司教様へ 第三信
2006年5月12日
〇〇司教様。
† 主の平安
司教様が会議のため御不在となるということで、代理の神父様から御返答を頂きました。ありがとうございました。
その御返事の中で、司教様からの伝言として、「もし、面談したいということでしたらお時間をお取りすることができます」とありました。これも感謝して、お受けしたいと思います。後ほど私の方から、日取りを取り決める為に、お電話させて頂こうと思います。
代理の神父様のお手紙の内容も、司教様に代わって、司教様の御心を表現したものと受け取ってよいのでしょうか? このことが少し私を戸惑わせます。
その神父様は典礼の歴史について書かれています。私もこのようなことに関して、おおよそのことは知っています。しかし私はこの問題──御聖体拝領の際の信徒の姿勢の問題──を考える時に、それほど(つまり完全にではありませんが)歴史のことは気にしません。私にとって「古いか新しいか」は最重要のことではありません。私が問題にしているのは、次の二点です。
第一:「現在の教皇(庁)の首位権をどう考えるか」
第二:それに関連して、法の体系の中に含まれる各部分、各要素の関係性(優先順位など)をどう考えるか。
まず、教会法は、第331条において、次のように言っています。
ローマの教会の司教は、司教団のかしらであり、キリストの代理者、かつこの地上における普遍教会の牧者である。このローマの教会の司教は、主が第一の使徒であるペトロに特別に委任し、かつその後継者が継承すべきものとして存続する任務を有している。したがって教皇は、その任務からして教会の最高、十全、直接かつ普遍の通常権を有し、常にこれを自由に行使することができる。
また第843条第一節において次のように言っています。
聖務者は、適切に秘跡を求めるものに対し、そのものがふさわしく準備しており、かつ教会法上秘跡の拝領を禁じられているものでないならば、それを拒んではならない。
無教養な私が慣れない口調で言った「法の体系の中に含まれる各部分、各要素の関係性(優先順位など)」において、教会法は明らかに、私達の教会のあらゆる規則、規定の総体の中において、何よりも先行されるべき「大前提」に位置するものの筈です。
しかし法というものは何時も、不完全な「言葉」というもので成り立っており、曖昧さを、つまり解釈の余地を残しているものです。
ですから、上の教会法第843条第一節で言われている「適切に秘跡を求める」の「適切に」、「そのものがふさわしく準備しており」の「ふさわしく」も、あるいは人によって解釈の分かれるところかも知れません。
インカルチュレーションの方針と権限に従い、日本の司教様方は「日本では、ひざまずく代わりに、合掌して深く礼をする」とお決めになりました。ですから、御聖体拝領の際に、私達の為にあの酷い御苦しみを忍ばれ、その御命を天主様にお捧げになった主イエズス様に対して、信者が、カルトに属するのでもなんでもなく、ただ素朴な信仰の心から、主に謙遜を示す為にどうしても跪きたいと念願する時にでさえ、各部分教会の「共同体としての一致のしるし」の観点から、それが「秘跡を求める際の心構えとして不適切な者である」「ふさわしく準備していない者である」と解釈することも、議論としては可能かも知れません。そして、「それ故に、その者は結果として、御聖体拝領の機会を失っても仕方がない」と言うことも、言葉としては可能かも知れません。
しかしそのようなものは、私達の普遍の教会の法と愛に照らして、果してまっとうな規定の解釈あるいは適応の仕方でしょうか?
私の始めの書簡で触れましたように、教皇庁典礼秘跡省は2004年3月25日、『指針 あがないの秘跡 (Redemptionis Sacramentum)』という文書を公布しましたが、その第91項において、次のように言っています。
聖体を配るにあたっては「聖務者は、適切に秘跡を求めるものに対し、そのものがふさわしく準備しており、かつ教会法上秘跡の拝領を禁じられているものでないならば、それを拒んではならない」ということを記憶しておくべきです(177)。ですから、洗礼を受けていて、教会法上問題のない信徒はみな、聖体拝領を許されなければなりません。したがって、例えば、ひざまずいて聖体を受けたがっていたり、立って受けたがっていたりするという理由だけで信徒が拝領を拒否されるのは違法なことです。
この文言は明らかに、「跪いて御聖体を受けたがっている」信者は、このことだけで「教会法上問題がある」とはされない、と言っているのです。私は、これが、教会法もインカルチュレーションも含んだ全体の中での、跪きの問題に関してのごくまっとうな、当たり前の解釈だと思っています。
そして、「違法(not licit)」は決して弱い言葉ではありません。
そして、これは(典礼秘跡省公布「指針 あがないの秘跡」)例外なく全世界のすべての教会とその連合に対して、発せられた指針です。
そして、これは教皇庁の中の一聖省が正式に公布したものであり、当然教皇様の認可を受けているので、教皇様御自身の御言葉として受け取られるべきものです。
そして、教皇様の首位権を定めた教会法第331条は今も当然有効であります。
私の目に映じているのは、ただ以上のようなことです。かなり端的なものであり、本当は議論の余地などほとんどないものだと私は思っています。
現在の「カトリック新教会法典」の始めに、教会行政法制委員会長としての司教様の御言葉が載っています。ですから、司教様は教会法と教会行政の大家(たいか)であられると存じます。それで、私としてはかなり畏れ多い気も致しますが、近々御面会の幸いを得て、御考えを拝聴したいと思っております。
それでは、来週の始めにでも私の方からお電話を差し上げ、日取りを取り決めさせて頂きたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
祈りと共に。
2006年5月12日(金)
[氏 名]
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