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10.光明と分別

第99章

我意を殺すよりも肉体を苦しめることに力を入れる人々について。──一般的光明よりも完全な光明、第二の光明があることについて。

 これまで話した一般的光明を獲得した霊魂は、それで満足してはならない。なぜなら、あなたがたは、この世を旅しているかぎり、進歩することができるし、また、進歩しなければならないからである。進まない者は退く。あるいは、わたしの恩寵の助けによって獲得した一般的な光明のなかで進歩するか、あるいは、もっと完全な第二の光明に達するよう懸命に努力し、不完全から完全に移るか、しなければならない。なぜなら、光明は完全をめざして歩くために与えられるからである。
 このもっと完全な第二の光明を所有するのは、二種類の完全者である。そして、完全者とは、世の普通の生活を去った人々である。完全には二通りある。一つは、厳しい荒業によって肉体をこらしめるよう全力をあげて努力する人々のめざす完全である。この人々は、官能が理性に反抗するのをさまたげるために、その望みのすべてを挙げて、我意を殺すことよりも肉体を苦しめることに全力を注ぐ。これは他の所で話したとおりである。この人々は、苦業の食卓で食べる。もしも、かれらの苦業が適度の分別をもち、わたしに土台を置いているならば、すなわち、自分自身と「わたし」とを認識し、大きな謙遜を抱き、人間の意志によってではなく、わたしの意志にもとづいて判断するよう絶えず努力するならば、かれらは善良であり、完全である。
 しかし、このように、まことの謙遜によって、わたしの意志をまとっていないならば、しばしば、その完全性がそこなわれる。自分たちが歩いている道を歩まない人々の批判者になりすますからである。どうしてそのようになるか、知っているであろうか。それは、その熱誠と望みとを、我意を殺すことよりも、肉体を苦しめることに置くからである。かれらは、いつも、時と場所と霊的慰めとを、自分の好みによって選ぶし、世の艱難や悪魔の攻撃も、同じである。これは第二の不完全な状態について述べたとき話したとおりである。かれらは、わたしが「霊的意志」と呼んだ我意によって盲目にされ、自分自身をあざむいている。そして、言うのである。「わたしが望んでいるのは、悪魔の攻撃と誘惑ではなくて、慰めである。わたしがこれを望むのはわたしのためでなく、もっと神によろこばれるために、もっと多くの恩寵をわたしの霊魂のなかに所有するためである。なぜなら、他の方法によるよりもこの方法によって恩寵を所有し、神に仕える方がよいと思われるからである」。
 そのため、この霊魂は、しばしば、悲哀と倦怠とにおちいり、自分自身にさえ堪えがたい者となる。それによって、その完全性がそこなわれるのであるが、それに気付かない。自分が傲慢の悪臭のなかに落ちこみ、そこに横たわっていることをさとらない。もしも、そうではなく、まことに謙遜で、思いあがりがないならば、この光明によって、わたしが各人に時、所、慰め、艱難を、あなたがたの救いと完全性の獲得とのために、必要に応じて分け与えること、そして、霊魂をそこに招いていることを、さとるであろう。そのうえ、すべては愛によって与えられるのであるから、わたしが与えるすべてのものを、愛と敬意とをもって受けなければならないことをさとるにちがいない。第二の部類に属する人々、すなわち第三の状態に達する人々はそうするのである。これから、この人々について話したい。かれらは、きわめて完全な光明の二つの状態のなかに生きている。

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