写真機は単に眼球の延長ではなく、頭脳の延長でもある。
それは記憶よりも鮮明であり、細部のディテールまでをも映し出し、
印画として定着させる。
しかしそれは”記憶”ではない、”写真”である。
”記憶”は頭脳の中に”イメージ”という名の映像で定着させる。
そこには”写真”ほどの鮮やかさや、精密さは無いが、
曖昧さが作り出す無数の”イメージ”が存在するのである。
都市に目(カメラ)を向けると頭脳を”残像”としての都市の”イメージ”が
通り抜け、”記憶”として頭脳に定着する。”記憶”としての都市は、
曖昧さの作り出す”残像”としての”イメージ”であるようにも思える。
ここに綴られているのものは”写真”の形を借りた”記憶”の断片である。
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このコンセプトが原点である「都市の残像」も
デジタルカメラという新しい目を手に入れて、
変わっていないようで変わった。
ある人は「デジタルカメラでは写真は撮れない」と
かなり過激な発言もしているのだが、
デジタルカメラに関して論じる場ではないのでさておき、
自分はスナップショットにデジタルカメラを持ち込むことを
試行してみたかったのだ。
デジタルカメラの最大の弱点はそのタイムラグにある。
タイムラグの大きさは、スナップショットにとっては
致命的ともいえる弱点である。
一瞬を捕らえるためのカメラがその一瞬を逃してしまう。
そんなジレンマは高級一眼デジカメである程度は解消されるのだが、
スナップショットに使うには仰々しすぎる嫌いがある。
レスポンスの良く、携帯性も良いデジカメというのは
ほとんどない。
書き込み時間のイライラも募る。
そこでたまたま手にした35万画素という
デジカメ初期のスペック程度のデジタルカメラ。
このクラスは今ではトイデジカメクラスなのだが、
起動のレスポンス、シャッターのタイムラグ、書き込み時間の短さ。
これが今主流になっているクラスのデジカメよりもいい。
もともと、「都市の残像」には高画質はいらない。
銀塩版「都市の残像」に使っていたカメラはコニカのHEXAR、
これはタイムラグとレスポンスを重視してこうなったのだが、
描写力はオーバースペックであったと思う。
この作風に見合ったカメラがこのデジカメだったのかもしれない。
そう思い、このデジカメで何百ものカットを撮影し、
31カットを選りすぐってみた。
使用機材 CASIO DIGITALCAMERA LV-10