司教様へ 第七信
2006年10月30日
† 主の平安
〇〇司教様。
司教様、お元気でおられますでしょうか。
跪きのことでお世話になりました〇〇です。
あれから数度、〇〇神父様司式の御ミサで跪いて御聖体を受けました。「何も問題ありません」と御報告させて頂きます。
神父様との事前の打ち合わせでは、「司祭が動かなくていいように、あなたが一段上のところに跪いて下さい」と言われましたので、それに従っています。また司教様に言われたことに従い、行列の最後に並ぶか、あるいは普通に中間に並ぶ時には後ろの人に一声かけるかしています。今のところ何の問題もないように思います。
今回私に跪きをお認め下さいましたことを、改めて心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
「聖人達に倣いたい」ということを主な特別な事情としてお認め頂きましたので、それに恥じないよう、私はこれから頑張らなければなりません。あまり自信がありませんが・・。
また二、三、平信徒の声を聞いて頂きたく思います。
最後の面会の折りに司教様は、「今度聖座に行った時に、私は文句を言ってこようと思ってます」とおっしゃいました。すなわち「聖座は、典礼を決める権限を各国司教協議会に渡しておきながら、今になって『これは違法です』などと言う。そんなことなら権限を渡したことにどんな意味があるのか」と。
しかしながら司教様、どうか聖座の指示を善意にお汲み取りになりますようにお願い申し上げます。聖座に悪意はないことはあまりに明らかではないでしょうか。聖座は信徒の心を保護しようとしているだけなのだと思います。信徒の自然な敬虔の表現を結果として抑圧することにならないようにと気を配っているだけなのではないでしょうか。それは間違いなく好もしいことです。というより教会の指導者として当然そうあらねばならないことです。
それに、典礼を決める権限を各国司教協議会に渡す際、両者の間に共通理解を形成するにおいて、両者共に不足があったのではないでしょうか。もし本当にその必要があるなら、もっと具体的なケースを想定して論議し、細かく規定すべきだったのではないでしょうか。「その権限はどの程度の規制力を持つのか。古い習慣をどの程度の力をもって除外しようとするのか」など。(あくまで「もしそういうことが必要ならば」の話です。私自身は、舌による拝領を汚聖の危険を未然に回避するための方策として、跪いての拝領を天主様に対する崇敬の当然の表現として、またその涵養の手段として、個人的には強烈に支持します。──しかし今の教会では「汚聖」という観念自体が、実際ほとんど死に絶えているようではありませんか?)
最初の面会で司教様と〇〇〇神父様がおっしゃったように、ローマは法というものをいつも「緩やかなもの」と考えているのかも知れません。日本が「原則」と考えるところを「標準」程度に考えるのかも知れません。
しかしどちらにせよ、私は司教様に、どうか信徒の霊的利益を第一にお考え下さいとお願い申し上げます。そうしていつも聖座の良い意向をお汲み取りになり、教皇様をも優しいお心で擁護なさって下さいとお願い申し上げます。(司教様が教皇様がその「イスラムに対する不用意な発言」によって苦境に立たされていることをあげて、「教皇だってあのように間違うんだから」と言って軽く笑われた時・・・そこに悪意はなかったと信じますが、それでも私は寂しく思いました。)
また、司教様の「神は人間を『一本釣り』で救おうとなさらず、いつも共同体を救いの対象としている」というお言葉も、私の耳に残っています。
私は「それはそうだ」と思います。しかし、このことを別の方向から見てみることも大事だろうと思います。共同体は果たしていついかなる時も完全でしょうか? 共同体はただ「それが共同体だから」という理由で、いつも正しいでしょうか? 私は、そういうことにはならないと思うのです。現に少なくとも今回のケースで、私は共同体を導く司祭の姿勢に大変戸惑いました。共同体は聖霊に導かれるべきものですが、それは「いついかなる時もそうである。現に、既に、そうである」という完全な保証が付いたものではありません。聖霊の御働きから外れて、ピントがずれて、単に人間の集団の総意に近いものになる可能性もあります。聖霊は唯一普遍の教会に常にお働きかけ下さっていますが、人間の側の「受信」の問題もとりわけ大きなものだからです。
また、私は決して司教様の揚げ足を取るつもりではありませんが、もし「教皇も間違うことがある」のであれば(実際、あると思います)、「共同体」を率いる各国の教導職の方々が神の御前に間違う可能性もまた視野に入れておかなければならない、ということにならないでしょうか。(私は、私が司教様に「札幌の多くの信者達が疑いもなくスリッパや靴に触れたままの手で御聖体を受けている」ことを申し上げた時、司教様が「事は御聖体のことなので、一つ一つのことを丁寧に、心を込め神経を使って考えましょう」とおっしゃるかわりに、「それだけでは汚聖とは言えない。もっと全体の視野の下で見なければならない。どうか一つの事だけに捕らわれないで下さい」とお答えになり、信徒に対して御聖体に向う姿勢について少しも改めての注意喚起をなさらないようであるのを見て、かなりショックを受けました。司教様は、御聖体に対するそのような御態度が天主様の御前に間違っている可能性について、少しもお考えになりませんか? それは司教様の中で常に教会の歴史的な観点だけから見られる問題ですか? しかしこれは教会の歴史も何も知らぬ今年教会に入ったばかりの者が申し上げているのです。)
うまく言えませんが、司教様、私はただ個人の権利を主張していたのではなく、共同体のことを考えていました。それは初めから、そうでした。
個と共同体はいつも難しい問題をはらんでいると思います。個がいつも間違っているわけでもなく、共同体がいつも正しいわけでもないと思うのです。もし聖霊が特定の個人に働きかけることをもって教会共同体を変えようとなさった時──これはもちろん私のケースのことではありません。もちろんです。しかし、そういうことが教会の歴史の中に数多くあったと思います──司教様はどうされますか? どうお受け取りになりますか?
また、司教様はおっしゃいました、「あなたは聖人達に倣いたいと言いますが、私はこう疑うのです──それではもし彼らが今の時代に生まれて、教会の教導職から『立つことが原則なのでそれに従って下さい』と言われた場合、彼らはそれに対して『いや、私は私として絶対に跪きたいので、絶対にそうさせて頂きます』と長上に逆らうようなことを言うものでしょうか?」と。
私としては、司教様、「この設問は初めから成立しない」と言わなければなりません。私の感覚では、彼らは彼らの時代に生まれたからこそ聖人になれたのだと思います。彼らといえども一面は「共同体の花」だったろうと思います。率直に言えば、私は、「人間性」が勝ちすぎて、「聖人」も「聖性」も「成聖」もその影を潜めた現在の教会からは──御聖体が「真に」主の御体であるということに関して、また「全実体変化」という単語に関して、いつも躊躇し、口ごもっているような現在の教会からは──真の聖人は出てこないだろうと思っています。
口幅ったいことを申しました。お許し下さい。
〔管理人: 以下もう少し続きますが省略します〕
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