発行の図書資料、日立に関する資料などの閲覧・頒布も行っています。
    常設展示常設展示では、豊かな自然の中で展開されてきた日立の歴史と産業の移り変わり、庶民のくらしとまつりに関する資料を展示しています。
    1F常設展示室「日立の歴史」日立のあけぼのをつげる旧石器時代にはじまり、近代にいたる日立地方の歴史や文化に関する資料を展示しています。
    2F常設展示室「日立の民俗と産業」日立鉱山と日立製作所の創業にともなう日立の近代産業、および日立地方のくらしと年中行事、代表的なまつりを紹介しています。
    特別展示室考古・歴史・民俗・美術の各分野の特別展・企画展を年数回開催しています。
    利用案内 ○開館時間9:30〜16:30 
    ○休館日 月曜、祝日、年末年始(展覧会開催期間中の祝日は開館) 
    ○入館料 無料(特別展示は有料)

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