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9.涙の霊性

第95章

第二の涙と第三の涙との実について。

 これから、罰を恐れて罪を去りはじめ、恩寵を獲得する人々が収める実について、話さなければならない。ところで、罰を恐れて、大罪による死から脱出する者がある。しかも、それは、みながなすべきことである。
 この人々は、どのような実を収めるであろうか。まず、その自由意志を奴隷的な恐れから脱却させる程度に応じて、その霊魂の家を罪のよごれから清める。霊魂は、過失を洗い流すと、良心の平和を取り戻し、その愛情を規制し、その知性の目を開いて、自分のあるがままの姿を見定める。この浄化の第一段階では、自分自身のなかに、いろいろの罪しか認めることができなかった。ところが、いまは、良心のうじ虫がしずかになり、霊魂は善徳を食べることができるので、慰めを感じはじめる。
 人間は、その胃から体液を取り除くと、食欲が出て、多少食物を摂取することができるようになる。霊魂も、これと同じように、その自由意志のなかに、食物である善徳に対する愛があらわれるのを待っている。そして、それがあらわれると、すぐ食べたくなる。
 事実、霊魂は、最初の恐れを利用して、愛情を罪から清め、その実を収めるようになる。これが第二の涙、すなわち第二の状態の涙である。そこで、霊魂は、愛の情念によって、まだ不完全ではあるが、善徳の家を建てはじめる。恐れから脱出した霊魂は、慰めと喜びとを感じる。なぜなら、霊魂の愛は、愛そのものであるわたしの「真理」のなかで、喜びに浸るからである。
 霊魂は、わたしのなかに感じるこの平和と慰めとをきわめて心地よく愛するようになり、わたしから与えられるこの喜び、あるいは、わたしが被造物を介して与えるこの喜びが、いかにも心地よいことをさとる。
 恐れから清められた霊魂は、その内的住居に入って、愛を実行しながら、わたしの神的「いつくしみ」の実を収めはじめ、この内的住居に定住する。そして、愛によってこれを実際に所有すると、きわめて多様な慰めの実を受けて、これを味わう。最後に、霊魂は、忍耐深く実を収め、食卓をととのえる。つまり、霊魂は、恐れを通りすぎて善徳に対する愛に達すると、食卓につくのである。
 第三の涙に到達したのである。そこで、霊魂は、その心のなかに、至聖なる十字架の食卓を設ける。その上には、甘美な愛の「言葉」の食物が供えられている。「父」であるわたしの誉れとあなたがたの救いとがこれである。なぜなら、わたしの「ひとり子」の体は、わたしの誉れとあなたがたの救いとのために開かれ、あなたがたの食物として与えられたからである。そこで、霊魂は、わたしの誉れと霊魂の救いとを食べはじめる。罪に対する憎しみと嫌悪とを香味料として。
 霊魂は、この第三の状態の涙から、どのような実を収めるであろうか。それについて話したい。それはまず、自分の官能に対する聖なる憎しみにもとづく力であり、まことの謙遜の心地よい実であり、あらゆるつまずきを除き、霊魂をあらゆる苦しみから解放する忍耐である。それというのも、すべての罪の根源である我意を、聖なる憎しみの剣によって刺し殺したからである。官能的な意志は、前に話したように、侮辱、迫害、霊的あるいは地上的慰めの喪失につまずき、それを機会として、不忍耐におちいる。しかし、意志の死後、霊魂は、悲しくも心地よい望みのなかで、甘美な忍耐の涙の実を味わいはじめるのである。
 ああ、いとも甘美なる実よ、おまえは、おまえを味わう人々にとって、どんなに心地よく、「わたし」にとって、どんなに快いことであろうか。おまえは、苦悩のなかに喜びを、侮辱のなかに平和を見出させる。おまえのおかげで、あらしの海で激しい風にもてあそばれている霊魂の小舟は、平静安全で、なんの損害も受けないし、まことの熱烈な仁愛をこれにまとわせた神の優しくも永遠な「意志」のかげに守られているので、波浪に呑みこまれることもない。
 ああ、いとしいむすめよ、「忍耐」は女王である。城砦の岩の上に陣取っていて、いつも勝利を占め、決して敗北することがない。忍耐はひとりではない。堅忍という伴侶を連れている。忍耐は仁愛の髄である。霊魂がまとっている仁愛が、婚礼の服であることを証明するのは、この忍耐である。この服に、不完全によって、裂け目が生じたときは、すぐさま、忍耐の不足がこれを示す。
 他のすべての善徳については、ときどき、まちがうことがある。これらの善徳は、完全でないのに、完全であるように思われることがある。しかし、この優しい忍耐が、霊魂にやどっている仁愛の髄であるならば、それによって、すべての善徳が完全で、生き生きとしていることが示される。もしも、善徳がこの証拠を示すことができないとしたら、まだ不完全な状態にあるからであり、まだ至聖なる「十字架」の食卓に着いていないからである。忍耐は、この食卓で、自分自身の認識とわたしの「いつくしみ」の認識とのなかで宿され、聖なる憎しみによって出産されていて、まことの謙遜の油にぬれている。
 忍耐は、この食卓の上に供えられている食料、すなわち、「わたし」の誉れと霊魂の救いとを、決して拒むことがなく、絶えず食べる。これは真実である。いとしいむすめよ、優しく栄光にかがやく殉教者たちを眺めるがよい。かれらは、どんなに忍耐して、この食物を食べたことであろうか。どんなに霊魂を食べたことであろうか。かれらの死は生命を与えた。かれらは死者を復活させ、大罪の暗黒を払った。世とその栄誉も、君主とその権力も、かれらに対して自己を防衛することができなかった。かれらは、この女王である善徳、すなわち優しい忍耐によって、すべてに勝利を占めた。この善徳こそ、燭台の上の燈明である。
 以上が、隣人に対する仁愛と一つになった涙の生ずる実である。霊魂は、至聖なる「十字架」の食卓で、わたしの「ひとり子」、けがれなき「子羊」といっしょに、激しく痛ましい望みのなかで、そしてまた、その創造主であるわたしに加えられる侮辱を思う堪えがたい悲しみのなかで、この食物を食べる。しかしながら、この苦しみは刑苦ではない。なぜなら、愛が、まことの忍耐によって、恐れと自己の苦しみに影響されやすい自愛心とを、ことごとく滅したからである。むしろ、この苦しみは慰めに満ちている。その対象は、わたしに加えられる侮辱と隣人の亡びだけであって、その泉は仁愛である。それゆえ、この苦しみは霊魂をふとらせる。それと同時に、霊魂にとって喜びの源である。なぜなら、「わたし」が恩寵によって霊魂に現存することの疑うことのできない証拠を示すからである。

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